Loading AI tools
ウィキペディアから
道仏(どうぶつ、英語: Dōbutsu)は、青森県三戸郡階上町にある地名で、数多の小字を擁する[5]。旧糠部郡のち三戸郡道仏・同郡大蛇・同郡小舟渡、三戸郡道仏村、三戸郡階上村道仏に相当する。郵便番号は039-1201[2]。2020年10月実施の国勢調査によると、人口は4,853人、世帯数は1,890戸である[1]。階上町役場や多くの商業施設が立地しており、階上町の経済と政治の中心地域であるとされる。近年は八戸市のベッドタウン化が顕著な地域でもある[6]。
階上町の北東部および階上岳の北東麓の丘陵地帯に位置し、東は太平洋に面する。道仏川など多くの河川が北東流し、小低地を経て太平洋に注いでいる[7][5]。海岸線は変化に富んでおり、多くの漁港を擁する漁業地域であるとともに、低地や丘陵地で稲作や畑作、野菜栽培などが行われる複合農業地域の一面もある。域内には道仏や大蛇、荒谷、追越、榊、榊山、小舟渡といった集落が存在する[7][5]。
また、道仏に所在する階上町の震度計は、故障していないにもかかわらず、近隣の青森県八戸市や岩手県久慈市の震度計に比べて、高い震度を計測することが度々あるが、これは震度計が設置されている階上町役場が硬質な地盤上にある13mほどの軟質な火山灰層に立地しているためである[8]。実際に、道仏と硬質な地盤上に立地する大蛇地区で震度を16回、計測したところ、いずれも道仏地区のほうが大きい数値を出し、平均して0.6だけ数値に差があったことが報告されている[8]。
域内には、大蛇・追越・榊・小舟渡の4漁港があり、沿岸漁業が主でサケやイカ、カレイなどを漁獲しているほか、海岸の岩礁でアワビやウニ、コンブを漁獲している[6]。
江戸時代には、大蛇村として存在しており、八戸廻(階上岳山麓に因み山根通とも)に属し、八戸廻代官のもと、山根名主による支配下にあった[10]。
元和3年の八戸五三郎宛の書状には、盛岡藩の南部利直が八戸氏に対して、大蛇浜の海産物の収取権を認めていることがわかる[10]。
元和4年に盛岡南部氏と根城南部氏による田名部と八戸海岸部との交換の際、「大じゃ」が根城南部氏の所務地とされた[7]。
明治12年の人口は共武政表によると、121人(男66人、女55人)で世帯数は17世帯、物産はムギ・雑穀・麻糸・魚類であった[7]。
現在はJR八戸線の大蛇駅が設置され、大蛇漁港が第1種漁港に指定されている[5]。
概ね、道仏耳ケ吠と道仏天当平の区域に相当し、合わせて耳ケ吠・天当平地区とも称される[5]。また、古くは耳吠(みみがほえ、みみやほえ)とも記された[11]。
道仏の西部に位置し、国道45号沿いに集落や商店が展開しており、1981年(昭和56年)に隣接する赤保内耳ケ吠から、階上町の町役場が新築移転してから、官庁センター的様相をもつようになり、新興地域として発展してきた[5]。
江戸時代から明治時代初期には、九つある道仏村の枝村の一つとして存在しており、明治元年の新撰陸奥国誌には家数37の小舟渡村として記されていた[11]。八戸廻(階上岳山麓に因み山根通とも)に属し、八戸廻代官のもと、山根名主による支配下にあった[10]。第2種漁港である小舟渡漁港を中心に栄えている[5]。当地の初出は1617年(元和3年)の南部利直印紙(三翁昔話)に「弐十一村、みなと、ほつし浜」である[12]。弐十一村は小舟渡地区の道仏廿一、みなとは小舟渡地区の道仏小舟渡であると推定されている[12]。この文書によると廿一と小舟渡が新田政広に給されたとされる[12]。
延享4年の八戸藩浦数覚によると、八戸廻22浦のうちに小舟渡の名があった他[11]、八戸藩日記寛政五年三月二十日条によると、1793年(寛政5年)には異国船出没に備えて、浦堅地に指定[11]。八戸藩日記文化四年七月一日条および八戸藩日記安政元年四月二十八日条によると、領内六ヶ所の一つとして大筒方が派遣され、1854年(安政元年)には領内八ヶ所の一つとして台場が建設される[11][13]。などと、小舟渡は八戸藩政下で経済や防衛といった面で重要視されていたことがうかがえる。また、小舟渡海岸はしばしば八戸藩主の浜遊の場所とされ、八戸領内絵図によると、1849年(嘉永2年)には引き網の見学がされたとある[11]。
