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関東大震災の混乱により暴徒化した市民が朝鮮人を虐殺した事件 ウィキペディアから
関東大震災朝鮮人虐殺事件(かんとうだいしんさいちょうせんじんぎゃくさつじけん、朝: 관동대학살)とは、1923年(大正12年)の日本で発生した関東地震・関東大震災の混乱の中で、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人や社会主義者が暴動を起こした。放火した」などのデマを妄信した官憲や自警団などが、関東各地で多数の朝鮮人を殺傷した事件の総称である。日本人や中国人が誤認により殺傷された事件や、官憲による社会主義者の殺害事件もあった(亀戸事件、甘粕事件)[1][2][3][4][5][6][7][8][注 1]。殺傷事件の犠牲者数は、論者の立場により幅広い差があり、正確な人数は不明である[10][11][12]。
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1923年(大正12年)8月24日、加藤友三郎首相が病死した。このため内閣が総辞職し、8月28日、山本権兵衛に組閣命令が出されていた[13][14]。震災当日の9月1日夜半には臨時首相・内田康哉の下で閣議が開かれ、2日午前9時には、非常徴発令[注 2]、臨時震災救護事務局官制、戒厳に関する勅令[注 3]が発せられた[13][17]。
震災後、すでに1日から、朝鮮人暴動の流言が流布しており、2日正午までには東京全市・横浜全市に伝わった[18]。
1日に「朝鮮人が来襲する」という通報が警視庁にもたらされ、2日まで東京市内の官憲が朝鮮人の襲撃に備えて警戒していたが、2日の夜10時ころになっても全く朝鮮人が来なかったために虚報であったと判明する[19]。 2日の夜には、警視庁から新聞社に、「朝鮮人暴動」などが流言であることを伝えて、3日の『東京日日新聞』の朝刊に、一部の「不逞な朝鮮人」による盲動があるとはいえ、大多数の朝鮮人は善良であるため、迫害や暴行などを加えてはならないという「告示」を掲載している[20]。官憲当局は、一部の「不逞な朝鮮人」による暴行等の事件は発生しているとしたうえで、内務省が発表している朝鮮人事件に関する内容が、新聞社により誇大な報道がなされているとし、流言報道の沈静化を図った[21]。
昨夜来一部不逞鮮人の盲動ありたるも今や厳重なる警戒によりその跡を絶ち鮮人の大部分は順良にして何等兇行を演ずるものにこれなくに付きみだりにこれを迫害し暴行を加ふる等これなき様注意せられ度。また不穏の点ありと認むる場合は速やかに軍隊警察官に通告せられたし 九月三日 警視庁—『東京日日新聞』、1923年9月3日號外
3日午前8時、内務省警保局長の後藤文夫は海軍省船橋送信所より、以下の電文を各地方長官(現在の都道府県知事)に送った[22][23]。
東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。[22][23]
横浜では、2日午後8時、横鎮長官発、海軍大臣宛て電文で、「本日午前十一時横浜着警備艇の情況報告の要領左の如し。一、一日午前十一時五十八分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆破所々に起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海と化し……」と報告された[24]。
東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。 「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」 下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。 「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」[25]
震災当初の新聞報道は下記等である。各紙は取材で得られた体験談や目撃情報を事実の確認ができない状態で記事にした[26]。9月3日、内務省警保局は虚説の伝播による社会不安の増大防止のため「朝鮮人に関する記事は一切掲載せざる」ことを各紙に警告した[27]。
不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く 三百年の文化は一場のゆめハカ場と化した大東京
……一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるり點につき疑問の節あり次で朝鮮人抜刀事件起り警視□小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約二十名は五臺の自動車にて現場に向つた當市内鮮人、主義者等の放火及宣傳等々としてあり二日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めてゐる因に二日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果午後四時までに本郷冨坂町署で六名麹町署で一名牛込區管内で十名計十七名の現行犯を検挙したがいづれも不逞鮮人である
鮮人いたる所めつたぎりを働く 二百名抜刀して集合警官隊と衝突す
今回の凶□を見たる不逞鮮人の一味はヒナンせる到る所の空屋等に□たるを幸ひ放火してをることが判り各署では二日朝来警戒を厳にせる折りから午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一團あるを見け辛ふじて追ひ散らしてその一二を逮捕したがこの外放火の現場を見つけ取り押へ又は追ひちらしたもの数知れず政府當局でも急に二日午後六時を以て戒厳令をくだし同時に二百名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視□に達し正力主導山田高等普通課長以下三十名現場に急行し一方軍隊側の応援を求めた……
日本人男女十数名をころす 本部は世田ヶ谷
……途中出會せし日本人男女十数名を斬殺し□憲兵警官隊と衝突し……
下野新聞(宇都宮)
- 大森方面に於て不逞鮮人隊と我歩兵小隊と戦闘開始……
- 三河方面より不逞鮮人が二百名押寄す報……
- 大久保で鮮人が井戸に毒を投じ二百人死亡……
上毛新聞(前橋)
- 鮮人入り込む 井水に投毒が目的……
足利出張所よりの報道に依れば足和市に三百餘名の朝鮮人が下車したので市民は大騒ぎを為しつゝあり……- 警鐘を乱打し 浦和町の大警戒……
前橋支店に報告した處に依ると鮮人多数入町し爲めに各町に於て警鐘を乱打し之れが防禦に当つて居る……- 鮮人盛んに襲ふ 亀井伯古河男等の邸宅に 王子警察活動捕縛に努む
小樽新聞 発行 小樽市……
- 9.2 号外第二 1 大東京市の約三分の二焦土と化し死傷者の山 不逞鮮人横行……
樺太日日新聞(豊原)
- 鮮人の大暴動
守備隊と激戦中也……朝鮮守備隊は直ちに鎮静に努めん……この報本日午後零時三十分に到着した……(9月3日)……- 名古屋の不逞鮮人……(9月4日)……
北海タイムス(札幌)
- 鮮人跋扈【青森二日発電】東京市内に不逞鮮人跋扈して居る……(9月3日)……
- 不逞鮮人暴挙 不忍池に毒薬を投ず
【宇都宮四日終電】不逞鮮人は今尚、上野を中心に暴動を起し強盗凌辱の虜に……(9月5日)……- 鮮人三百船橋上陸 危険に頻し応援依頼【船橋無電三日午後八時半発軽川無電四日午後九時着】……(9月5日)……
- 不逞鮮人と戦闘開始 三千名の鮮人横濱より来る小隊全滅の虞あり急を告ぐ【四日午前八時着宇都宮経由】……(9月5日)……
函館日日新聞(函館)
- 東京全市三分の二焼け不逞鮮人大にはびこる……(9月2日(夕刊))……
- 野獣の如き鮮人暴動魔手帝都から地方へ 強盗強姦掠奪殺人が彼等の目的 近衛と一師団が必死の活動……
