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日本の政治家 ウィキペディアから
中根 康浩(なかね やすひろ、1962年〈昭和37年〉8月17日[1] ‐ )は、日本の政治家、行政書士。愛知県岡崎市長(1期)、衆議院議員(4期)、岡崎市議会議員(1期)、経済産業大臣政務官(野田第1次改造内閣・野田第2次改造内閣)などを歴任。
中根 康浩 なかね やすひろ | |
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内閣府地方創生推進室より公表された肖像 | |
生年月日 | 1962年8月17日(62歳) |
出生地 | 日本 愛知県岡崎市 |
出身校 | 早稲田大学商学部 |
所属政党 |
(自由民主党→) (新生党→) (新進党→) (民主党(赤松G)→) (民進党(細野G)→) (希望の党→) 無所属 |
称号 | 商学士 |
親族 | 父・中根薫(愛知県議会議員、岡崎市議会議員) |
公式サイト | 中根やすひろ公式サイト |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 2020年10月21日 - 2024年10月20日 |
選挙区 |
(比例東海ブロック→) (愛知12区→) 比例東海ブロック |
当選回数 | 4回 |
在任期間 |
2003年11月10日 - 2005年8月8日 2009年9月11日 - 2017年9月28日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1988年10月 - 1991年8月16日 |
父親の中根薫は1960年代初め、岡崎市青年団体連絡協議会長として青年団活動に力を入れていた[3][4]。その過程で、県議選への出馬を目論んでいた愛知新聞社社主の内田喜久を知る。内田に心酔した中根薫は1962年に生まれた子に、内田の長男・康宏の名前をとって「康浩」と名付けた[4]。薫は内田を応援し[5]、保守乱戦となった1963年の県議選で内田は初当選した[6]。1971年4月、内田は岡崎市長に初当選。1975年3月から滝町の滝団地の入居が始まると、薫はこれに目をつけ、1977年4月に滝団地内に「かおる幼稚園」を開設した[7][8]。
中根康浩は岡崎市立常磐小学校[9]、岡崎市立常磐中学校を経て、1978年に愛知県立岡崎高等学校に入学[10]。
翌1979年、父親の薫が内田市長の全面協力を得て、県議選に自民党公認で立候補。「キク(喜久)かおる(薫)」をキャッチフレーズに選挙を戦い、トップ当選を果たした[4][11]。当選後は内田市政と県政を結ぶパイプ役を自任。内田との密着度を深めた[4][注 1]。
衆議院が解散した1980年5月19日、政治団体「明日の岡崎をきずく会」は内田の長男の内田康宏を無所属候補として擁立[14]。内田の命を受けた同団体代表の浅井正三市議は5月20日、自民党市議29人にそれぞれ10万円を渡した[15]。中根薫は協力を約束する一方で、「市長が、おんぶにだっこに肩車で息子をかつぎ出した」「後援会のカネを息子に使うのは末期的症状」と陰で揶揄した[16][17]。内田も内田で、薫に対する疑いは晴れなかった。県議わずか1年目の薫が党規に背いてまで無所属の康宏を応援する保証はなかった。5月26日深更、内田と側近の岩瀬信一市議は滝山寺三門わきに車をとめ、薫の自宅を訪れた。1時間ほど雑談をしたのち内田が先に玄関を出る。岩瀬は現金500万円の入った袋をカーペットの上に置き、青木川沿いの暗い道を足早に消えた[18][19][20]。薫は選対委員長に就き、選挙戦の陣頭指揮を執った[16]。6月22日、総選挙執行。康宏は次点で落選。
自民党のみならず社会党の岡村秀夫市議にまで手を広げた買収工作は警察や反対陣営に筒抜けであった[21][22][23]。そのため内田は6月27日に逮捕された。7月初め、内田の義弟は薫の自宅に保管してあった500万円を別の場所に移し替え、ほどなく証拠隠滅の容疑で逮捕された[24]。7月10日、薫も公選法違反容疑で逮捕されるが[注 2]、公判では一貫して無罪を主張した[20]。
1981年4月、中根康浩は早稲田大学商学部に進学。1983年、薫は裁判中の内田の支援を受けて県議選に無所属で立候補し、得票数3位で再選[27][28]。
