松代町(まつしろまち)は、かつて長野県埴科郡に存在した町。
概要 まつしろまち 松代町, 廃止日 ...
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現在では、長野市に統合されている。江戸時代には松代藩の城下町であり、恩田木工や佐久間象山を輩出した。明治期には製糸業が盛んだった。さらに、太平洋戦争末期には国家中枢機能の移転を目的として松代大本営の地下坑道が造られた。
1966年(昭和41年)10月16日 に長野市と合併してその一地区となったが、住所は依然として「長野市松代町」と「町」を含め表記する。本項では現在の松代地区についても記述する。
- 16世紀 - 松代城の城下町松代として16世紀末に建設され、江戸時代には真田氏が治める松代藩で、長野盆地の中心的都市だった[1]。
- 1871年(明治4年) - 近世以来の松代町のうち、馬場町が西条村、十人町が東条村にそれぞれ合併。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、松代町が単独で自治体を形成。
- 1951年(昭和26年)4月3日 - 清野村・東条村と合併し、改めて松代町が発足。
- 1951年(昭和26年)10月1日 - 更級郡篠ノ井町の一部(東福寺のうち道島・筏道下区)を編入。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 豊栄村・寺尾村・更級郡西寺尾村と合併し、改めて松代町が発足。
- 1956年(昭和31年)9月30日 - 西条村を編入。
- 1957年(昭和32年)8月1日 - 杵淵および西寺尾のうち川西地区が更級郡篠ノ井町に編入。
- 1965年(昭和40年)8月3日 - 松代群発地震(M5.0前後、震度5)がこの日から約5年半発生。
- 1966年(昭和41年)10月16日 - 長野市・篠ノ井市・更級郡川中島町・信更村・更北村・上水内郡七二会村・上高井郡若穂町と合併し、改めて長野市が発足。同日松代町廃止。
- 1981年(昭和56年) - 東京大学教授大谷幸夫らにより、松代の馬場町、代官町、表柴町三町の伝統環境保全のための調査始まる[2]。
- 1982年(昭和57年) - 上記調査の報告書『庭園都市松代 : 伝統的建造物群保存対策調査報告書』(長野市)が刊行され[3]、水路網が発達し、各家庭に池を配した庭があり、周りの山々を借景にした庭園を有する「庭園都市・松代」の伝統的環境の保全が提言される[2]。
- 1983年(昭和58年) - 長野市伝統環境保存条例の指定を受ける[2]。
- 1993年(平成5年) - 上信越自動車道長野インターチェンジ誘致。松代町商工会議所が中心となって和風の景観重視の商店街づくりを行なうなど、長野市への合併により衰退した町の再活性化を図る[4]。
- 1996年(平成8年) - NPO法人・夢空間「松代のまちと心を育てる会」設立され、町の文化遺産の活性化を図る[5]。
- 1999年(平成11年) - 地元特産品宣伝のため、まちおこしグループ「ホイサッサ松代」誕生[4]。
- 2002年(平成14年)11月 - 長野市役所松代支所に観光課松代分室設置[4]。
- 2004年(平成16年)4月 - 松代城復元完成記念イベント「エコール・ド・まつしろ2004」開催[4]。
- 2012年(平成24年)3月31日 - この日をもって地区に唯一あった鉄道、長野電鉄屋代線が廃止。翌日より代替バスとして長電バスの屋代須坂線が運行開始。[6]
- 2015年(平成27年) - まちおこしのため、「松代エヴァンゲリオンの町化計画プロジェクト」を立ち上げ。[7]
北陸新幹線、信越線、しなの鉄道線の長野駅から長野県道35号長野真田線で南へ、約4km。上信越自動車道の長野インターチェンジから県道35号長野真田線で南へ、約1km。
- 長野電鉄 (2012年廃止)
- 屋代線:(更埴市)- 岩野駅 - 象山口駅 - 松代駅 - 金井山駅 - 大室駅 -(若穂町)
“長野電鉄(旧)屋代線の代替バスについて”. 須坂市. 2023年6月10日閲覧。 “長野電鉄(旧)屋代線は、平成24年3月31日の運行をもって廃止となり、同年4月1日からはバス運行に移行し、長電バス「屋代須坂線」として運行しております。”