【青森発電】……熊谷駅から聞知する所に依れば鉄道線路の一部を破壊し何れも逃走した……碓氷峠其他信越線を通過する列車を目蒐けて爆弾投下する目的を以て碓氷峠に入り込んだこと判明し……三百名の鮮人は何れも手に石油爆弾を持つて居るのを蒲田駅で発見し……(9月5日)
弘前新聞(弘前)
- 山伯暗殺 犯人は不逞鮮人……(9月3日)……
- 歩兵一個小隊全滅
二日午後五時頃よ四百名の不逞鮮人横浜に現れ……(9月4日)……- 鮮人高崎の火薬庫爆発せんとす……
- 二千の鮮人暴徒東海道を荒し廻る……(9月5日)……
河北新報(仙台)
- 四百名の不逞鮮人遂に軍隊と衝突 東京方面へ隊を組んで進行中 麻布聯隊救援に向ふ……(9月4日(3日夕刊))……
- 約三千の不逞鮮人大森方面より東京へ……(9月4日)……
- 殆ど全滅の横濱 死傷約四十八萬 看守が囚徒を指揮して二千の不逞鮮人と戦ふ 知事は重傷で起てず 救済策も講ぜられない……(9月5日(4日夕刊))……
- サノミユル工場に使用されてゐた一千数百名の鮮人 災害の横濱より結束固く更に数百名を加へて帝都に闖入(9月6日(5日夕刊))……
- 大震後の東京は焼石の河原のやうだ 不逞鮮人の暴動は事実 観察した渋谷大学書記談……(9月6日)……
- 何でもないのに物々しい此騒ぎ 市民があんまり過敏だ 流言蜚語に迷ふな……(9月8日(7日夕刊))……
荘内新報 発行 山形県西田川郡……
- 9.2号外第9報 1 山本首相暗殺? 主義者の暴動(「不逞鮮人」の暴動も報道)……
山形民報(山形)
- 不逞鮮人三百餘名 爆弾を以て市内各所を爆破 近衛兵と下谷で衝突【三日午前十時宇都宮発】……
- 三千の暴徒集合 大森にて軍隊と衝突 歩兵一個小隊全滅したるか……(9月4日)……
- 一萬の不逞鮮人東京を逃れて自由行動 毒薬を井戸に投げ込んではドラクサ紛れて逃げ出した……(9月6日)……
- 鮮人二百襲来海岸で邦人と格闘 周到なる鮮人の計劃……
然るに鮮人二百名餘り或は船に乗り或は泳いて月島に襲来した……(9月7日)……
福島民友新聞(福島)
- 歩兵と不逞鮮人と戦闘を交ゆ 京浜間に於て衝突し……
新潟毎日新聞(新潟)
- 山本伯暗殺説 ……
- 不逞鮮人跋扈 山本伯暗殺説は或は彼等の行為か【長野電話】東京全市の火災を機として不逞鮮人跋扈し盛んに横行し何等かの陰謀を企て其行動を進めて居る右より察するに山本伯の暗殺説は彼等一味の所為ならんと言はれて居る ……
北陸タイムス(富山)
- 東京無警察状態 不逞鮮人の跋扈……(9月3日)……
- 不逞鮮人や支那人が高位高官に爆弾を投げ……(9月4日(3日夕刊))……
北国新聞 発行 金沢市……
- 9.2号外 2 〔東京市中〕鮮人横行す 秩序全く紊る……
名古屋新聞(名古屋)
- ……山本伯が不逞鮮人に暗殺されたとの噂さ……(9月3日)……
- 鮮人浦和高崎に放火 高崎にて十餘名捕はる……(9月4日(号外))……
京都日出新聞(京都)
- 砲兵工廠等の火薬庫爆発 震源地は伊豆大島か
朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を経て八王子に向って盛んに火を放ちつゝあるのを見た……
大阪朝日新聞(大阪)
- 蜚語、暴利の取締等四項 警察署長を集め部長の厳達
神戸又新日報(神戸)
- 萬一を慮り弾丸を搭載 東京湾に回航すべき軍隊「扶桑」不逞鮮人が爆弾を持込んだとの噂……
松陽新報 発行 松江市……
- 9.2号外第四 1 不逞鮮人跳梁す 東京は無秩序状態……
海南新聞 発行 松山市……
- 9.2第三号外 1 鮮人の不逞分子が火薬庫爆發の風説 兢々たる帝都の人心 郊外への避難者續々……
関門日日新聞 発行 下関市……
- 9.5 2 暴漢襲撃説は何者かの宣傳らしい 飛行場に殺到したのは流言に怖れた避難民……
福岡日日新聞(福岡)
- 帝都は殆ど無秩序 宮内省内務省も焼く 焦土と化した東京市中は大混乱を呈し鮮人等の跋扈非常に横暴を働いて居り……
震災直後から自警団や武装した民間人による、「不逞鮮人」と疑われた朝鮮人や警察に保護されている朝鮮人らへの殺傷行為が発生している。日本人や中国人が対象となることもあった[1]。
朝鮮人と誤認された中国人が犠牲となった事件、さらには誤認ではなく中国人であることを理由に殺害された事件もある(関東大震災中国人虐殺事件)。
朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり[28]、都々逸を歌わせたり[29]、朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている[注 4]。「白い服装だから朝鮮人だろう」という理由で、日本海軍の将校ですら疑われることもあった[30]。また福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、東京聾唖学校の生徒の約半数が生死がわからない状態になり、卒業生の一人は殺された[31]。妻沼町で朝鮮人と誤認された秋田出身の青年が拘束され、警察により日本人であると判明したにもかかわらず群衆によって殺害される事件も起きた[32]。
また、朝鮮人及びその誤認とされる人以外にも、社会主義や無政府主義の指導者を殺害した動きがあり、無政府主義者の大杉栄らが殺された甘粕事件、社会主義者10名などが犠牲となった亀戸事件も起きた[7]。
流言の拡散による殺傷事件の発生に対して第2次山本内閣は9月5日、民衆に対して朝鮮人に不穏な動きがあれば軍隊および警察が取り締まるため、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した[33][34]。
內閣告諭第二號今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ
大正十二年九月五日 內閣總理大臣
この内閣告諭第二号と同じ日に官憲は臨時震災救護事務局警備部で「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ[35]。協定の内容は、官憲・新聞などに対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである[35]。こうした対応は政府が朝鮮人暴動についての流言を広めてしまったことを隠蔽・責任転嫁するためであると、金富子は批判している[35]。
後世、警察や軍が朝鮮人殺害に実行・加担ないし煽ったと見る向きも多く、とくに震災後間もない時期においては一般論としてその傾向も強いが、その流れに抗した者もいる。自警団から朝鮮人・中国人数百名を守った大川常吉・神奈川警察署鶴見分署長のように、暴徒との対決も辞さず制した者や、横浜の朝鮮人226名を9月23日に横須賀の不入斗練兵場陸軍砲廠で保護収容し臨時治療所を開設する等の動きがあった [36]。麹町警察署管内では、山口警察署長が自警団に武器携帯を禁じ、軍隊に対しても犯罪の有無をみて朝鮮人を保護するように伝えた。デマが明らかとなっていない間、山口は軍からは嘲笑され自警団からは反感を買いながらも、朝鮮人二百余名を保護し、彼の管内では問題を起こさなかったという[37]。
一方で、亀戸署では、署長古森繁高は、朝鮮人検束に熱心であった。ピークの4日夜には1300人を超えたという。限られた署員数、留置施設により署員らは恐慌をきたし、3日朝から既に若い警官や兵士が「鮮支人は見つけ次第殺してもいいんだ」と言っている姿が、後に報告されたという。有名な第一次の亀戸事件(一般に不良自警団員4人の殺害とされているが、むしろ犠牲者の一人は中国人の人夫を解雇して日本人を雇えという同署の特高刑事からの要求を拒否していた手配師で、どちらかといえば中国人側に立ち、署に睨まれていた人物であった。自警団が悪者とされるに連れ、すり替えられた節がある。)、署が軍人に依頼して署で行われたといわれる社会主義者約10人の殺害事件である第二次亀戸事件、署が直接に関与したといわれる社会運動家である中国人の王希天の殺害事件が起きている。その他、事態が問題となって視察が行われるということから口封じに朝鮮人三百数十人が殺害され、死体が焼却されたという噂もある[誰によって?]。また、朝鮮人・中国人収容者は随時、軍の習志野の収容施設に送られていて、そこで、あるいは移送途上で大量に殺害された可能性も囁かれている[38]。