1985年3月、早稲田大学を卒業[29]。同年4月、戸塚進也衆議院議員の秘書となる[30]。同年4月15日付で最高裁は薫の上告を棄却。薫は有罪判決(懲役2年、執行猶予5年、追徴金500万円)の確定前に県議を辞職した[31]。
1988年10月、岡崎市議会議員選挙に無所属で立候補し初当選[32]。自民党系の会派「自由民主クラブ」に所属した[33]。
1990年2月18日の第39回衆議院議員総選挙において自民党の杉浦正健が2期目の当選を果たすが、翌2月19日、杉浦の後援会事務局長の鈴木康夫が逮捕され、票の取りまとめに関する現金買収事件が発覚した[34]。会派「自由民主クラブ」所属の岡崎市議24人のうち、被買収容疑で起訴された市議は20人に及んだ。同年3月19日、中根も同容疑により書類送検された[35]。政情不安をよそに父親の薫は次期市長選出馬を目指し、3月6日に開いた会合で政治活動を再開すると宣言した[36]。
ほとんどの市議が罪状を認めるなかで、中根は「金は父の後援会が受け取った」と全面否認した[37]。8月から9月にかけて17人が辞職[38]。残る中根勝美、中根康浩、八田二郎の3人は辞職を拒んだため、11月4日の補欠選挙後、3氏に対する辞職勧告の請願が議会に提出される。同請願は12月定例会でも1991年の3月定例会でも不採択となった[39][40]。
1991年8月16日、市議を辞職[41][42]。同年9月4日、検察は中根康浩と中根勝美に対し「両被告は現金を受け取ったことを弁解しており、反省していない」として懲役10月、追徴金30万円を求刑した[43][注 3]。
1992年7月26日、岡崎市長選挙が執行される。現職の中根鎭夫が前市議の都築末二、中根薫、日本共産党公認の八木隆宜らを破り4期目の当選を果たした。中根鎭夫70,319票、都築29,005票、中根薫22,900票、八木6,343票。惨敗したが、薫は開票後の取材に対し「再度挑戦したい」と答えた[46]。その夢は時を経て息子の康浩に託されることとなった[47]。
父親の薫は1992年10月18日に行われた市議選に立候補し、康浩と入れ替わりで初当選した。自民党は「自民クラブ」と「清風クラブ」の二つの会派に分かれ、薫は前者に所属した[48]。
中根康浩は県議会議員への出馬を考えるが、岡崎市選挙区は自民党議員が定数4のうち3人も議席を占めており、入り込む余地はなかった。1994年4月25日、国会で新生党党首の羽田孜が首相に指名される。新生党県連は5月23日、翌年の県議選公認候補者に中根を選び、党本部に公認申請した[49]。同年12月10日、新生党、公明党の一部、民社党などが結集し、新進党が結党[50]。新進党ブームに沸く中、党は中根と旧民社党現職の小見山徹之助の二人に公認を出した[51]。
1995年4月の県議選で、全トヨタ労連を支持母体とする小見山はトップ当選。中根は副党首の羽田孜や幹事長代行の渡部恒三らを応援弁士に招くも[52]、次点で落選した。同年9月、行政書士の資格を取得[30]。その後新進党を離党。民主党に入党し、1999年までに同党の愛知12区支部長に選ばれる[53]。
2000年2月末、全トヨタ労連の推薦を受け、4月中旬から労連幹部とともに旧民社系労組を回り始めた[53]。それから間もなくして森喜朗首相が発した「神の国発言」により、衆議院解散の時期が早まる。6月25日に行われた第42回衆議院議員総選挙に愛知12区から民主党公認で立候補したが、非自民の票が中根と自由党の都築譲に分散し、自民党現職の杉浦正健が順調に当選。候補者6人中、上位3人の得票数は、杉浦:117,475票、中根:81,826票、都築:33,052票。都築は中根の半分にも満たない得票数であったものの、比例名簿2位で登載されていたため比例復活で当選し、中根は落選した[54]。
2003年の第43回衆議院議員総選挙では、選挙区で再び杉浦に敗れるが、重複立候補していた比例東海ブロックで復活し、初当選(都築は民由合併により愛知15区へ国替えし、再び比例復活で当選した)。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、前回総選挙の票数に1万票以上上積みしたが、杉浦に敗れ、比例復活ならず落選[55]。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では、愛知12区で初めて杉浦を破り、4年ぶりに国政に復帰[56]。なお民主党には、同一の選挙区で3度落選した候補者は公認しない内規が存在していたが、この総選挙において中根は年齢的な若さも考慮され、特例で公認を受けた。
