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日本の兵庫県加古川市の広域地名 ウィキペディアから
志方町(しかたちょう)は、兵庫県加古川市の最北端に位置する地域である。本項では、かつて存在した印南郡志方町についても述べる。
神功皇后が三韓征伐に行かれたとき、この地に上陸、今の宮山に上り、たくさんのシカが田野の間の群れあそびのをご覧になって「あなおもしり、鹿田とは名付けまし」と感嘆されたのにちなんで、鹿田と称するようになり、のち鹿田と改め、さらに「志し来りし方」の意味を以て志方になったものといわれている。[3]
南は神吉地区(宝殿)、南西は高砂市、西は姫路市、北は加西市、東は平荘町に接している。その地勢は総面積の70%におよぶ山地が北及び東、西の三方向にそびえて南に向かって大きく口を開けた形である。山に囲まれた中央の平地は天神山、宮山、石打山によって東西に分断され、東の平地は帯状にして平坦、遠く加古川の西岸に及び、加古川の支流域と見てよく、西の平地は傾斜のゆるい台地が起伏して神吉平野に続いている。
方位および地名 | 距離 | 経度(東経) | 緯度(北緯) |
---|---|---|---|
東端 野尻栗の木峠 | 10.7 km | 134度52分44秒 | 34度49分56秒 |
西端 原荒神谷川南 | 134度45度58度 | 34度49分21秒 | |
南端 横大路小山の西 | 7.4 km | 134度48分18秒 | 34度47分47秒 |
北端 畑法華口 | 134度49分2秒 | 34度51分48秒 |
1953年10月に町村合併促進法が施行(昭和の大合併)されると、1954年3月に兵庫県加印地方事務所は管内を6ブロックに分けた合併案を示す。このうち志方ブロック(志方村・東志方村・西志方村)については合併にあたっての支障が他ブロックより少なく、同年8月に6ブロックの中で最も早く合併を果たした。
昭和40年代に入ると高砂市と志方町との合併論議が高まる。1968年(昭和43年)11月に任意の合併協議会が発足し、1969年(昭和44年)10月に高砂市は合併を前提とした「高砂市建設計画案」を発表、将来の山陽自動車道開通等を見据えて「工業優先から生活中心の政策」「生命を大切にする都市政策」などの見出しを掲げた。1970年(昭和45年)には法定合併協議会が成立し、新市建設計画案を承認した。しかし巨額の支出を伴う計画案は志方町民の支持を得られず、1971年(昭和46年)の志方町長選・町議選で体制が合併慎重派に代わったため、高砂市との合併の話は流れてしまった[4]。
当町の3分の2は山地であり、アカマツ・クロマツの生育地であることから制定された。
当町にツツジが生育していることから制定された。
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