習志野に収容された朝鮮人・中国人らは釈放されたものの、付近の地元自警団が引き取るようにいわれ、そこでまた地元の自警団によって多数が殺害されている。この自警団への引渡しは、既に軍によって多数が殺害されていたため、それをウヤムヤにするためのものであったのではないかとする見方がある[39]。
自警団は東京府で1,593団体、関東地方全域で3,689団体が組織された[40]。
1905年(明治38年)、乙巳保護条約(第二次日韓協約)から、日本による韓国の領有が始まった[41]。1910年(明治43年)8月29日、日本は「韓国併合に関する条約」を締結し、朝鮮の一切の統治権が「完全且永久」に日本へ「譲与」された(第一条)[41]。
併合後に本格化した「土地調査事業」により、朝鮮の農民は祖先伝来の土地を取り上げられ、農村での生活が困難になった多くの朝鮮人が、日本や満州に移り住むことになった[42]。
サラエボ事件を端緒とする第一次世界大戦の終結後、アジア各地で独立運動が起きた。1919年(大正8年)に起きた三・一独立運動の影響をおそれた朝鮮総督府は、同年、「朝鮮人の旅行取締に関する件」を公布し、渡航を警察への届出許可制にした[43][44]。その後、日本の食糧不足を切り抜けるため、朝鮮総督府は、1920年(大正9年)から「産米増殖計画」を実施した[43]。この結果、日本による朝鮮での土地収奪が一層進行し、再び日本での朝鮮人人口は増加した[43]。
1922年(大正11年)、慢性的な不況下の日本において、資本家が安価な労働力を必要としたため、朝鮮人の渡航について、届出許可制から「自由渡航制」に切り替えられた[43][44]。これにより、日本へ移る朝鮮人は更に増えることとなった[43]。ところが、日本の景気が悪化すると、就職難で苦しみ、不老無頼の徒党を徒党を形成したり、社会運動や労働運動に参加して、集団行動に出る傾向が特に著しい朝鮮人が多数発生してしまったことが政府の記録に残っている[45]。
朝鮮人労働者募集に関する件依命通牒
(略)内地経済界不振の際とて彼ら鮮人の多数は就職難に苦み浮浪無頼の徒を生ずるの傾向あるのみならず、往々にして社会運動及労働運動等に参加し団体的行動に出でんとする傾向の特に著しきものあり、尚内地人との間にも各種の紛争を頻発する等将来種々の問題を熟成するおそれあるを以て(略)—大正十二年五月十四日内務省警閣第三號
そのような朝鮮人が日本人と争いを頻発させるなどの問題が発生していたために1923年(大正12年)に「朝鮮人労働者募集に関する件」が発令され[45]、1923年(大正12年)に「朝鮮人労働者募集に関する件」、1924年(大正13年)に「朝鮮人に対する旅券証明書の件」、1925年(大正14年)には釜山港において「渡航阻止制」を実施した[46]。三・一独立運動以降、マスコミの報道も相まって朝鮮人が恐怖と不安の対象となり「不逞鮮人」という表現が一時期は流行語にもなったとされる[47]。
当時の日本政府は、地震発生前に起きた朝鮮の三・一独立運動や台湾の大規模デモを流血鎮圧した経験から、これら統治領の独立運動を行う一部の民衆の抵抗に警戒感を抱いていた[48]。当時の朝鮮人への無理解と民族的な差別意識も背景として考えられる[49]。日本国内では大正デモクラシーによって労働運動・民権運動・女性運動など支配権力に対する社会主義者らの抵抗・権利拡大運動の活性化と、それに対抗する保守的勢力の急伸、首相暗殺や恐慌による政治経済への不安から社会体制が揺らいでいた[48]。また、国外でもイギリス・アメリカとの対立、シベリア出兵の大失敗などから国際的な孤立化を深めつつあり、関東大震災はいわば内憂外患の状態に追い打ちをかけるように起こった大災害だった[48]。
山本内閣は9月7日に治安維持令を公布した。この戒厳令が解除された11月15日までの東京・神奈川・埼玉・千葉の被災地1府3県民の市民的・政治的自由が停止した状態の中で、大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」といったデマが発生していったが、デマの中には警察や軍が流したものもあった[50]。これらの報道や伝聞による噂に接し不安を煽られた各地の民衆や有志によって自警団が結成されたが、中には地域の管轄警察の主導・指導で組織された自警団もあった。これら自警団の一部によって朝鮮人・日本人・中国人らが虐殺されていった[50]。
関東戒厳司令部に参加した井染祿朗大佐は「今回の不逞鮮人の不逞行為の裏には社会主義者やロシアの過激派が大なる関係を有するようである」と発言した[51]。そして陸軍と警察はこの混乱を奇貨として、社会主義者や労働運動家らの抹殺を画策し、10名が軍隊に殺害された亀戸事件および無政府主義者が憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が実行された。しかしこうした「白色テロ」に対する責任追及や批判は低調だった。当時の社会にとっては治安維持と被災者救援活動の一環であり、軍や政府や警察が威信を取り戻したとして歓迎される状況になっていた[50]。
のちに警察が押収した、10月11日に朝鮮総督府警務局が発布した公文書によると、官憲の暗殺の扇動が行われており、警察署長は一千円、郡守は七百円、警部警部補は六百円、巡査部長は五百円、内地人部課長は三百円、駐在所首席巡査は四百円、内地人巡査は三百円、面長は三百円、朝鮮人巡査は二百円、面書紀は百円の懸賞金をかける旨の扇動が公式に行われていたことが判明している[52]。
警視庁官房特別高等課に設置されていた内鮮高等係によれば、震災当時に在京していた朝鮮人は、詳細に状況を知りうる者6500名、その他、5000〜6000名が認められ、合計1万人以上は全市及び接続郡部にいた[53]。そのうち学生は1500〜1600名だったが、その多くは夏期休暇のため帰省中だった[53]。[注 5]
大正9年(1920年)第1回国勢調査「国籍民籍別人口」の「殖民地人」統計によると、男性36,043名・女性4,712名の朝鮮人(東京男性2,304名女性181名、神奈川男性725名女性57名、千葉県男性36名女性4名、埼玉県64名女性14名、愛知県男性522名女性143名、京都男性823名女性245名、大阪男性5,445名女性845名、兵庫男性3,059名女性711名、福岡男性7,161名女性672名)が日本内地にて居住していた [55]。
大正14年(1925年)第2回国勢調査においては国籍(民籍)ごとの統計がない。
昭和5年(1930年)第3回国勢調査「民籍国籍別人口」の「外地人」統計によると、419,009名の朝鮮人(東京38,355名、神奈川13,181名、千葉県1,728名、埼玉県1,164名、愛知35,301名、大阪96,943名、京都27,785名、兵庫26,121名、福岡34,639名)が居住していた [56]。
経済学者の田村紀之は、国勢調査と内務省警保局調査等を用いて当時の朝鮮人人口を推計している[57]。田村による推計は研究者の間で「田村推計」あるいは「田村統計」と呼ばれて用いられている。田村推計は1977年に公表されたのち、幾度か改訂があり、下表は田村推計の2011年最新版による関東地方における震災前後の朝鮮人人口である[57]。
東京府 | 神奈川県 | 埼玉県 | 千葉県 | 茨城県 | 栃木県 | 群馬県 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1919年 | 1,746人 | 521人 | 56人 | 17人 | 30人 | 77人 | 199人 |