2011年、牧義夫衆議院議員が2月の知事選、名古屋市長選や4月の統一地方選挙惨敗の責任をとって、民主党愛知県連の代表を辞任。同年6月4日、その後任として県連代表に就任[57]。
2012年2月10日、復興庁発足に伴う補充人事により野田第1次改造内閣で経済産業大臣政務官に任命され、野田第2次改造内閣まで務める。
同年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では、愛知12区から民主党公認、国民新党推薦で立候補。自民党は青山秋男県議の長男の青山周平を擁立[58]。小選挙区では青山に敗れるが、比例復活し、3選[59]。同年12月25日に行われた民主党代表選挙では海江田万里の推薦人に名を連ねた[60]。2013年3月17日、衆院選惨敗の責任をとって民主党県連代表を辞任[61]。
2014年11月11日、自民、公明両党の幹部は次期衆院選について「12月2日公示・14日投開票」との日程を想定し、選挙準備に入るようそれぞれの党の関係者に指示した[62]。中根も愛知12区からの立候補の準備に入るが、公示日前日の12月1日午前、民主党の海江田万里代表から電話で「小選挙区を降りて比例区に回ってほしい」と告げられる。同日午後、岡崎市の事務所を訪れた岡田克也代表代行からも「比例東海ブロック単独1位とする。決定を受け入れられないなら無所属で出馬してくれ」と命じられ、比例区単独に回ることを決めた。岡田は中根に「ここで譲歩しないと、維新の党は全国すべての地域での連携を見直すと言っている」と述べ、維新の党側から圧力があったこともほのめかした。この鞍替えにより、外形上、民主党は12区の候補者を維新の党の重徳和彦に一本化した形となった[63][64][65]。
同年12月2日、連合愛知は中根の出陣式を終えると、12区の選挙対策本部を解散した。清水貞雄副会長は「組合員には比例で民主に入れるよう求めるが、12区で特定の候補への投票を呼び掛けることはしない」と語った[66]。12月14日、第47回衆議院議員総選挙執行。中根は比例単独1位で早々と当選を決め、4選を果たした[67]。つねづね維新は官公労に批判的だったことから[68]、12区の組合票の行方が注目されたが重徳は青山を約1万3千票差で下し選挙区で初めて当選した[69]。
2016年3月27日、民主党と維新の党が合流して結成された民進党に参加した[70]。同年8月20日、民進党の玄葉光一郎選対委員長は、次期衆院選愛知12区の公認候補を重徳和彦とし、中根を次回衆院選に限り比例東海ブロックの単独1位にすると発表した。あわせて重徳は比例に重複立候補しないことも定められた[71][72]。
2017年9月28日、臨時国会の召集冒頭で衆議院が解散。同日午後、民進党は希望の党への合流を決定[73]。重徳の選対本部長を務めることになった中根は、同日夜に開催された選挙対策会議に出席した。ところが会議を中座したため、毎日新聞の記者が追いかけると、「今、携帯電話に連絡があった。中身は話せない。厳しい状況だ」と答え、足早に去った[74]。電話の相手は民進党幹部で、内容は「愛知12区からの立候補」の打診であった[75]。「(重徳との競合で)自民党を利することになるだけだ」と提案を固辞すると、民進党との間で交わした比例単独1位の約束は「すべてリセットする」と告げられた[76]。
同年10月3日未明、日刊スポーツが希望の党の1次公認の内定候補者リストを報道。中根は山尾志桜里への刺客を意味する愛知7区の公認候補に選ばれていた[77][注 4]。同日午後、希望の党の若狭勝、同党の細野豪志、民進党の玄葉光一郎は参議院議員会館で記者会見し、第1次公認192人を発表。そこに中根の名はなかった[79][80]。
同年10月4日午後5時50分ごろ、玄葉から「愛知7区での2次公認が内定した」との連絡を受ける[81][82]。中根は7区での出馬準備を同時に進めていたが、関係者から「7区に行けば岡崎を歩けなくなる」と国替えを思いとどまるよう説得され、結局辞退した[75][82]。同日夜、希望の党は第2次公認9人を発表した。
第48回衆議院議員総選挙では小選挙区からの出馬を断念し、順位はともかくも比例単独名簿に登載されることを希望の党に求めた[83][84]。希望の党の比例代表名簿発表は公示日当日の10月10日までずれ込み[85]、かつ順位が判明したのは同日の午後であった。中根は比例東海ブロックの単独24位に選ばれた[86]。
