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二代目 一条 さゆり(にだいめ いちじょう さゆり、1958年[1]8月9日 - )は、日本の女優、新劇女優、ストリッパー、コラムニスト、著作家、作家、脚本家、演出家、香港映画研究家、中国問題評論家。
1980年代初め頃から萩尾なおみ名義でピンク映画を中心に活躍。その後ストリッパーに転身して、その世界では伝説的な存在であった、一条さゆりの二代目を襲名した。本名は萩尾菜穂美[2][3]。
ストリップとしての出し物は、ろうそくを片手に持ち、自らの体に蝋を振りかけるという初代から受け継いだろうそくショー、縄による縛りなどのSMパフォーマンスの他、水割りの入った巨大なワイングラスの中に入って、グラスをレンズ代わりにして下半身を客に大きく見せて、わかめ酒は観客にふるまうという芸があった[3][4]。
香港、中国事情に精通しており、その方面での著作が多数ある。また、熱狂的な香港映画ファンで、日本で公開されていない香港映画を観るために定期的に香港通いもしている。自身も香港映画や香港のトーク番組への出演経験がある[5]。
常に広東語の辞書やカセットテープを持ち歩いて勉強に励んでいる[6]。
近年は、踊り子たちが着る衣装を作ったりする仕事もしている[7]。
ポルノ映画が徐々に斜陽になり始め、映画であるのに本番行為をするなど、アダルトビデオばりに過激化していく1980年代中頃の日活ロマンポルノに「前貼りをしていたからこそ、好きじゃない人とでも抱き合える。前貼りがないのなら誰にも触れられずにすむストリッパーになった方がいい」と見切りをつける[8]。そのストリップの面接を受けた時、劇場側から「にっかつのスター、萩尾なおみ」で宣伝したいと言われたが、萩尾なおみは本名に近いので変えることを提案する[9]。そして、初代一条さゆりが主演している映画、『一条さゆり 濡れた欲情』(1972年10月7日、日活)を観て感銘を受けたこともあり、その名を引き継ぐことを決意する。「ごく普通の家庭で育った私は初代のような波乱万丈の人生に憧れました。そういう不幸な人生を演じたい」と関係者に動いてもらったが、初代の消息が分からなかったので事後承諾という形で、1986年9月13日、新宿モダンアート劇場で襲名公演を行った[10][11]。その後、マスコミが初代の所在をつきとめ取材した時「襲名のことは全然聞いてなくてびっくりしました。一条さゆりの名が今でも可愛がられてると思うと有難い[12]」と、公認のコメントを出した。12月、二代目が大阪の東洋ショー劇場に出演中、楽屋を初代が訪れ対面が実現、その際、初代のお家芸でもある、ろうそくショーを伝授される[13]。
1988年7月、初代が大火傷をし重傷を負った翌日には、大阪市住吉区の病院へ見舞いに行き、家財道具の整理などをする[14]。そして治療費のための公的手続きをしたり、募金を募るためのポスターを作るなどして舞台でチャリティー活動もした[15]。
福岡県福岡市博多区に生まれる[16]。筑紫女学園卒業後、日本大学芸術学部演劇学科劇作コースに入り、寺山修司や唐十郎、別役実の演劇に夢中になり、自分でも戯曲を書きたいという気持ちを持つようになる[2]。
在学中に、雑誌『平凡パンチ』(マガジンハウス)のヌードモデルとなり[17]、女子大生ヌードの走りとして注目を集め、萩尾なおみ名義でポルノ映画にも多数出演、女子大生ピンク映画女優となり、日活ロマンポルノを中心に活躍する[18]。
大学4年の頃、東京で母が働いてる飲食店に来ていた草野大悟と知り合い、劇団六月劇場に入りその門下生となる。父からは「女優にするために東京にやったんじゃない」と反対されるが、「一年以内にNHKのドラマに出られなければあきらめる」と説得したところ、実際にNHKのドラマへ出演を果たしてしまう[10][6]。
ピンク映画専門の映画祭、ズームアップ映画祭で、1985年度第7回ズームアップ映画祭助演女優賞を受賞する[18]。