1920年 | 2,485人 | 782人 | 78人 | 40人 | 74人 | 97人 | 283人 |
1921年 | 3,561人 | 1,029人 | 111人 | 98人 | 95人 | 120人 | 329人 |
1922年 | 6,464人 | 1,766人 | 215人 | 213人 | 201人 | 133人 | 307人 |
1923年 | 6,870人 | 2,921人 | 249人 | 254人 | 297人 | 157人 | 589人 |
1924年 | 12,626人 | 5,354人 | 742人 | 666人 | 618人 | 280人 | 914人 |
1925年 | 15,153人 | 6,738人 | 799人 | 1,300人 | 606人 | 311人 | 1,612人 |
※毎年10月1日を基準とする[57]。 |
当時の東京府の朝鮮人人口に関して、市・区・郡別に1年毎に記録した資料は『東京府統計書』が唯一であるとされる[58]。
首都圏で2番目に朝鮮人が多い神奈川県は、内務省警保局調べによると1923年末に1,860人の朝鮮人が在住していた[59]。1925年5月21日付の『横浜貿易新報』によれば神奈川県下に約6,000人の朝鮮人が働いていた[60]。
1923年は下表のように日本内地と朝鮮半島間で朝鮮人の流出入がある。9月4日に内地では「下関に於て朝鮮人入国を拒絶する」方針が閣議決定され、朝鮮半島では9月6日から日本内地への渡航の阻止を実施した[61]。流言や虐殺事件に関するうわさが朝鮮半島にも伝わっていたため内地渡航をためらう者もいたと考えられるという[61]。
日本内地渡航者 | 朝鮮半島帰還者 | |
---|---|---|
1月 | 9,427人 | 6,182人 |
2月 | 6,844人 | 6,398人 |
3月 | 25,260人 | 4,417人 |
4月 | 10,181人 | 5,051人 |
5月 | 9,425人 | 5,728人 |
6月 | 8,129人 | 6,038人 |
7月 | 10,395人 | 6,878人 |
8月 | 12,686人 | 8,178人 |
9月 | 2,410人 | 14,717人 |
10月 | 602人 | 13,726人 |
11月 | 864人 | 6,630人 |
12月 | 1,172人 | 5,802人 |
※朝鮮総督府警務局編「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ボシタル状況」『斎藤実関係文書 書類の部 1』115-16 及び、朝鮮総督府警務局編『朝鮮の治安状況 大正13年12月』(不二出版、2008年)を出典とする[62]。 1923年9月1日から12月31日までの間、関東地方から朝鮮半島へ帰還した朝鮮人の内訳は、 東京府6,239人、神奈川県613人、埼玉県29人、千葉県76人、茨城県56人、栃木県98人、群馬県182人となっている (高警第63号「大正12年自9月1日至12月31日帰還朝鮮人府県別調査」朝鮮総督府警務局、1924年1月12日付)[63]。 |
当時の官庁記録としては、司法庁報告書では民間で殺害し起訴された件数として朝鮮人233人、日本人58名、中国人3名[注 6][1]。戒厳業務詳報によれば軍によって殺害された人数は少なくとも朝鮮人39人、内地人27人、軍民共同の殺害による犠牲者として朝鮮人約215名である[1]。内務省は248名、朝鮮総督府東京出張員は見込み数として813名を挙げている。朝鮮人犠牲者には死亡原因が災害か虐殺か区別せず1人200円(日本内地人死者・行方不明者への御下賜金は1人16円)[注 7]の弔慰金が832名[注 8]へ支払われた[64]。
種別 | 司法省報告書掲載 | 戒厳業務詳報掲載 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
起訴事件 | 警察による | 軍通牒の不明 | 軍隊による | 警察・民間人共同 | |||||
被害者 | 朝鮮人 | 内地人(日本人) | 中国人 | 内地人(日本人) | 朝鮮人 | 朝鮮人 | 内地人(日本人) | 朝鮮人 | |
東京 | 39 | 25 | 1 | 2 | 27 | 19 | 約215 | 約328 | |
神奈川 | 2 | 4 | 2 | 8 | |||||
千葉 | 74 | 20 | 1 | 12 | 8 | 115 | |||
埼玉 | 94 | 1 | 95 | ||||||
群馬 | 18 | 4 | 22 | ||||||
栃木 | 6 | 2 | 8 | ||||||
茨城 | 1 | 1 | |||||||
福島 | 1 | 1 | |||||||
合計 | 233 | 58 | 3 | 2 | 1 | 39 | 27 | 約215 | 約578 |
注:戒厳業務詳報掲載の警察民間人共同の被害者のうち約200 は中国人との説あり |
司法省 | 内務省 | 読売新聞 | 東京朝日新聞 | 報知新聞 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
東京 | 39 | 63 | - | 37 | - | ||||
神奈川 | 2 | 1 | - | 150 | - | ||||
千葉 | 74 | 59 | - | 62 | - | ||||
埼玉 | 94 | 97 | - | 166 | - | ||||
群馬 | 18 | 18 | - | 17 | - | ||||
栃木 | 6 | 10 | - | 0 | - | ||||
合計 | 233 | 248 | 300 | 432 | 519 | ||||
注:司法省1923年11月15日付け、内務省1923年10月22日付け、各紙1923年10月20日付け。 |
2008年3月の内閣府中央防災会議の報告書は「殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。」[68]「殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセント」と推定している[68]。
独自に犠牲者数の調査を行った吉野作造は、朝鮮人の被殺者数を2,613名としている[40][76]。
一、横浜方向 | |||
---|---|---|---|
1.神奈川県橋本町浅野造船所前広場 | 虐殺(現金五百円強奪) | 四十八 | 名 |
2.神奈川警察署内 | 巡査刺殺 | 三 | 名 |
3.程ヶ谷町 | 虐殺 | 三十一 | 名 |
4.井戸ヶ谷町 | 右同(現金二百円強奪) | 三十 | 余名 |
5.根岸町 | 右同 | 三十五 | 名 |
6.土方橋より八幡橋まで至る | 右同 | 百三 | 名 |
7.中村町 | 右同 | 二 | 名 |
8.山手町埋地 | 右同 | 一 | 名 |
9.御殿町付近 | 右同 | 四十 | 余名 |
10.山手本町警察署立野交番所前 | 右同 | 二 | 名 |
11.若屋別荘附近 | 右同 | 十 | 余名 |
12.新子安町 | 右同 | 十 | 名 |
13.子安町より神奈川駅に至る | 右同 | 百五十九 | 名 |
14.神奈川鉄橋 | 右同 | 五百 | 余名 |
15.東海道線茅ヶ崎駅前 | 右同 | 二 | 名 |
16.久良岐郡金沢村 | 右同 | 十二 | 名 |
17.鶴見町 | 右同 | 七 | 名 |
18.川崎 | 右同 | 四 | 名 |
19.久保町 | 右同 | 三十 | 余名 |
20.戸部 | 右同 | 三十 | 名 |
21.浅間町及浅間山 | 右同 | 四十 | 名 |
22.戸山、鴨山 | 右同 | 三十 | 名 |