2019年8月8日、翌年10月に実施予定の岡崎市長選挙に立候補する意向を固めたことが明らかとなった[47]。現職の内田康宏は同年12月4日に出馬表明[88]。
2020年4月14日、連合愛知三河中地域協議会は内田の推薦を決定[89]。中根と民主党・民進党時代に盟友関係にあった旧国民民主党がかろうじて自主投票を決めたものの[90]、自民党、公明党、旧立憲民主党、JAあいち三河をはじめとする各業界団体など地元政財界はほぼ内田一色に染まった[91]。同年9月の野党再編後、追い打ちをかけるように新「国民民主党」が内田の推薦を決定。対する中根の支持団体は日本共産党と市民グループ「あったか岡崎市政の会」のみであり[92][93]、中根に勝機はないように思われた[94]。
告示5日前の10月6日、中根は奇策に打って出た。「年内に全市民へ5万円を給付する」という追加公約であった[95][注 5]。すぐに5万円給付を掲げたパンフレットの各戸への配布を開始する。岡崎市の人口は10月1日時点で約38万6千人。1人当り5万円を配ると、総額は193億円を超える[96]。「基金を取り崩して財源に充てる」と説明する中根に対し[94]、内田は選挙期間中「今まで蓄えてきた税金を自分の選挙のためだけに配ってしまうような人間に、人々の生活を幸せにすることが可能なのか。大地震が来たり、大規模な水害が起こったりしたらどうするのか。200億円ものお金を使い切ってしまったとき、立ち向かうための資金は残されていない」と訴えた[97]。
10月12日夜、選対幹部は選挙事務所に訪れた新聞記者に対し「5万円欲しいか? 欲しいなら中根に入れろ」と言い放った[98]。地元の自民党議員によれば、投票所では係員に「5万円くれる人はどっちか」と聞いて困らせる人がいたといい、係員が答えないと他の者が「こっちだ」と教える光景も見られたという。取材に対し同議員は「長年、選挙をやってきたが、こんな光景は初めてだ。税金を使った買収だよ」と述べた[99]。10月13日、陣営は「5万円給付」の新聞折込チラシを配布した[100][101]。
同年10月18日、投開票の結果、中根が内田を大差で破り初当選した[102][103]。10月21日、岡崎市長に就任。 ※当日有権者数:307,734人 最終投票率:57.25%(前回比:2.55pts)
2024年8月22日、任期満了に伴う市長選挙に立候補する意向を表明[104]。同年10月6日執行の市長選には中根、元市長の内田、元市職員の晝田浩一郎、音楽教室社長ら4人が立候補。内田に8000票差で敗れ落選した[105]。5万円給付の前回公約に対する他陣営からの批判などが響いたとみられる[106]。 ※当日有権者数:306,749人 最終投票率:53.47%(前回比:3.78pts)
2020年10月の岡崎市長選挙で中根は告示日直前に「年内に全市民へ5万円を給付する」という公約を追加[95]。現職の内田康宏を3万2千票余りの大差で破り、逆転劇を成し遂げた。敗れた現職陣営から「禁じ手の買収公約」との批判を受け、地方自治論を専門とする名城大学の昇秀樹教授からも「現金の一律支給は政策として疑問が残る」と指摘を受けるも[95]、中根は10月21日の市長就任後の記者会見で「年内クリスマスまでに全額支給する」「実現できない場合はリコール(解職請求)を受けても当然」と明言した。財源については「裏技的というか、僕の知らない調達の仕方があるかもしれない」と述べ、財源調達を精査する特命チームを立ち上げる方針を示した[107]。
しかし市財政課によると、全市民に5万円配ると約193億円超かかるのに対し、中根があてにする財政調整基金は約81億円しかない。ほかの基金はそれぞれ使う目的が条例で決められており、いずれも条例を廃止する必要がある。市の担当者は財政調整基金について「一気に取り崩したことは過去にない。次の新型コロナ感染拡大に備え、ある程度残さないと逼迫する」と発言した[95]。
さらに市は「近年、当初予算に基金から40億円を充てている上、2021年度は感染拡大の影響で70億円程度の税収減が見込まれ、財政に余裕はない」と説明しており[96]、従来の市民サービスが縮減される可能性も指摘された[108]。
岡崎市議会の簗瀬太議長も「現在の岡崎市の財政ではキャッシュとして200億円をすぐ用意というのはなかなか難しい。スタートしても年内の支給は難しい」と中根の政策を疑問視する見解を述べた[109]。
