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愛知県岡崎市の町 ウィキペディアから
岡崎市の北西部に位置する。町内には松平氏菩提寺の大樹寺や、その塔頭を始めとした宗教施設が多数存在し、東部には真福寺道が通る。
かつては町域中央部を名鉄挙母線が通っていた。岡崎市内線と名鉄挙母線の事実上の接続駅だった大樹寺駅が町域中心部にあり、挙母線廃止後は名鉄バス大樹寺バス停(バスターミナル)及び駐車場となっている。
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2019年(令和元年)5月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
国勢調査による人口の推移
1995年(平成7年) | 5,673人 | [5] | |
2000年(平成12年) | 5,444人 | [6] | |
2005年(平成17年) | 5,533人 | [7] | |
2010年(平成22年) | 5,646人 | [8] | |
2015年(平成27年) | 5,222人 | [9] |
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[10]。
字・番地等 | 小学校 | 中学校 | 高等学校 |
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字南魂場 | 岡崎市立井田小学校 | 岡崎市立葵中学校 | 三河学区 |
その他 | 岡崎市立大樹寺小学校 | 岡崎市立北中学校 |
額田郡鴨田村を前身とする。8世紀中頃に、額田八郷の一つとして鴨田郷ができた[12][13]。
中世、1467年、鴨田郷に分立されていた松平氏第4代松平親忠が、井田野合戦で勝利したのち戦死者を弔うため井田野の地に念仏堂(現西光寺)を建立し、千人塚を築いた。西光寺は岡崎観光きらり百選に、千人塚は市指定史跡[14]に、それぞれ選定されている。松平氏菩提寺の大樹寺を建立したのも松平親忠とされる[15]。
1560年5月19日昼、桶狭間の戦いで今川義元が戦死。同日夕方に大高城で義元戦死の報を聞いた松平元康(後の徳川家康)は夜半に退城し、翌20日、大樹寺に入った。ほどなく今川軍が岡崎城を退去したため、23日、元康は岡崎城に入城し、自立への第一歩を踏み出した[16][17][18][19]。
江戸時代には大樹寺領及び鴨田天満宮領となる。
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