以上屍体埋葬地及数 1.久保山火葬場 千余名(横浜附近被害者) 2.青木町三ツ沢共同墓地 二百名(神奈川附近被殺) 3.金沢村(不詳) 4.茅ヶ崎町旧東海道線路火葬 5.鶴見町、総持寺山内埋葬 6.川崎町当地埋葬又は持って帰国 | |||
二、埼玉県方面 | |||
1.川口 | 虐殺 | 三十三 | 名 |
2.赤羽荒川 | 右同 | 三百 | 名 |
3.大宮 | 右同 | 二名 | 名 |
4.熊谷 | 右同 | 六十一 | 名 |
5.本庄 | 右同 | 八十六[注 13] | 名 |
6.早稲田村 | 右同 | 十七 | 名 |
7.神保原 | 右同 | 二十四 | 名 |
8.寄居 | 右同 | 十四 | 名 |
9.長沢 | 右同 | 十四 | 名 |
三、群馬県 | |||
1.藤岡 | 虐殺 | 一八 | 名 |
四、千葉県 | |||
1.習志野軍営倉内 | 虐殺 | 十二 | 名 |
2.船橋 | 右同 | 三十八 | 名 |
3.法典村 | 右同 | 六十四 | 名 |
4.千葉市 | 右同 | 二 | 名 |
5.流山 | 右同 | 一 | 名 |
6.南行徳 | 右同 | 二 | 名 |
7.馬橋 | 右同 | 七 | 名 |
8.田中村 | 右同 | 一 | 名 |
9.佐原 | 右同 | 七 | 名 |
10.滑川 | 右同 | 二 | 名 |
11.成田 | 右同 | 二 | 名 |
12.我孫子 | 右同 | 三 | 名 |
五、長野県 | |||
1.軽井沢周辺 | 虐殺 | 二 | 名 |
六、茨城県 | |||
1.筑波本町 | 虐殺 | 四十三 | 名 |
2.土浦 | 右同 | 一 | 名 |
七、栃木県 | |||
1.宇都宮 | 虐殺 | 三 | 名 |
2.恵那須郡 | 右同 | 一 | 名 |
八、東京付近 | |||
1.月島 | 虐殺 | 三十三 | 名 |
2.亀戸署内 | 右同 | 八十七 | 名 |
3.小松町 | 右同 | 四十六 | 名 |
4.寺島請地 | 右同 | 二十二 | 名 |
5.寺島警察署内 | 右同 | 十三 | 名 |
6.向島 | 右同 | 三十五 | 名 |
7.寺島手井駅 | 右同 | 七 | 名 |
8.洲崎飛行場附近 | 右同 | 二十六 | 名 |
9.日本橋 | 右同 | 五 | 名 |
10.深川西町 | 右同 | 十一 | 名 |
11.押上 | 右同 | 五十 | 名 |
12.本所区一丁目 | 右同 | 四 | 名 |
13.大島七丁目 | 右同 | 四 | 名 |
14.大島三丁目活動写真館内 | 右同 | 二十六 | 名 |
15.大島八丁目 | 右同 | 百五十 | 名 |
16.小松川新町 | 右同 | 七 | 名 |
17.浅草公園内 | 右同 | 三 | 名 |
18.亀戸駅前 | 右同 | 二 | 名 |
19.府中 | 右同 | 三 | 名 |
20.世田ヶ谷、三軒茶屋 | 右同 | 二 | 名 |
21.新宿駅内 | 右同 | 二 | 名 |
22.四谷見附 | 右同 | 二 | 名 |
23.吾妻橋 | 右同 | 八十 | 名 |
24.上野公園内 | 右同 | 十二 | 名 |
25.千住 | 右同 | 十一 | 名 |
26.王子 | 右同 | 八十一 | 名 |
右 合計 二千六百十三人 〔東大吉野文庫〕 |
「虐殺はなかった」[3]、それらは官憲によるテロリストへの対処や「不逞鮮人」等に対する自警団等の正当防衛による殺害が主であるなどの理由により「虐殺に相当する行為ではない」とする主張がある[87][88][要ページ番号][89][84]。一般社団法人「ほうせんか」の理事を務める西崎雅夫によると、虐殺否定の言説は震災当時を生きた人々が故人となるにつれて広まり始めたという[90]。インターネットの普及により虐殺否定はさらに拡大し、震災当時の民衆が騙された新聞の流言記事を引用する者さえもいる[90]。
倉持和雄は、流言飛語の発生源は「横浜発生説」、「官憲発生説」、「自然発生説」の3つの説に分類することが出来るとしている[93]。「朝鮮人虐殺事件」研究者の後藤周[注 14]は膨大な資料から流言飛語の発生源を横浜南部丘陵地帯「平楽の丘」と割り出したと主張している[94]。安田菜津紀によると、この丘には4万人が避難していたとされている[95]。
9月1日に「朝鮮人が来襲する」という通報が警視庁にもたらされたが、2日以降も全く朝鮮人が来なかったために虚報であったと判明し[19]、2日の夜には、警視庁から新聞社に、朝鮮人暴動などが流言であることを伝えている[96]。官憲当局は、一部の「不逞な朝鮮人」による暴行等の事件は発生しているとしたうえで、内務省が発表している朝鮮人事件に関する内容が、新聞社により誇大な報道がなされているとし、流言報道の沈静化を図った[21]。 「朝鮮人暴動」に対する警戒体制については、当初は、事実として報道されていたのではないかと推察されている[21]。
東京日日新聞は、「朝鮮人が井戸に毒を投じた」とする誤伝が、川崎方面から起こったと報じている[97]。
一部の「不逞な朝鮮人」のみならず、日本人の囚人に関する流言も新聞で流布されている[98]。 関西や東北の新聞に「横浜刑務所の(日本人の)囚人たちが看守の剣を奪って市民を襲い、強盗強姦など悪事の限りを尽くしている」という報道が掲載され未だに訂正されていないが、完全な虚偽報道であり、実際は逃走者は0人で横浜刑務所の囚人による悪事は発生していない[98][99][100]。「家族の安否確認とともに、できるだけ善行を施し、明日のこの時刻までに戻ってくること」と言い渡し、横浜刑務所の柿色の受刑服を着た受刑者を一時解放したところ、人命救助をしたり、地震により激しく損壊した横浜港埠頭での危険な荷揚げ作業を率先して従事するなどの善行を施した者も多数であり、24時間から遅れた者はいたものの全員が帰還し脱走者はいなかった[100]。
朝鮮総督府警務局長丸山鶴吉の回顧録によると、「朝鮮人が水道に毒薬を投じたとか、あるいは密かに武装して蜂起の計画の流言が飛び、(中略)、釜山においてすら日本刀を携えて水源地を守る者さえあるに至った」ということである[101]。朝鮮半島に在住する日本人もまた自警団を形成した[101]。
朝鮮総督府警務局の「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ホシタル状況」には「大正十二年九月十月震災ニ関スル不穏言動竝流言蜚語取締一覧表」という調査表が収録され、朝鮮半島における流言等の事例が以下のように記録されている[102]。
「不穏言動」として「加諭」(口頭注意)を受けた事例が1,156件1,337名(内地人114件128名、朝鮮人1,042件1,209名)、「事案重キ」場合には法的な取締りを受けた[102]。
「流言」として治安維持令違反となった事例が25件32名(内地人1件1名、朝鮮人24件31名)[102]。例えば「科料30円」を科されたある朝鮮人の事例では、「東京地方大震災ノ當時ハ内地人ハ各自鉄伺等ヲ携ヘ多数集合シテ鮮人集合全部ヲ打殺スト称シ恰モ屠場ニ於ケル牛殺ノ状態ニシテ警察官マテ圧迫シ暴行ヲ加ヘタリ云々」と語ったということである[102]。またある朝鮮人4名が検事送致となった事例は、彼らが「羅州郡金川面尹準烟外三名ハ何レモ本月三日京浜地方ヨリ帰来シタルカ仝五日栄山浦市日ニ出栄シ飲酒ノ上街路ニ於テ県下ヲ装ヒ多数人ヲ集合セシメ京浜地方ニ於ケル内地人ノ鮮人虐殺ハ誠ニ悲惨ナルモノニシテ鉄砲、鉄棒、軍刀ニテ惨殺サレタ鮮人ハ数万ニ及ヒ我等ハ漸ク其ノ危地カラ伿レ皈鮮シタルモノテアル今諸君ノ義捐金ヲ寄附シツツアルモノハ皆内地人ニ騙サレテ居ルノテアル斯クテハ遂ニ鮮人ハ内地人ニ迫害サシテ死亡セネハナラヌ云々」と語ったということである[102]。