2020年11月2日、市議会各派代表者会議で、市議会臨時会の会期は11月5日から9日までの5日間に延長することが決まった[110]。中根は、5万円給付のために「おかざき市民応援給付金給付事業費」約195億5,933万円を計上。そこから財政調整基金積立金などを差し引いた計約195億3,505万円増額の一般会計補正予算案を組んだ[111]。
財政調整基金約81億円の取り崩しだけでは当然5万円給付の総額に届かない。中根は、公共施設、文化施設、公園、岡崎市美術博物館、東岡崎駅周辺地区などの整備に積み立てた他の5つの基金を廃止することで帳尻を合わせようと考えた[112]。6つの基金の合計は193億4,004万円[113]。将来に備える財源をほぼ使い切る内容の基金廃止条例案を組んだ[111]。
市議会最大会派「自民清風会」の市議は「市民生活の影響が大きすぎる」と反対しており[114]、なかでも公共施設の長寿命化を図るための改修基金である「公共施設保全整備基金」約45億円について、「絶対に手を付けてはいけないものだ」と警告した。市職員からも「廃止する理由が思い当たらない」「考えるだけで泣きそうになる」などの声が漏れ始めた[113][115][116]。
同年11月5日、市議会臨時会での所信表明後、5万円給付の減額や対象を絞る可能性を示唆した。「公約違反では」との報道陣の指摘に、「原案を議会に提案した時点で公約を実行したことになるから、欺いたことにはならない」と答えた[117]。同日、中根は痕跡を消すため自身のホームページに掲げられていた下記の言葉を削除した[118][119]。
ホントに5万円戻せるの?――できるよ! 財源はあるし公約だからね。
公約?――公約って言うのはこれをやりますっていう公の約束のこと。市民との約束だから実現できて当たり前。
財源はどう考えているの?――まず、コンベンションホールをやめて80億円を確保する。それに岡崎市は毎年50億円くらいの予算が翌年に繰り越されてる。
大丈夫だね。安心した~。――僕も市長になったら2,640万円の退職金を0円にするからね。 — 中根やすひろ公式サイト
同年11月6日、市議会臨時会に、約195億3,505万円増額の一般会計補正予算案と5つの基金廃止条例案を提出。前日の発言どおり、議案を提出した直後、市民への5万円一律給付を断念する意向を明らかにした[120]。採決が行われるのは3日後の11月9日。中根は給付対象を低所得者に絞る考えを示し[121]、「市議会で否決されるなら、市の人口約38万人から市民税納税者を引いた約18万人に限定して5万円給付をすればよい」と述べた[120]。また、11月9日の臨時会において提案説明後、採決前に議案を撤回する方針を示した[120]。その一方で11月7日付のツイッターに「私が提案した原案を可決していただきたいという思いに変わりはない」とのコメントを発表した[121]。混迷を極める中根の言動に対し、市議は「全市民への5万円給付と低所得者の生活支援は別次元の話だ」「議会軽視も甚だしい」と再び批判。さらに中根の選対幹部からも「議会と戦ってほしかった。投票をお願いした市民に説明ができない」と失望の声が上がった[122]。
同年11月9日、加藤勝信官房長官は記者会見で、中根が当選後わずか19日で公約遂行を断念したことに関し、「公約は実現可能な施策を掲げるべきだ」との認識を示した[123]。
同日、市議会臨時会が再開。各会派の動向が注目される中、一般会計補正予算案など5件の質疑において、「自民清風会」「民政クラブ」「チャレンジ岡崎」「公明党」の4会派は基金を取り崩して財源とする議案にいずれも猛反発。市長選で共闘した日本共産党の2人の市議でさえ、基金取り崩しと5万円給付に反対した。さらに答弁側である財務部長からも「公共施設休館や公園の利用停止が想定される」と将来を不安視する発言が引き出され、中根は議場で四面楚歌の状況に置かれた[124]。自民清風会の簗瀬太市議は「財政計画の見通しに関する市長の答弁は抽象的な言葉ばかり」と語気を強め、市への資料提出と11月18日までの会期延長を求める緊急動議を提案[124][125]。同案は賛成33、反対4で可決された[注 6]。これにより当初、予定されていた採決は先延ばしとなった[127][128][129]。
公約実現性の不透明さから市役所へ批判のメールや電話が殺到。出馬表明後ほぼ毎日更新されていた中根のツイッターは11月7日を境についに途絶える。「『断念』などと報道されているようですが、そのつもりは毛頭ありません」と言い逃れをした最後の投稿にとりわけ多くの批判が寄せられた[130]。
