横網町公園
東京都の公園 ウィキペディアから
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横網町公園(よこあみちょうこうえん)は、東京都墨田区横網にある東京都立の公園である。東京都慰霊堂や復興記念館があるところとして知られている。
当公園は元々陸軍被服本廠があった場所[1][2]で、1922年に王子区(現在の北区)赤羽台に移転した後、東京市(当時)が買収して公園として整備したものである。工事は1923年7月に開始されたが、その最中の同年9月1日に関東大震災が発生した[2]。昼食準備で火を使う正午直前の地震だったこと、北陸地方を台風が通過中で、関東地方も強風に見舞われていたこと、工場や住宅が密集する下町は街全体が火災に弱かったことの三要素が重なり、各所からの出火は大規模火災に発展した[3]。
炎に追われた人々は造成中だった当公園を絶好の避難場所とみなして集まってきた。被服廠跡地に集った避難民は約4万人に達したという。だが16時頃、敷地は火災に取り巻かれ、熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り[2]、さらには巨大な火災旋風が発生し、人はおろか荷物や馬車までもを巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。
結果、横網町公園に避難した人だけで3万8,000人が犠牲になったという。震災後、遺体はその場で火葬され[4]、3mの高さになるほどの大量の遺骨は、その場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された[2]。納骨堂(三重塔)や慰霊堂は建築家の伊東忠太らが設計することになり[5]、1930年に完成[2][5]し、納骨堂には犠牲者5万8,000人の遺骨が納められた[6]。また、数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。
四十九日となる10月19日に、東京府市合同の大追悼式が行われた。1924年9月1日から東京府市合同で殃死者一周年祭並びに法要をし、以降から毎年続けられている[7]。1930年9月1日、慰霊堂を中心とする関東大震災に関する施設等は、東京震災事業協会から東京市に精算残余金とともに引き継がれた[8]。また、横網町公園自体も同日に開園した。翌1931年には当公園内に関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した[9]。
しかし1945年、東京は第二次世界大戦によって再び焦土と化し、特に3月10日の東京大空襲による犠牲者の遺体は、当公園をはじめ多くの公園に仮埋葬されていた[10]。その後、第二次世界大戦によって生じた身元不明の遺骨などを、当公園にある納骨堂を拡張した「震災記念堂」に合祀されることになった[9]。そして1951年に「東京都慰霊堂」と改称され[10]、現在に至っている。慰霊堂は1999年(平成11年)、復興記念館とともに東京都選定歴史的建造物に指定された[11][12]。
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