「流言」として警察犯処罰規則違反となった事例が82件86名(内地人3件3名、朝鮮人79件83名)[102]。例えば市場付近で覆面巡査が取締りを行い、ある6人組は天皇崩御や皇族薨去の可能性を語り、朝鮮人1名が「拘留20日間」の刑が科せられた[102]。またある朝鮮人1名は列車内で「乗客ニ対シ今回ノ震災ニ於テ一部鮮人カ日本社会主義者ヨリ金銭ヲ受ケテ放火シタルタメ青年団員ハ鮮人ヲ発見次第殺害セリ多摩川ニ於テ鮮人三百名ヲ整列セシメ兵士カ銃殺シタリ云々」と語り検挙され「拘留10日間」の刑が科せられた[102]。ある朝鮮人1名は「内地人懲深ク朝鮮ヲ取チタル為天罰ヲ受ケ云々ト話シタル」として「拘留7日間」となった[102]。
「流言」として保安法が適用となった事例が1件1名、「普天教主 車京錫」という者の予言に適用され、その予言の内容は関東大震災が「内地国カ半減説ノ出現セルモノ」であり、普天教が朝鮮総督府を「転覆シ独立スル決心」というものであった[102]。
9月3日以降、朝鮮半島における治安当局は朝鮮人騒ぎの新聞報道を規制し、日本内地からの電報を没収したり内地からの新聞を差し押さえるなどして新聞社に情報が渡らないように手回しをした[61]。東亞日報や朝鮮日報による震災報道は治安当局の検閲と弾圧にさらされた[61]。
内務省調べでは朝鮮人被殺者は231名であるが、過剰防衛により起訴された日本人は367名である[84]。
朝鮮人の被殺者数は司法省は39名(日本人は25名、中国人は1名)、内務省は63名、東京朝日新聞は37名。
朝日新聞によると、米国汽船に乗って清水港から東京の被災者見舞いに来た静岡市民ら80名が9月4日横浜で上陸にあたって朝鮮人暴動についての注意を受けたが、それを聞いて、船内に6名の朝鮮人がいるのを発見したとして、直ちに同米国船中において2人を殺害し4人を海に投げ込み、さらに近くにいた中国人母娘2人も海に投げ込んだとされている(少なくとも朝鮮人は全員死亡と報じられている)。乗客らは一団となって上陸したものの、途中、鶴見で自警団に誰何され、今度は彼ら見舞い人団の1人が殺害されたとされている。これは和歌山県人であった。[108]
亀戸町では10名の社会主義者の殺害と、数十人の朝鮮人殺害があったとされる。
当時の亀戸警察署長は河川敷に約100名の変死者、焼死者、溺死者の遺体があったと言い、メディア報道はその100名余りは「鮮人等」「日鮮人」と報じた他、「日本人は一人も埋まって居ない全部朝鮮人ばかりだ」「荒川放水路の埋葬現場には日本人の死体は一つもなく総て朝鮮人のみ」という証言を報じた新聞もある[90]。
1982年に墨田区荒川放水路の木根川橋付近で発掘調査が行われたが遺骨は一切なく、その理由としては建設省の許可エリア限定であったこと、当日中に埋め戻すという条件であったこと、コンクリート敷きの土手付近は調査不能であったこと、震災当時の新聞によると震災と事件から約2か月後に警察当局が掘削を2回実施して遺骨を移送したらしいことなどが挙げられる[90]。市民団体「ほうせんか」の西崎雅夫は、震災当時の警察の動きを証拠隠滅と指摘している[90]。警察による遺骨の持ち運びは亀戸事件の遺族が遺骨の収集を予定していた日の前日1923年11月12日の深夜と11月14日とされ、國民新聞は2回目の状況を「全部一纏めにして十三個の棺に納め、三台のトラックで現場から運び去った」と報じている[90]。
朝鮮人の被殺者数は司法省は2名(日本人は4名、中国人は2名)、内務省は1名、東京朝日新聞は150名。 金承学は、神奈川県では1,162名の遺体が発見され、その内500名は神奈川鉄橋(現・青木橋)で発見されたと主張している[81]。金は、この調査ではさらに所在不明者1,795名、調査終了後の報告1,052名と主張し、当時の混乱で実際より多く数えられたと神奈川県の研究チームは主張している[81]。『横浜市史』「関東大震災と復興事業」には、神奈川鉄橋で起きたといわれている「500人虐殺」に関して「鉄道橋における500人の殺害は軍隊が配置されていた拠点であり、組織的殺害をうかがわせる」と記載されている[109]。これに対し、後藤周の調査では500人虐殺を裏付ける証拠の発見には至らないとしており、2023年に出版された後藤周の著書『それは丘の上から始まった 1923年横浜の朝鮮人・中国人虐殺』(ころから株式会社)においての扱いはない。
震源に近かった神奈川県横浜市は震災により甚大な被害を被った地域である[110]。神奈川警備隊司令官の奥平俊蔵陸軍少将は、横浜市内に飛び交う流言に騙されず、自叙伝に「不逞日本人」という言葉を用いて「騒擾の原因は不逞日本人にあるは勿論にして、彼等は自ら悪事を為し、これを朝鮮人に転嫁し事ごとに朝鮮人だという。」「重大なる恐慌の原因と成りしものは不逞日本人の所為であると認めるのである。」などと書いている[111]。
東京新聞によると、2012年に神奈川県川崎市の実態調査をした元市職員らの市民グループは、横浜市のようには犠牲者が出なかったことについて「当時の川崎はまだまだ人口の少ない田舎。『朝鮮人が放火した』というデマでパニック状態になった東京や横浜と比べ、火災が極めて少なかったことも影響している」と主張している[112]。
東京新聞によると、2023年に、市民団体「関東大震災時朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会」が、1923年11月21日付で神奈川県知事安河内麻吉から警保局長に宛てた「震災ニ伴フ朝鮮人並ニ支那人ニ関スル犯罪及保護状況其他調査ノ件」という報告文書を発見し、57件145人の殺害事例が記載されていた[113]。この文書の素性については姜徳相が約10年前に古書店で発見し、2021年に亡くなるまで文書内容を裏付ける実地調査などを続けていたと主張している[113]。尚、新資料の朝鮮人被害者145人について氏名不明のものが多く「鮮人ト認メラルル被害者中ニハ内地人ノ一部含有シ居ルモノト認メル」と日本人被害者が一部含まれると注記されている[114]。
公的記録によると、横浜では日本人を殺害した事件が1件起訴されているのみである[95]。
栗原佳子は、横浜市は被殺者の半数を占めると言われているが、司法省の発表は「ゼロ」であったと述べている[115]。
朝鮮人の被殺者数は、司法省記録では94人(日本人は1名)、内務省記録では97人、東京朝日新聞は166人としている。「新編埼玉県史」、「埼玉県行政史」、「埼玉県警察史」では文献や当時の新聞記事にもとづき、殺害された朝鮮人について、166~240人と推測している[116]。『増補保存版かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺-』によると193名(未確認を合わせると240名)、森田武編『明治・大正・昭和の郷土史』によると県内全体で200名以上としている[117]。
熊谷事件 9月4日夕方から夜にかけて、県南から群馬方面へ中山道を徒歩で移送中の朝鮮人数十人が群衆や自警団によって殺害された事件。熊谷町での46人の殺害について、加害者35人が検挙され公判に付された[118]。
久下村・佐谷田村での殺害 当時の記録はなく墓地なども現存していないが、久下村・佐谷田村(現:熊谷市)で護送中に逃亡した数人の朝鮮人が殺害され、村内に埋葬されたという証言がある。震災50周年の日朝協会の呼びかけによる調査(『かくされていた歴史』1974年)によるもので、これらも含め熊谷での犠牲者の「確認出来た最低数」を57人と結論している。また確認に至らなかった数として11から22人を上げている[119]。熊谷事件の犠牲者数は『かくされていた歴史』による57人という数字が使われることが多い。[120]
神保原事件
9月4日、本庄警察署から群馬へトラックで移送される朝鮮人が、県境で群馬側に通過と引継ぎを拒否され、警察により本庄警察署に戻る際、神保原村で暴徒に襲撃された殺傷事件[121]。
本庄事件
9月4日、本庄警察署で警察が収容している朝鮮人と、神保原事件により群馬への移送を中止して戻った朝鮮人を、暴徒が殺害した事件[122][123]。
妻沼事件
