福島県立会津高等学校
福島県会津若松市にある県立高等学校 ウィキペディアから
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福島県立会津高等学校(ふくしまけんりつ あいづこうとうがっこう)は、福島県会津若松市表町に所在する県立高等学校。以前は男子校であったが2002年度から共学化。前史である藩校日新館から考えると、福島県内では最も歴史の古い高校である。
福島県立会津高等学校 | |
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北緯37度28分49.78秒 東経139度55分45.3秒 | |
過去の名称 |
私立会津中学校 会津尋常中学校 会津中学校 福島県立会津中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 福島県 |
校訓 | 好学愛校・文武不岐 |
設立年月日 | 1890年4月3日 |
創立記念日 | 10月30日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科(6学級) |
学期 | 2学期制前期後期制 |
学校コード | D107220260012 |
高校コード | 07132D |
所在地 | 〒965-0831 |
福島県会津若松市表町3番1号 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
藩校日新館の流れをくみ旧制会津中学校を前身とする。通称「会高」(かいこう)、地元では(あいづこう)と呼んで会工と分けている。同市には会津工業高校が有り、その略称「会工」も同じ読み方(かいこう)である。旧制中学時代は「会中」(かいちゅう)と呼ばれていた。会津地区中から学生が集まるため、遠方からの生徒もおり、奥会津地域の生徒を中心に単身下宿している生徒も存在する。
(前史)
会津藩にはもともと稽古堂とよばれる武士の育成機関があったが、江戸時代が太平期に入り武士の道徳が衰廃しているとの危惧を受け、会津藩5代目藩主・松平容頌の家老であった田中玄宰が「教育の再興」を掲げ、日新館の設立を決めた。多額の設立資金は、呉服商須田新九郎が大半を賄った。1798年に完成。こうして会津藩の人材育成方針のもと、花色紐組(上士)以上の武士の入学を義務付け、会津藩の武士育成機関としてその役割を果たした。
(正史)
会津藩の戊辰戦争での敗北により会津地域は壊滅状態にあり、再興が急務であった。県令・山吉盛典は1879年(明治12年)、福島・若松・三春・平に中学校を開設したが、県議会の反対により11ヶ月で廃校になる。1882年(明治15年)、旧会津藩士らは資金を出し合い、藩校日新館の流れを汲む私立日新館を設立した。1884年(明治17年)、福島・若松・平に県立中学校が再び開校されるが、1886年(明治19年)、政府の1県1中学校の中学校令の発布により福島中学校(現福島県立安積高等学校)を残して廃校した。
このため若松では旧藩士らが「私立」の形で会津中学校設立を目指す。会津若松市(当時は若松市)初代市長・秋山清八は県議会議員時代、福島県知事を勤めたのち警視総監に栄転した旧薩摩藩士・折田平内に協力を求め、折田は1887年(明治20年)「会津中学校設立趣意書」を書き、会津地域の郡長や在京有力者に働きかける。この活動により最終的に文部大臣・榎本武揚が動き、明治天皇から御下賜金300円を受ける。会津では旧藩士で東京高等師範学校(現筑波大学)校長であった山川浩、その弟で東京帝国大学(現東京大学)総長の山川健次郎、福島県裁判所検事・高木盛之輔らが山里を訴えて回った。
1888年(明治21年)、磐梯山の噴火などもあり寄付金集めは難航したが、旧藩士らが国からの就産金を贈り一気に開校へ。47,850円(現在の価値に換算して2億円程度)の創立資本金をもって会津高校の前身である私立会津中学校の開校が実現した。
(前史)
(正史)
校章は会津の「会」の旧字体「會」を松葉で囲んだもので、1903年(明治36年)に制定された。
校歌は1922年(大正11年)に「駒のいななき」(作詞は尾上柴舟)が制定されるが、戦前の軍国主義的な歌詞を含むものであった。1948年(昭和23年)、民主主義にふさわしい新校歌をつくるべきとの意見が多くなり、校歌制定委員会を設置。翌年、作詞柳澤健、作曲古関裕而による現在の校歌が発表された。
校歌のほか、応援歌2曲と凱旋歌、学而会歌、青春歌(創立110周年を記念して作られた。作詞作曲ともに生徒)がある。
スクールカラーは臙脂(えんじ)色。
2学期制を採用しており授業は50分×7コマで実施されている。
会津高校では、生徒会は「学而会」と呼ばれ、生徒による自治組織として活動している。1893年(明治26年)に発足。1941年(昭和16年)5月22日からしばらく解散状態となる。この間「修練会」と名前を変え、戦時色の濃い勤労奉仕をしていたが、1945年(昭和20年)の役員選挙とともに復活した。
学而会の特徴的な活動として「剣舞委員会」がある。これは戊辰戦争で若くして命を落とした白虎隊の霊を慰める伝統的な剣舞を継承しており、春・秋に飯盛山の墓前祭での奉納を行う。
会津高校は校歌、第一応援歌、第二応援歌、凱旋歌、学而会歌、青春歌等を伝統的に引き継ぐなどしている。その代表が、会津高校男子校時代から存在する特別応援団委員会である(2020年度まで70代継承、団長不在で空白期間あり)。校歌、応援歌、凱旋歌、学而会歌それぞれの歌には、特別応援団委員会の団員に継承される指揮が存在している。
部活動では、陸上、ディベート(社会弁論)、端艇、水泳、弓道、薙刀がインターハイ出場をしている。 戦前はボート部が強豪として知られ、全盛期には10年間で、全国優勝2回、準優勝、3位各1回、4位3回の成績を収め、戦後も全国優勝の経験がある[2]。剣道は様々な全国大会があったが、国士舘主催の大会で全国優勝、柔道部は明治神宮大会で準決勝に進出した。野球部は1959年(昭和34年)に春の選抜甲子園に出場をしている(兵庫県立尼崎高等学校0-3)。
ディベート部は、2006年(平成18年)に第11回ディベート甲子園全国大会で優勝を果たした。合唱部は全日本合唱コンクールで金賞受賞の経験があり[3]、合唱界では名門校として知られており、全国1位に相当する文部科学大臣賞を通算で3回受賞している。また、山口県立萩高等学校合唱部と交流があり、両校で『友情 時を越えて今』が共作され、合同合唱が行われている[4]。
部活動一覧
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