その後、アダルトビデオに市場を奪われつつあった日活ロマンポルノが、映画の製作から撤退して行き、AV女優となるか、役者の世界に留まる代わりに、脇役に甘んじるかの選択を迫られる。そのどちらにも納得できなくて裸を見せるだけで済むのならとストリップの世界へ入る決心をする。そのことを大学の恩師に報告したところ、俳優で芸能研究者でもあり、初代との交流も深かった小沢昭一を紹介され、「ストリップをやりたいのなら日記をつけなさい」と言われる。その日記は後に『踊り子の日記』(トパーズプレス)として出版される。しかし草野大悟からは「舞台をバカにしている。何もできないくせに、ストリップだったらできると思っている」と辛らつな言葉を投げかけられる[10]。
1986年9月13日、二代目一条さゆりを襲名し踊り子になり、ピンク映画からは撤退する[3]。「お客さんと触れ合わないのが、ストリップを始めた時の私の誓い。不利ですが芸で勝負です」と、客を舞台に上げて踊り子との性行為を行う生板本番ショーが横行して、過激化した当時のストリップとは一線を引いた[3]。
10月20日、福島県郡山市、裸舞郡山劇場(郡山ミュージック劇場)で郡山警察署 (福島県)に逮捕され、48時間の拘留と罰金5万円を課される。罪状は公然わいせつ罪で、踊り子になってわずか30日後の出来事だった[19]。マスコミからは、何度も逮捕、投獄をくり返した初代と比較されて報道された[20]。後に、「客は入場料を払った特別な人なのに、なぜ公然となるのか理解に苦しむ」と本人は不満を表明している[21]。
1987年10月には音楽劇、『ANZUCHI』で沢田研二、役所広司、上條恒彦、桑名正博、戸田恵子、森公美子らと共演を果たした。その後、沢田研二とは親交を築き、田中裕子との結婚式に招待される[2]。
1993年、他のストリッパーの舞台活動を支援するために制作事務所『工作室 譚』を立ち上げ、西山水木、正名僕蔵、宮藤官九郎らが参加した[10]。
同年、ストリップ劇場で出演中に、河内家菊水丸が客演して意気投合し、共同で春歌の制作に取り組む。日本全国の春歌を採集して、CDやカセットテープなどの形として残す為の作業を行った[21]。
1994年にはロックとストリップの融合した舞台演出を手掛けた。いくつかのインディー・ロック・バンドと組み、『一条さゆりLUNCHユニット』というグループを作り、ステージ上でバンドの演奏に合わせて、ろうそくショーを行う実験的な試みで、音楽とストリップの両方のファンを楽しませた[22][23]。ストリップ劇場が次々と閉鎖していき、上がる舞台のなくなった踊り子に働く場を提供しようという企てであった[24]。
1995年に芸人と結婚し、夫の仕事の関係で大阪に転居する[6]。
1997年7月1日、香港返還を現地で迎え、5日には帰国して紀伊國屋ホールで、写真家の荒木経惟が『香港キッス』(1997年、ジャストシステム)の発売記念として行ったトークショーに出席する[25]。
1998年7月、船橋若松劇場で引退興行。9月、離婚と同時に、広東語の勉強のため中国広州市の華南師範大学に留学する。地元の新聞、『明報』、『蘋果日報』にエッセイを連載、これらが単行本となって『醜的男人・醜的東西』(皇冠)、『情色自白』(天地図書)として出版され、現地でサイン会も行う[26]。
2004年2月、SHOW-UP大宮劇場でストリップ界に復帰[9]。
2005年4月、『美的SM』というSMショーを行う10名ほどの女性だけで構成される一座を立ち上げ、その座長となり従来の暗く陰湿なイメージのあったSMを、明るく洗練された形で提供することに成功した。この一座は2008年6月に解散したが、2019年4月に復活させた[9]。
2009年12月23日、ポレポレ東中野での『中国インディペンデント映画祭2009』で観客を前にしてトークショーを行う[27]。
2010年代には遠藤ミチロウや友川カズキとも共演している[28]。
2016年1月26日、新宿の映画館『K's cinema』で、映画『お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました』の公開記念で、監督の遠藤ミチロウとのトークショーを行い、ミチロウの唄に合わせて日本舞踊を舞って、観客を沸かせた[29][7]。
この頃は主に、責め役の男性と組んでの受け身役で舞台を構成している[7]。
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