9月5日夕方、上京途中の秋田出身の日本人青年が朝鮮人と誤認された結果、殺害された事件。一旦は派出所に連行され警察の調べで疑いが晴れたが、思わず「万歳」と喜んだところ、集まっていた群衆が激高し警察の前で惨殺され、死体を利根川に投げ入れられた。この事件によって十四人が検挙され公判に付された[124][125]。
寄居事件
9月5日夜、寄居警察署内に保護されていた朝鮮人の飴売り具学永が、用土村の自警団の襲撃により殺害された事件[124]。
片柳事件
朝鮮人の被殺者数は司法省は74名(日本人は20名)、内務省は59名、東京朝日新聞は62名。『千葉県の歴史 通史編 近現代2』(2006年3月27日、千葉県史料研究財団編)によると96名超とされている[117]。
東京新聞の西田直晃によると、検見川事件は、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となったとされる[126]。東京新聞によると、5日、避難してきたいずれも20代だった沖縄・秋田・三重出身の日本人男性3人が自警団によって朝鮮人と誤認され、駐在所に連行されたとされている。3人は身分証を提示して日本人だと主張したものの、自警団が彼らを殺害し、花見川に遺棄したとされる[127]。
朝鮮人の被殺者数は司法省は18名(日本人は4名)、内務省は18名、東京朝日新聞は17名。
群馬県では、1923年(大正12年)9月3日、佐波郡郡長から町村長宛ての通達で、「東京府下震火災に際し囚人多数脱出し、又不逞鮮人暴行有之たるやに聞き及び候処、警戒の厳重となるに随い、是等不逞の徒何時当地方へ入り込むやも測りがたく候条、この際警備隊を組織し、警戒を厳重ならしむるよう」(県行政文書)とし、この結果、県内で469の自警団が組織された[128]。--
4日には、高崎駅で朝鮮人が自警団の検問にかかり、棍棒で殴られ、入院した[129]。同日、群馬県は、朝鮮人暴動などは事実無根であるとし、沈静化を図ったが、効果はなかった[129]。
朝日新聞によると、群馬県多野郡の自警団は、9月4日同郡新町の鳶職親方の元にいた朝鮮人工夫16人をとらえ藤岡警察署に引渡し、さらにその前9月2日には同郡鬼石町の自警団が菓子行商人をとらえ引渡していたが、藤岡署では行商人に不審点なく釈放したところ、5日200余名の自警団員がその抗議に押しかけ、取締りの外出から戻って来た署長と談判、署長は逃走、自警団員は残りの署員に迫り、ついにその看視する留置場の檻を開け、16人を殺害したとされている[130]。さらに翌日、日野村の自警団員数十名が朝鮮人工夫1名をとらえ藤岡警察署に引渡しに来たが、先の行商人の釈放をめぐって抗議、投石を始め、応援に来ていた警察官を含む警察署員30名は逃走、自警団員らは署ばかりか署長官宅にまで押しかけ衣類を荒し、窓ガラスを壊し、工夫も殺害されているとされる[130]。この際、署の会計書類も持ち去られていて、事件にウラがあることも疑われると主張している[131]。[129]
10月以降、警察によって自警団の取り締まりが行われ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった[132][133]。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[133]。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。
1923年(大正12年)12月、衆議院が開会した[134]。同月14日の田渕豊吉(無所属)、15日の永井柳太郎(憲政会)、23日の高柳覚太郎、南鼎三などが、朝鮮人の殺害について政府を問い質した[134]。
田渕議員は、「私は内閣諸公が最も悲しむべき所の大事件を一言半句も此点に付て述べられないは、非常なる憤慨と悲しみを有する者であります……千人以上の人が殺された大事件を不問に宜しいのであるか」と述べたが、山本権兵衛首相は答弁を保留した[135]。翌15日、永井議員は、前日の田渕の発言を政府が黙殺したことを問題とした[136]。また、この事件について、「全責任は、挙げて自警団に存するが如き観あることは、国民思想の向上発展の為に、本員は之を悲しまざるを得ないのであります」と述べた[136]。
同日、貴族院では、男爵・藤村議員は、政府や軍、在郷軍人団、青年団を称賛した[136]。貴族院では、朝鮮人の殺害は取り上げられなかった[136]。
また、永井議員は、朝鮮人暴動の流言について「当時の内務省の最高官から発せられましたので、其命令に接しました所の、各地に於ける地方長官は、又、其命令を管下の郡役所に伝へ、管下の郡役所は又、之を管下の町村に伝達することに努めました結果、彼の自警団の組織を見るに至った」と述べ、あわせて、朝鮮統治の責任を追及した[136]。
山本首相から陳謝の言葉は出ず、「目下取調進行中」との答弁で打ち切りを図った[137]。ただ、内相・後藤新平からは、「不幸にして犯罪人でなき者の害を被った者が絶対に無いと云ふことは勿論言ふ能はざることであります」と、殺害の事実を認める発言があった[138]。
震災から1ヶ月ほどが経過した10月20日、官憲当局は朝鮮人の犯罪行為について調査した『震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書』(以下、刑事事犯調査書)を公開し、一部の放火や殺人については事実であったとする「司法省発表」を行った。また、流言を流布して逮捕された中に朝鮮人もいたと発表。更に各地で朝鮮人の殺害が発生した遠因は「狂暴の鮮人に暴行脅迫放火強姦等の行為があった」ためでもあり、殺害された者のなかには犯罪など悪いことをしたために殺害された「不逞な朝鮮人」もいたなどの声明を繰り返し発表した[21][170]。各種新聞もこの政府発表(司法省発表)をベースとした報道を行った。[171][170][172][97]。また司法省発表と同日に一方で政府は自警団が朝鮮人を虐殺した事件の報道を一部解禁した[173]。
この『刑事事犯調査書』は、複数の識者や専門家からその信頼性を批判・疑問視されている。石橋湛山、布施辰治、吉野作造、報知新聞、時事新報などはこの司法省発表を批判した[174]。山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』によると、一部の朝鮮人による犯罪報道等の内容は不透明であり、「司法省のいう朝鮮人の『犯罪』は、日本国家の責任を免責するためにでっち上げられた創作物」とされている[173]。ゾルゲ事件の捜査を担当した元検察官の吉河光貞は、『関東大震災の治安回顧』にて放火や殺人事件の犯人とされる朝鮮人が氏名不詳であったり行方が分からなくなっている点、起訴されたものの殆どが窃盗など軽微な犯罪である点、爆発物取締罰則違反で起訴された朝鮮人が裁判で無罪となっている点を指摘し、「果たして以上述べたが如き鮮人犯罪が実際に行なわれたものであろうか。」「放火、殺人などの重大犯罪すら、その大部分が犯罪の嫌疑なきものとして不起訴処分に付されるがごとき状態であったことは注目に値する。」と調査書の信頼性に疑問を呈している[175]。歴史家の金富子は、臨時震災救護事務局警備部が作成した「鮮人問題に関する協定」に基づき、流言と虐殺の責任を自警団に転嫁しつつ朝鮮人の虐殺を正当化するために「朝鮮人暴動」の事実探しが行われたと指摘している[35]。
岸田文雄内閣の内閣官房長官・松野博一は、震災発生100年を2日後に控えた2023年8月30日、首相官邸での記者会見において、共同通信の記者から、関東大震災の記録について「当時、被災地ではデマが広がり、多くの朝鮮人が、軍、警察、自警団によって虐殺されたと伝えられています。政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか」などの質問を受けた[176][177][178]。これに対して、松野は「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」と述べている[176][177][178]。
