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日本の第18代内閣総理大臣(1852-1919) ウィキペディアから
寺内 正毅(てらうち まさたけ[注釈 1]、旧字体:寺內 正毅、1852年2月24日〈嘉永5年2月5日〉- 1919年〈大正8年〉11月3日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家[1]。軍人としての階級は元帥陸軍大将[1]。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は伯爵。
寺內 正毅 | |
---|---|
肖像 | |
生年月日 |
1852年2月24日 (嘉永5年2月5日) |
出生地 |
日本、周防国吉敷郡平川村 (現:山口県山口市) |
没年月日 | 1919年11月3日(67歳没) |
死没地 | 日本、東京府 |
出身校 | 陸軍戸山学校卒業 |
前職 |
武士(長州藩士) 陸軍軍人 |
所属政党 | 無所属 |
称号 |
正二位 大勲位菊花大綬章 功一級金鵄勲章 勲一等旭日桐花大綬章 元帥陸軍大将 伯爵 |
配偶者 |
寺内タニ(前妻) 寺内タキ(後妻) |
子女 |
寺内寿一(長男) 寺内毅雄(次男) 兒玉澤子(長女) 福羽須恵(四女) |
親族 |
宇多田正輔(父) 兒玉秀雄(娘婿) |
サイン | |
第18代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 寺内内閣 |
在任期間 | 1916年10月9日 - 1918年9月29日 |
天皇 | 大正天皇 |
外務大臣臨時兼任(内閣総理大臣兼任) | |
内閣 | 寺内内閣 |
在任期間 | 1916年10月9日 - 1916年11月21日 |
第19代 大蔵大臣(内閣総理大臣兼任) | |
内閣 | 寺内内閣 |
在任期間 | 1916年10月9日 - 1916年12月16日 |
初代 朝鮮総督 | |
在任期間 | 1910年10月1日 - 1916年10月16日 |
第3代 韓国統監 | |
在任期間 | 1910年5月30日 - 1910年10月1日 |
その他の職歴 | |
外務大臣臨時兼任(陸相兼任) (1908年7月14日 - 1908年8月27日) | |
第7代 陸軍大臣 (1902年3月27日 - 1911年8月30日) |
陸軍大臣(第7代)、外務大臣臨時兼任(第2次桂内閣・寺内内閣)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第19代)などを歴任した。
明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。その後、曾禰荒助の後任として韓国統監に就任し、日本への併合を推し進めた。韓国併合後は朝鮮総督に就任した。のちに内地に帰還すると、寺内内閣を発足させ、内閣総理大臣を務めるとともに、外務大臣や大蔵大臣といった国務大臣を兼任した。元帥府に列せられていることから、階級を呼称する際には元帥の称号を冠して「元帥陸軍大将」と称される。
嘉永5年(1852年)、周防国吉敷郡平井村[2](のちの山口県山口市)に長州藩士・宇多田正輔の三男として生まれる。出生名は宇多田 寿三郎。後に母猛子の弟にあたる寺内勘右衛門の養嗣子となる[3]。
1864年に奇兵隊の中では武士が中心として組織された多治比隊に入隊する[4]。功山寺挙兵後の再編成の際に御楯隊に転籍し、三田尻で西洋銃の操作や国学を学んだ。15歳にして四境戦争に従軍[5]。その後も戊辰戦争、箱館戦争と転戦した。箱館戦の時に18歳であった[5]。
凱旋後の明治2年7月に山田顕義兵部大丞の勧奨に応じて京都でフランス流の軍学を学び[5]、明治3年6月に兵部省第一教導隊を卒業して下士官となり、明治5年2月に大尉に昇進[6]。
フランス留学を希望した寺内は1872年に陸軍を休職し語学を学んだが、その機会は訪れなかった[4]。明治6年(1873年)に士官養成所陸軍戸山学校に入学し、翌年に卒業する。卒業後は新設された陸軍士官学校にスタッフとして所属し、生徒司令副官を務めた[6]。
明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、当初後備部隊の大隊長に任じられたが前線を志願し[4]、最大の激戦とされた田原坂の戦いで銃撃を受けて負傷して右手の自由をなくした[7]。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。
1878年に士官学校生徒大隊司令官心得という職務を経た後、明治15年(1882年)閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学する[7]。翌年には駐在武官に任ぜられ、1886年までフランスに滞在した[4]。帰国後は、陸軍大臣官房副長(1886年)、陸軍士官学校長(1887年)、第1師団参謀長(1891年)、参謀本部第一局長(1892年)とキャリアを重ねた。 明治27年(1894年)の日清戦争では兵站の最高責任者である大本営運輸通信長官を務めた。その後、歩兵第3旅団長(1896年)、教育総監(1898年)を経て、明治33年(1900年)より参謀本部次長に就き、義和団の乱では現地に赴いた。
第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相を務めた[注釈 2]。 明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将に栄進した。明治40年(1907年)9月、戊辰・西南・日清・日露の各戦役の軍功によって子爵を授けられた。
明治42年(1909年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監・曾禰荒助が辞職すると明治43年(1910年)5月30日、陸相のまま第3代韓国統監を兼任し、同年8月22日の日韓併合と共に10月1日、朝鮮総督府が設置されると、引き続き陸相兼任のまま初代朝鮮総督に就任した。なお、陸相兼任は第2次西園寺内閣の成立で石本新六が陸相に就任するまで続いた。朝鮮総督は天皇に直隷し、委任の範囲内に於いて朝鮮防備のための軍事権を行使し、内閣総理大臣を経由して立法権、行政権、司法権にわたる多岐な権限を持った。寺内は憲兵に警察を兼務させる憲兵警察制度を創始し、朝鮮の治安維持を行ったことなどに対して、後に武断政治と評価された。明治44年(1911年)4月、韓国併合の功によって伯爵を授けられた。
大正5年(1916年)6月24日、元帥府に列せられる。10月16日に総督を辞任し、10月19日には内閣総理大臣に就任。朝鮮総督としての功績を認められてのことである。寺内の頭の形がビリケン人形にそっくりだったことから、これに超然内閣の「非立憲(ひりっけん)」をひっかけて「ビリケン内閣」と呼ばれた。時は第一次世界大戦の最中であり、寺内は大正7年(1918年)8月2日にシベリア出兵を宣言したが、米騒動の責任をとって9月21日に総辞職した。
寺内自身は内閣末期には既に病気がちであり、翌年に心臓肥大症のため平井赤十字病院において薨去[8]。享年68。墓所は生誕地である山口市宮野に所在し、子息の寺内寿一の墓もそこにある。また、宮野には朝鮮関係などの書籍を寄贈した私設図書館「寺内桜圃文庫」を設立した。寺内桜圃文庫の書籍は戦後、山口県立大学に移され、さらに朝鮮関係の一部は韓国の慶南大学校に移管された[9]。寺内桜圃文庫の元の建物は、2011年現在も山口県立大学に隣接する形で残されている[10]。
寺内家は、出羽国戸沢氏の庶流で、陸奥国行方郡寺内村に住して寺内を称したのに始まると伝わる[44][45]。のちに周防国大内氏に仕え、ついで毛利氏に仕えるようになった家系である[45]。
寺内正毅の没後に三宅坂に北村西望作の馬上像があったが、戦争中に金属回収で溶解された。寺内正毅像があった場所には、昭和26年(1951年)に「平和の群像」という3人の裸女像が作られた[47]。
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