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平安時代初期から前期の貴族。正四位下・宮内卿、加賀守・伊予守。母は安倍楊津の娘(宮人)。子に源矜(従五位下) ウィキペディアから
元服と同時に正六位上に叙せられ、のち省試に及第して文章生となる。
仁明朝の承和3年(836年)正五位上から従四位上に昇叙される。のち加賀守・阿波守と仁明朝前半は地方官を務める。承和12年(845年)神祇伯に任ぜられると、右京大夫・刑部卿と仁明朝後半から文徳朝半ばにかけて京官を歴任。この間の斉衡3年(856年)20年ぶりに昇叙され正四位下となるが、以降死去までの20年間この位階に留まった。
文徳朝末の斉衡4年(857年)讃岐権守と再び地方官に転じる。清和朝の貞観5年(863年)宮内卿に任ぜられ京官に復すが、貞観6年(864年)越前権守を兼ね、貞観12年(870年)伊予守に転じた。貞観18年(876年)5月27日卒去。享年64。最終官位は散位正四位下。
幼い頃から学問に熱心であったことから、父の嵯峨天皇は幅広い分野に通じるよう寛に研鑽させたという。性格は地味で真面目であり、みだりに交際をしなかった。また政事に留意することがなく、自らの意志で敢えて公卿の地位には昇らなかったという[1]。
『六国史』による。
『尊卑分脈』による。
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