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日本のヴァイオリニスト、音楽教育家 (1898-1998) ウィキペディアから
鈴木 鎮一(すずき しんいち、1898年10月17日 - 1998年1月26日)[1]は日本のヴァイオリニスト、音楽教育家[2]。ベルリン高等音楽学校教授カール・クリングラーに師事[2]。
スズキ・メソードの創始者であり、世界的には音楽教育家および教育学の理論家として著名で、その教育理論は、日本よりも欧米で、とりわけアメリカ合衆国で高く評価されている[注釈 1]。
1898年に愛知県名古屋市に父・政吉と母・良の三男として生れる。父・鈴木政吉は鈴木バイオリン製造の創業者で、1888年(明治21年)よりバイオリン作りを始め、日本で最初のヴァイオリン工場を設立した人物である。そのため幼児期よりヴァイオリンに囲まれる環境に育った。実家は兄弟妹13人(うち2人は夭逝)からなる大家族であり、少年時代は父親の工場へ遊び場の様に出入りしていた。商業学校に入ってからは夏休みになると工場で働く様に父に命じられ、バイオリン製作について一通りのことを覚える。 卒業の前年頃、たまたま蓄音機を手に入れて、名バイオリニスト ミッシャ・エルマンが演奏するシューベルトの「アヴェ・マリア」のレコードを買ってきて初めて聴く。それまで兄弟喧嘩をしたときなどに、バイオリンで叩き合うほど身近であった為、バイオリンを玩具のようなものだと思っていた鎮一であったが、このレコードによって初めてプロのバイオリンの音に触れ、バイオリンがその様な美しい音を出すことに非常に驚き、大いに感動する。この時から、音楽・芸術に関心を持つ様になる。その後、エルマンのレコードを買い、ハイドンのメヌエットなど弾けそうな曲から譜面も無しに練習し、兄梅雄の手ほどきもあり、我流ながらもバイオリンを弾く様になる[3]。
1916年(大正5年)、市立名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)卒業。商業学校を卒業後、父親の方針でバイオリン工場の事務所に勤め、意欲的に働くも2年ほどして体調を崩し、興津へ転地療養する。その後3ヶ月ほどで名古屋へ帰るが、療養先で親しくなった柳田一郎の勧めで徳川義親侯爵の北千島探検(1919年)へ同行することになる。この頃にはバイオリンと鎮一は切っても切れない縁となっており、旅にはバイオリンを持参した。旅に使われた船のサロンにはピアノがあり、旅に同行していたピアニストの幸田延(幸田露伴の妹)の伴奏で鎮一はバイオリンの演奏を披露したりした。その旅の終わり頃、徳川、幸田から正式な音楽の勉強を薦められる。その後、徳川から父・政吉への説得もあり、鎮一は音楽の道に進むこととなった。
1920年(大正9年)に上京、徳川義親侯爵家に寄宿し、ヴァイオリンを安藤幸(幸田延の妹)に師事。1921年(大正10年)、父親の許可を得て、徳川侯爵らの世界一周旅行に同行。その途中でドイツに留まり、最初の3ヶ月は師事すべく先生を選ぶ為、演奏家の音楽会を聴き回る。なかなかつきたいと思う先生が見つからなかったが、ベルリン高等音楽学校の教授であったカール・クリングラー率いるクリングラー・カルテットの演奏会に感動、クリングラーに弟子志願の手紙を出す。かねてから弟子を取らないクリングラーであったが承諾され、師事する。 ベルリン滞在中、鎮一の世話役であった医学者のハンス・ミハエルス教授がアメリカのホプキンス大学の学部長に招聘されることとなった。そのため代わりの後見人役にアルベルト・アインシュタイン博士をミハエルスから紹介される[2]。以後、アインシュタイン博士の世話になり、博士の知友のグループから大きな影響を受けた[4]とされる。鎮一はアインシュタインについてバッハのシャコンヌ(無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1004-5)を好んでおりヴァイオリンの演奏は自分よりも上手いと思ったという[5]。