小舟渡の海岸の観音平は寺下観音が牛に乗って上陸したという伝説がのこり、同地の赤石はその牛が化身したものと伝えられ、のちに赤石大明神として祀られた[11][7]。
明治12年の人口は共武政表によると、285人(男141人、女144人)で世帯数は41世帯、物産はムギ・雑穀・麻糸・魚類であった[7]。
域内の小字は以下の通りである[4]。
2024年3月現在で消滅したことが確認されている小字を以下に記す。
2023年(令和5年)の公示地価によれば、下記の道仏の宅地および宅地見込み地における地価は次の通りである[17]。
域内の丘陵地や、川と海に臨んだ斜面に縄文期の遺跡が広く分布しており、下古里I・II遺跡(早期〜晩期)では、爪形文・無文撚糸圧痕文土器が発見されている[7]。
南部三館軍記および三ツ星風雲記によると、天正末年に赤松民部吉時が道仏館に居住していたが、九戸政実の乱の際、赤松民部吉時は南部信直に味方したため、しばしば攻撃を受けており、最後には階上岳を岩手県九戸郡洋野町種市方面から横断してきた九戸政実から攻撃を受けて、ついには戦死し、道仏館が落城したとされる[7]。この時、正部家館の正部家氏と鳥屋部館の鳥屋部氏が連合軍を結成し、新田小十郎の支援を受けて、道仏館を奪還、九戸政実を撃退したとされる[7]。
江戸時代初期には、域内で砂金が採掘され、慶長11年の南部利直皆済状(遠野南部文書)には「とうふつ金山役」として、16両が八戸三五郎に課されたとあり、また、八戸藩日記によると寛文5年には種市とともに金山の新見立が道仏で行われた[7]。元和4年の八戸内儀宛南部利直知行宛行状には「土仏」143石と見えることから、盛岡藩領下では根城南部氏の給地であったとされる[7]。
村高は元和4年の知行目録によると143余石、正保郷村帳によると68石余(田1石余、畑66石余)、貞享高辻帳によると68石余、元禄10年高帳によると172石余、天保郷帳によると251石余、旧高旧領によると184石余となっている[7]。天明元年、当地内の役高打直し検地が実施され、明和4年の検地高19石余が今高5石余、減高18石余、新高若干に修正されている[7]。文久3年の浦方家別文書によれば、集落の人口は小舟渡村が18人、榊村が22人、大蛇村が10人であった[7]。明治元年の新撰陸奥国誌には
家数十六軒。東は海、西南は山なり。東海道平地に住す。土は下之下。田畑ともに少く、漁塩を産業とす — 新撰陸奥国誌
とあり、本村の家数は十六、支村九ヶ村の家数は、八森が十四、上野(わの)が二十一、法津久保(ほうしくぼ)が五、耳吠(みみがほえ)が三、荒谷が十九、大蛇が十六、追越が十五、榊が十八、小舟渡が三十七であった。土産に塩や海草があり、塩釜は六工で年間四百五十石を産した。また、明治12年の共武政表によると、集落ごとの戸数および人口は本村53戸393人(男192人、女201人)、荒谷30戸227人(男121人、女106人)、大蛇17戸121人(男66人、女55人)、榊36戸256人(男125人、女131人)、小舟渡41戸285人(男141人、女144人)、牛馬はそれぞれ、本村が牛57頭・馬47頭、荒谷が牛17頭・馬43頭、大蛇が牛6頭・馬30頭、榊が牛11頭・馬58頭、小舟渡が牛23頭・馬49頭であった[7]。
人的被害はなかったものの、階上町では震度5強を記録し、大蛇にて10.73m[注 5]の津波が襲来し、大蛇地区の護岸が突破されたとされる[20]。
東日本大震災発生以前には、明治三陸地震にて、死者21名(うち大蛇2名、榊2名、小舟渡17名)、流失戸が小舟渡にて3戸、流失船73艘(うち大蛇18艘、小舟渡32艘、追越13艘、榊10艘)の被害が、昭和三陸地震にて、死者・行方不明者3名、罹災戸199戸、流出戸10の被害が出た[7][18]。
東日本大震災をうけて、道仏を含め、階上町内では全行政区において自主防災会が結成され、自主防災会ごとに避難訓練等を実施している[20]。
諸説あるが、明治から大正にかけての日本の歴史家である吉田東伍は、アイヌ語で湖川という意味の「トペチ」という単語から由来すると推測している[33]。
以下は2020年10月に実施された国勢調査によるデータである。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.