11月18日、臨時会が開かれ、5万円給付のための補正予算案と基金廃止条例案は賛成2、反対34で否決された[131][132][注 7]。公約に掲げた月額給与50%カット、市長退職金廃止の条例案も賛成3、反対33で否決された[136][137][注 8]。直後の報道陣の取材で中根は「ひとつの責任を果たした」と審議の結果を要約した[139][140]。「市民から『嘘つき』というかなり厳しい声もあるが」と問われると「嘘をついているという思いはありません」と答え[141]、「財源の見通しが甘かったのでは」と指摘されると「甘さは特に感じていない」と答えた[139]。11月20日の定例記者会見で、一律5万円給付断念を正式に表明[142]。今後も現金給付を行わないのかとの報道陣の問いに「『やれない』ということを議会が決定した。今でもやりたいけれど、やれないでしょ。独裁者じゃないんだから」と答えた[143]。
12月1日、市議会定例会で小木曽智洋市議は中根に次のように問いただした[144]。
小木曽智洋 確かに議会は5万円現金給付に対し否決という判断を下した。しかしそれは、しっかりとした数字や根拠に基づく資料を請求し、財政当局の皆様に仕上げて頂いた資料に基づいて審議した上での判断である。市長はこの後に及んでも「私は今でもやりたいが、議会が反対したからできない」と、責任転嫁と受け取れる発言をした。5万円の現金給付ができないのは議会が反対したからではない。財源がないからできないのである。この事実を認識できていないのか、認めたくないのか分からないが、こんなことでは信頼関係を築くことは永久に無理だと考える。見解をお聞かせ願いたい。
市長 「やりたくてもやれない」という発言の中に、議会に責任転嫁する意図は全くない。議決の重さを強調する意味で、議会制民主主義のルールとして議会のご賛同を頂かなければ実行できないという事実を申し上げたというのが、私の真意である。 — 岡崎市議会 令和2年12月定例会 12月01日。
12月2日、全市民への5万円給付を選挙公約にしたのは公職選挙法違反の投票買収の罪にあたるとして、内田康宏の後援会幹部で税理士兼行政書士のSが愛知県警に告発し、受理された[145][146][147][148][149][150]。
12月3日、市議会一般質問で「議会に説明する前に私的なツイッターやフェイスブックで情報発信したことに対する批判があった。それゆえ今後は、公式の記者会見や市のホームページで発信するよう改める」と答弁した[151]。
市長就任時の記者会見で「5万円給付が実現できない場合はリコールを受けて当然」と発言した中根に対抗するため、12月21日、市民およそ20人が政治団体「中根やすひろ岡崎市長をリコールする会」を設立した[152][153][154][注 9]。この時期の団体設立は、「ケーキを買ってシャンパンでも飲んで穏やかに過ごしてほしい」という中根の言葉に起因。12月23日、代表の建設会社社長は「本当に困っている人は5万円をもらってもゆっくり過ごしている余裕はない。クリスマスを前にリコールの準備をし、市民の『困っている』という思いを知ってもらいたい」と訴えた[152]。
2021年4月20日、定例記者会見で報道陣が5万円給付問題について質問すると、中根は「議会にご理解とご承認をいただけなかったので、実現できなかったということ」と回答。公約を果たせなかった責めは議会側にあるとの見解を改めて示した[159]。
2022年1月21日、愛知県警が中根を公職選挙法違反(買収)の疑いで捜査結果の書類を検察に送付したことが報道によって明らかとなった。中根の事務所スタッフや市職員が事情聴取されたが、起訴を求めない意見をつけたとみられる[160][161]。3月31日に名古屋地検は中根を不起訴処分とした[162]。
元市長の柴田紘一は2011年9月、「太陽の城を取り壊し、跡地にコンベンション機能を備えたホテルを誘致する」という計画を打ち立てた[179]。柴田の後を継いだ内田康宏は、東岡崎駅を出発点に人の回遊を促す「QURUWA(くるわ)戦略」を推進[180]。2020年2月、コンベンション施設とホテルの事業者が決定し、太陽の城跡地の再整備計画はようやく具体化する[181]。