翌31日の記者会見において、松野は、例えば2009年に中央防災会議に設置された「災害教訓の継承に関する専門調査会」が取りまとめた関東大震災に関する報告書の中に、朝鮮人虐殺に関する記載があるとの質問を受けた[177][179][9]。
被災地では朝鮮人暴動の流言に基づいて民間の自警団による朝鮮人に対する暴行や殺傷事件が起きていた。混乱の中、真偽を確かめられないまま、官憲も流言を事実と誤認し、行動した。このことが官憲自身の手による朝鮮人殺傷事件を引き起こし、また、自警団の暴走を助長する結果となった。[23]
これに対して、松野は、これは有識者が纏めたもので政府見解を示したものではないと回答した[75]。(なお、この報告書の作成者の一人である東大の歴史学者鈴木淳教授によれば、報告書は、政府機関が当時公表した情報からどれだけのことが言えるかという、当時の政府発表の焼き直しであり、非常に限定的な範囲のものであり「最低限」のものだとしている[180]。)
1973年6月、日朝協会東京都連合会の呼びかけにより、「関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が結成された。代表委員には、日朝協会会長の渡邉佐平、相川理一郎、飯村実、大森良三、千田是也、藤森成吉、壬生照順、山田四郎、山本忠義の9名と東京都議会の全会派の代表が就任した。実行委員会は追悼碑建立と調査に担当が分かれ、青山良道が碑建設実行委員長となった[181][注 15]。同年9月29日、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」が墨田区の都立横網町公園に建立された[181][182][183]。当時の美濃部亮吉知事はじめ、思想信条を超えた幅広い市民が浄財を寄せ、600人近くの個人、250近くの団体が協賛した。追悼碑は完成後、都に寄付された[181][184]。
朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会の名による追悼碑文は東京都との交渉を経て作成され[注 16]、都議会の全会派の賛同を得て追悼碑は建立された[181]。
横網町公園内の東京都慰霊堂では毎年9月1日に震災犠牲者を供養する大法要が営まれてきた。翌年の1974年には同じ日、各市民団体などの共催により、追悼碑前で第1回「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」が開かれた。
第1回関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典に、当時の都知事である美濃部亮吉は、「51年前のむごい行為は、いまなお私たちの良心を鋭く刺します」と追悼のメッセージを寄せた。以来、歴代東京都知事が追悼式典に追悼文を送ることは恒例となった[185][186]。
2016年7月に東京都知事に就任した小池百合子は、2017年8月、式典へ追悼文を送ることを止めた[186]。なお、就任1年目の2016年には送付していた[186]。追悼文送付取りやめは2017年8月24日に各紙が報じたことで明らかとなり[187][188]、8月30日、墨田区長の山本亨が小池に追随して同じく送付を取りやめたことが報じられた[189]。
2017年3月2日の東京都議会本会議で、自民党の古賀俊昭都議が、犠牲者数について異論があるとし、「今後は追悼の辞の発信を再考すべきだと考える」と求めた[186]。古賀は「日本及び日本人に対する主権及び人権侵害が生じる可能性があり」として加害者側の権利を守るために事実を究明し、震災の3年前1920年の国勢調査で1府3県(東京府、埼玉県、千葉県、神奈川県)の全朝鮮人人口は3385人であるから追悼碑の犠牲者数「六千余名」が疑わしいと主張した[190]。これに対し、小池知事は「追悼文は毎年、慣例的に送付してきた。今後は私自身がよく目を通し、適切に判断する」と応じていた[186]。答弁によると追悼文送付は事務方レベルの業務である[190][注 17]。古賀が論拠としていたのは2009年に刊行された工藤美代子著(共著者加藤康男)『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版)である[190]。この著書は2014年に工藤の夫であり前作の共著者である加藤康男の名義で『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック)と改題されて新たに刊行された。これらの著書は、震災当時の流言記事を読者に信じ込ませようとしたり出典にない事柄を記述したりするなど、「トリック」本であるとして『TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(ころから、2019年)の著者加藤直樹から批判されている[89]。工藤美代子や古賀俊昭の関係する組織として日本会議が言及されている[89][192]。
2022年12月の都議会[193]では、立憲民主党の中村洋都議が、追悼文中止事案を念頭に置き虐殺事件に対する小池知事の認識について質問したのに対し、小池知事の回答は、例えば国連が「第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日」(2004年)の翌年「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」(2005年)を設置した取り組みにみられるような現代の人道的価値観とは異なる。すなわち小池知事は「災害と様々な事情で亡くなられたすべての方々に哀悼の意を表している」と答弁した[194]。翌2023年も追悼文の送付は見送られた[195]。しかし2023年春季と秋季に開催された慰霊堂の大法要に変化が起きた。例年の大法要は震災と戦災の犠牲者にのみ言及していた小池知事が2023年春季・秋季の大法要では「極度の混乱の中で犠牲となられた」人々にも言及した[196][197]。「極度の混乱」の文言は2016年の知事初年度追悼文に用いて以来の言及となった[196]。小池は2024年以降に追悼文の再開を予定していない[198]。
『コリアワールドタイムズ』によれば、小池知事が「9月と3月に都慰霊堂で開かれる大法要で、関東大震災、先の大戦で犠牲となられたすべての方に哀悼の意を表している」ことを追悼文不送付の理由に挙げたことに対し、「自然災害による震災の被害者と、人の手によって殺害された犠牲者は性格が異なる」との批判がある[12]。
2017年から毎年、保守系市民団体「日本女性の会 そよ風」は、横網町公園の碑文に刻まれている犠牲者数「六千余名」[注 18]には根拠がないとして、慰霊碑の撤去を要求している[71]。「そよ風」は2016年(6月19日)のブログに、古賀都議と面会して追悼碑文の「六千余名」の問題について報告した旨を掲載している[199]。「そよ風」が主張する犠牲者数は「233人(司法省の記録にある、加害者が特定され起訴された事件に限った数)」である[71]。
「そよ風」は追悼式典と同日同時間帯に会場の近くの公園で独自に集会を開催している[71]。2019年9月1日の集会では、「朝鮮人が、震災に乗じて、略奪・暴行・強姦などを頻発させ、軍隊の武器庫を襲撃したりして、日本人が虐殺されたのが真相」であり、「殺害の犯人は不逞鮮人や朝鮮人コリアン」と主張している[200]。この「不逞」などの発言が東京都の人権尊重条例[注 19]に基づくヘイトスピーチと認定されている[201]。2023年9月1日には慰霊碑前での集会を予定したが、開催時刻直前になって、抗議者の集団と「そよ風」メンバーとの間で罵倒の応酬が発生し、衝突を避けるため警察から制止されて慰霊碑前での集会を断念した[71]。
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