ベルリン高等音楽学校の受験には失敗したものの、「空席があれば合格」というコメント付きだった。その後もクリングラー教授の個人的な弟子として約8年間研鑽を積んだ[6][7][8][9][10]。これに対して日本の才能教育研究会(本部:松本市)はクリングラー教授に学んでいた当時、レッスンの日時や曲目についてやり取りをしたクリングラー教授からの手紙をホームページにて公表している。 また、アインシュタイン博士から贈られた「鈴木鎮一様 思い出に アルベルト・アインシュタイン」と書き添えられた自画像を、交流の証としてホームページで紹介している[1]。
1928年(昭和3年)、ワートラウト鈴木(ヴァルトラウト夫人、Waltraud Prange(1905-2000))と出会い結婚したが、母危篤の知らせを受け帰国。その後兄弟と『鈴木カルテット』を結成して、東京に移転して演奏活動を開始するとともに、国立音楽学校(現国立音楽大学)に出講。1931年(昭和6年)には帝国音楽学校のヴァイオリン教授として、アレクサンドル・モギレフスキーとともに採用される。そのころ鈴木の演奏を聞いて感銘を受けた青年から入門の要請を受けて自宅でも教え始める。諏訪根自子もその頃の弟子の一人である。1931年からは江藤俊哉、豊田耕兒、小林武史、小林健次らの主要な門人を相次いで引き受ける[11]。その名声は日本国中に知れわたり多忙な生活を送ったが、束の間の夏休みには夫妻で軽井沢の別荘を借り、旧知の徳川義親侯爵の別邸を訪ねたり、柳宗悦・柳兼子夫妻に出会い親交を深めるなどして、心地よい夏の午後を過ごした[12]。1938年4月には第6回日本音楽コンクールの審査員を務めている[13]。
第二次世界大戦中、父親のヴァイオリン工場は、水上飛行船を建設する工場に改築された。その結果、アメリカの戦闘機に爆撃され、兄弟の一人が死亡した。この間、鈴木の妻は、元ドイツ市民としての条件があまりにも危険な状態になったときに、鈴木とは別の場所に避難し、工場は木材の供給不足のために苦労していた[14] 。鈴木は田舎の山岳地帯の他の家族と一緒に工場を確保し、妻は他のドイツ人や元ドイツ人が隔離された「ドイツ人の村」に移動しなければならなかった。終戦後、鈴木は新しい音楽学校の発足に招かれ、幼児期からの子供に音楽を教えることを条件に合意した。鈴木は、戦前の生徒の一人である豊田耕兒が戦中に孤児となったことを知って養子縁組し、音楽教育を続けた。鈴木と妻は最終的に再会し、松本に引越して教え続けた。
1955年(昭和30年)、東京都体育館において、当時の皇太子をはじめとする日本の皇族の出席のもと、第1回全国大会「グランドコンサート」開催。2000名の生徒によるヴァイオリンの大合奏の風景は、後に映画『ミュージック・オブ・ハート』において再現されることとなる。1964年(昭和39年)、代表的な10名の児童を連れ、アメリカ合衆国に最初の演奏旅行を行い、アメリカの音楽教育界に衝撃を与える。これ以降、1994年(平成6年)まで30回の訪米が繰り返される。 1975年(昭和50年)、第1回世界大会をハワイ州において開催。1978年(昭和53年)、日米親善コンサートのため100名の児童を率いて渡米、アメリカ側の100名の児童も加わってケネディ・センターで行われたコンサートは、カーター大統領夫妻が招待され、同月カーネギーホールでも同様の演奏が行われる。
1986年(昭和61年)、サントリーホールにて米寿記念コンサート。1991年(平成3年)、イギリスのサンデー・タイムス紙の特集「20世紀をつくった1000人」の中に選ばれる。1994年(平成6年)、サントリーホールにて95歳祝祭コンサート。1996年(平成8年)、鈴木鎮一記念館が開館。1997年(平成9年)、専修学校国際スズキ・メソード音楽院開校。1998年(平成10年)に松本の自宅で99歳で永眠し、世界中の門下生から弔辞が相次いだ。墓所は松本市中山霊園0区。
鈴木の思想は以下のようにまとめられている[15]。
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