一方、中根は市長選に向け「今はとにかくコロナ対策を」と述べ[182]、「コンベンション施設の建設中止」を選挙公約として強く訴えた[183][184]。2020年10月からは自身のホームページに「コンベンションホールをやめて80億円を確保し、全市民5万円給付のための財源に充てる」と明記した。ところが当選まもなくから形勢が危うくなり始め、同年11月5日に給付金の減額を示唆[117]。同時にホームページから上記文言を削除した[118]。
同年12月14日、市議会の主要会派、副市長、市幹部と行った会合で「プロセスがしっかりしていれば、コンベンション施設を否定するものではない」「あらためて市民の声を聞き直して、必要だという声が多ければ考える」と発言した[184]。続いて12月21日、コンベンション施設整備事業を中止するための協議を、特別目的会社(SPC)の「岡崎リバーリンク株式会社」[注 10]とホテル運営事業者の三菱地所に申し入れた[201]。
2021年2月21日、「QURUWA戦略」のシンポジウムが市の主催で開催される[202]。登壇した中根は「岡崎市は中心市街地の再生のため、これまで公共空間再整備として、100億円の投資を行ってきた。この投資を生かしていくのがまさにQURUWA戦略であり、これからがいよいよ本番である」「コンベンションホールを作るというような計画があったが、これから市民の声を聴いていかなければならない。いわゆるMICE、コンベンション、という考え方は確かに大切である。岡崎の財産である太陽の城の跡地をどう活用していくかが、QURUWA戦略の最終的な要になる」と語った[203]。
同年2月26日、「コンベンション施設の建設中止」について、中止に向けた事業者との協議をいったん凍結する方針を表明した。 理由を「市民に改めて同事業に関する意見を求めるため」とし、「年内12月までには事業計画を前に進めたい」と述べ、コンベンション施設に前向きな姿勢を示した[204][205]。同年3月4日、中根は前述の事業者2社に事業一時凍結を申し入れた[206]。
年度が変わると建設計画への対決姿勢はさらに後退。かつて「不要不急のハコモノに費やすお金も時間もありはしない」とまで言い切った中根であるが[207]、5月18日、「多くの市民等の意見を聴いた上で、2021年12月末までを目途に事業の方向性を決定する」と述べ、意見聴取の具体的な方策を発表した[208]。6月2日、愛知産業大学造形学部建築学科の学生から意見を聴取[209]。6月30日から市内各公共施設で、経緯をまとめたパネル展「みんなで考えよう どうする太陽の城跡地」を開催[210][211]。7月4日にはりぶら1階ホールで市民公聴会「まちづくりホットミーティング」を開くが、登壇した市民は「何度も言うことをコロコロと変えていると、企業などが岡崎を信用してくれなくなる。信頼回復のためにも(当初の計画を)実施すべき」と中根に意見した[212]。7月から9月にかけて公募型団体向け広聴会を中学校や高校、各団体と90分ずつ行った[213][214][215]。
同年11月15日、太陽の城跡地の活用に関する「最終素案」と意見聴取の結果を発表。4月から10月末までに聴取した2,835人の意見のうち、5%未満が「原案通り実施」、3%が「計画中止」、残りの約92%が「何らかの形で施設を建設」であったことから、「現行計画のアップグレード」を基本の方針とすることを決定した。加えて、市は施設のイメージ図および具体案も公表した。当初の計画にあった約1200平方メートルのコンベンション施設のうち、500平方メートルを、大屋根をかけた半屋外空間にし、アスレチックやボルダリング、全天候型の芝生広場などを整備し、市民の交流スペースを設けることを明らかにした[216][217][218]。
同年11月30日、専門家の意見を反映した「最終案」を発表。施設名は「(仮称)おかざき乙川リバーフロント交流拠点」とし、正式名称は公募で決めることとなった[219]。同日、事業一部凍結で損害を被った特別目的会社「岡崎リバーリンク」に賠償金4,275万400円を支払う議案を市議会に提出した[220][221]。
同年12月3日、鈴木静男市議が市議会本会議で賠償金支払いの議案に関して中根に質問。中根は「優先交渉権者には、費用も含めて大変な負担をかけているということは認識している。これらの一連のすべての責任は当然、市長である私にあると考えている」と答えた[222]。12月17日、市議会は賠償金支払いの議案を可決した[223]。
2022年3月、市は「QURUWA戦略」の一環として、桜城橋の橋上に休憩所を、同橋北東の旧豊川信用金庫岡崎支店跡地にトイレを建設した[224][225][226]。
同年10月25日、中根が計画中止を決めたうえ「岡崎リバーリンク」に賠償金4,275万400円を支払ったのは違法だとして、内田前市長の後援会幹部で税理士兼行政書士のSが、中根に賠償金と同額を市に返還するよう求める住民監査請求を行った[227][147][148][149][150][228]。Sは、中根の中止決定は専決処分の要件を満たしていないと主張した[227]。同年12月23日、岡崎市監査委員は住民監査請求を棄却した[147]。
2023年1月20日、Sは、市が支払った4,275万400円ならびに利息を返還するよう中根に求める住民訴訟を名古屋地裁に起こした[228][147]。
同年2月21日、「岡崎リバーリンク」とホテル運営事業者の三菱地所は、コンベンション施設建設に向けた協議を中止すると市に通知した、2月24日、「岡崎リバーリンク」は解散する意思を市に正式に通達した。建設資材の高騰とコロナ禍によるコンベンション需要の落ち込みがその理由とされる。中根は「契約協議が中止となることでコンベンション整備が延びることは残念」とコメントした[229][230][231]。3月20日、桜城橋橋上広場と同橋北東の橋詰広場の整備運営事業につき、市と基本協定を締結していた企業グループ(代表企業:三菱地所)は事業中止を通告する文書を市に提出した。市は、桜城橋に屋根付きの休憩所を、橋詰広場にトイレを建てた時点ではしごを外される事態に追い込まれた。飲食店や売店の建設計画は白紙に戻った[224]。
同年4月28日、市は、「岡崎リバーリンク」との協議中止に伴い、次点交渉権者の「スターツグループ」(代表企業:スターツコーポレーション株式会社)に事業を行う意思があるかを確認する文書を送った[232]。6月19日、同グループは書面で辞退した。建設に関する公募は無効となり[233]、市長選の選挙公約[183]は果たされたが、中根は「整備が延びることは大変残念」と述べた[233]。
2020年の市長選挙では「女性の副市長登用」を公約の一つとして掲げていた[183]。ところが11月20日の定例記者会見で「2021年3月末までに見つからなければ男女問わずやってもらう」と述べ公約を反故にした[236]。
結局、「コロナ禍で検討する時間がなかった」との理由により女性副市長の登用は断念。2021年2月16日、同年3月末で任期満了となる清水康則副市長を再任すると発表した[234][237]。2月26日、市議会定例会で清水の再任人事案は可決された[238][169]。内田の右腕として乙川リバーフロント地区整備計画等に携わった山本公徳副市長[239][240]を解職する道も選ばなかった[241]。
山本は2023年3月31日付で任期満了で退任する予定であった。しかし中根は「女性の副市長登用」の公約を再び破り、同年3月15日、山本を再任する議案を市議会定例会に提出すると発表した[242]。同日に開いた記者会見では「副市長に必要な資質を兼ね備えた女性と巡り合えていない」と説明した[235]。同年3月22日、鈴木雅子市議が市議会本会議で「資質を備えた女性と出会うための努力をこの3年間どのようにしてきたのか」と問いただすも、中根は「人事に関わることなので具体的な話は控えたい」と述べ、努力を明かすのを潔しとしなかった。同日、市議会は山本再任の議案を可決した[235]。
同年12月4日、鈴木雅子は市議会本会議で「女性の登用とジェンダー平等」について質問。8月に愛知県初の女性首長が長久手市で誕生したことを踏まえつつ、中根に「今でもバランスの上で女性の副市長が必要と考えるのか」と問いただした。中根はこのとき登壇すらせず、総務部長をして「女性ならではの視点が大切であることからも、女性の副市長の登用を検討されたものと理解しております」と答弁させた[243]。岸田文雄首相が同年9月13日の内閣改造で女性閣僚5人を登用した際、記者会見で「女性ならではの感性や共感力に期待したい」と述べたことが「ジェンダーバイアスを強化する発言」などとしてSNSや報道番組で批判された。新聞各紙もこれを取り上げ警鐘を鳴らしたが、中根の目には届かなかったこと、および市当局の人権意識の実情が議会答弁を通じて明らかとされた[244][245][246][243]。
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