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フランスの小説、メディアミックス作品 ウィキペディアから
『レ・ミゼラブル』(フランス語: Les Misérables)は、フランスの歴史小説。ヴィクトル・ユーゴーによって1862年に出版された。日本では1902年に黒岩涙香によって『噫無情』(ああむじょう)として『萬朝報』に連載された。
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レ・ミゼラブル Les Misérables | ||
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著者 | ヴィクトル・ユーゴー | |
イラスト | エミール・バヤール | |
発行日 | 1862年 | |
発行元 | A. Lacroix, Verboeckhoven & Ce. | |
ジャンル | 小説 | |
国 | フランス | |
言語 | フランス語 | |
形態 | 文学作品 | |
ウィキポータル 文学 | ||
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1斤のパンを盗んで、窃盗と脱獄未遂の罪によって理不尽にも19年間の監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンが、ミリエル司教の無償の愛にふれたことをきっかけに改心して、「正しき人」になるために生涯をささげようとする物語である。不幸のどん底で亡くなったファンティーヌから遺児のコゼットを託されたことから、コゼットを実の娘のように大切に守り育てていくが、結果としてこれがジャン・ヴァルジャンに親としての愛と幸福をもたらすことになった。
作品は、ナポレオン1世没落直後の1815年10月からルイ18世・シャルル10世の復古王政時代を経て七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の六月暴動とその翌年の1833年までの18年間を断片的に描いている。回想・記憶がたびたび挿入がされているので、物語の時間はしばしば前後し、フランス革命期や第一帝政期の話も登場するが、復古王政や七月革命についてはほとんど話にも出てこない。(盗人のテナルディエがポンメルシーを救う場面以外)物語とはほとんど関係がない百日天下でのワーテルロー戦役のナポレオンについての記述に1編が費やされているが、ほとんどの翻案作品[1]ではこの歴史小説のような部分はカットされるのが常で、再現されたことがない。物語の前半は1815年の導入部と、1819年と1823年に起こるジャン・ヴァルジャンのジャヴェールからの逃走劇が中心となり、後半は1831年から1833年までの成長したコゼットとマリユスの恋愛を中心に六月暴動を背景として、ジャン・ヴァルジャンの死までが描かれる。
作品にはヴィクトル・ユーゴーがこの物語を書いた当時(1860年代)のフランスを取り巻く社会情勢が内容に反映されており、各時代の背景や民衆の生活についても詳しい描写がある。
原題『 Les Misérables 』は、「悲惨な人々」「哀れな人々」を意味するが、日本では初め、森田思軒が一部を「哀史」の題名で訳したが完訳には至らず、黒岩涙香による翻案が『噫無情』(ああむじょう)の題で1902年(明治35年)10月8日から1903年(明治36年)8月22日まで『萬朝報』に連載され、これによってユーゴーの名が広く知れわたることになった。
1815年10月のある日、ディーニュのミリエル司教の司教館を、46歳の男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。姉の子ども達のために、1斤のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していた。行く先々で冷遇された彼を、司教は温かく迎え入れる。しかし、その夜、司教が大切にしていた銀食器をヴァルジャンは盗んでしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えた」と彼を放免させた上に、残りの2本の銀の燭台も彼に差し出す。人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。
1819年、ヴァルジャンはモントルイユ=シュル=メールで「マドレーヌ」と名乗り、黒いガラス玉および模造宝石の産業を興して成功をおさめ、この街の市長になっていた。彼の営む工場では、ファンティーヌという女性が働いていた。彼女は、3歳になる娘コゼットをモンフェルメイユのテナルディエ夫妻に預けていた。
ファンティーヌは、父無し子がいることを黙っていたことがばれ、風紀が乱れるからと、ヴァルジャンの工場を解雇された。ヴァルジャン自身は、その解雇に関与していなかったが。そして、1823年1月、貧困のため髪の毛・前歯までも売ったファンティーヌは、あるきっかけでヴァルジャンに救われる。病に倒れた彼女の窮状を知った彼は、コゼットを連れて帰ることを約束する。コゼットを預かるテナルディエ夫妻は「養育費」と称し、様々な理由をつけてはファンティーヌから金をせびっていた。それが今では100フラン[2]の借金となって、彼女の肩に重くのしかかっていた。
だが、コゼットを迎えにモンフェルメイユへ行こうとした矢先、ヴァルジャンは、自分と間違えられて逮捕された男のことを私服警官ジャヴェールから聞かされる。葛藤の末、その男を救うことを優先し、裁判所で自分の正体を明かす。ヴァルジャンはファンティーヌの病室でジャヴェールに逮捕され、ファンティーヌはショックで死んでしまう。
ヴァルジャンは裁判で終身徒刑(終身刑)の判決を受け、トゥーロンの徒刑場へ送られたが、通算5度目となる脱獄を図る。1823年のクリスマス・イヴの夜、ファンティーヌとの約束を果たすためモンフェルメイユにやって来たヴァルジャンは、村はずれの泉でコゼットに出会う。8歳のコゼットはテナルディエ夫妻の営む宿屋で女中として働かされ、夫妻から虐待されていた。ヴァルジャンはテナルディエの要求どおり1500フラン[3]を払い、コゼットの身許を引き受ける。
ヴァルジャンはコゼットを連れてパリへ逃亡するが、そこにもジャヴェールの手が迫る。逃げ込んだ先は、フォーシュルヴァン爺さんが働く修道院だった。フォーシュルヴァンの協力で、ふたりは修道院で暮らし始める。コゼットはヴァルジャンを父として慕い、愛し続ける。ヴァルジャン自身もコゼットを娘として、まごころからの愛を注ぎ続ける。
フォーシュルヴァンの没後、パリのプリュメ通りにある邸宅に落ち着いたヴァルジャンとコゼットは、よくリュクサンブール公園に散歩に来ていた。そんなふたりの姿をひとりの若者が見ていた。彼の名はマリユス。共和派の秘密結社ABC(ア・ベ・セー)の友に所属する貧乏な学生である。ブルジョワ出身の彼は幼い頃に母を亡くし、母方の祖父に育てられたが、ボナパルティズムに傾倒し家出していた。マリユスは美しく成長したコゼットに一目惚れし、「ユルシュール」と勝手に名づけ、何も考えられないほど彼女に恋焦がれてしまう。
テナルディエ夫妻の長女エポニーヌの助けを得て、マリユスはコゼットの住まいを見つけることができた。この出逢い以降、ふたりは深く愛し合うようになる。だが、1832年6月3日、コゼットはヴァルジャンから、1週間後にイギリスへ渡ることを聞かされる。ふたりの恋路は突然の別れという試練に塞がれてしまった。
コゼットと、彼女に絶対的な愛を捧げるジャン・ヴァルジャンとマリユス――この3人を中心とした運命の渦は、ジャヴェール、テナルディエ一家、マリユスの家族や親しい人々、犯罪者集団パトロン=ミネット、そしてABCの友のメンバーなど「悲惨な人々」(レ・ミゼラブル)の織りなす物語をあちこちに残していく。大きくなった運命の渦は、7月革命の影響で混沌のなかにあるパリを駆けまわり、やがて1832年6月5日に勃発する六月暴動へと向かってゆくことになる(以下の展開は、#登場人物を参照すること)。
これは、ひとりの徒刑囚が偉大なる“正しき人”として生涯を終えるまでの物語であり、その底を流れているのは、永遠に変わることのない真実の「愛」である。
※括弧内は原題、なお日本語訳のタイトルは井上究一郎訳版より引用
パトロン=ミネット(Patron-Minette、子猫男爵)とは、1830年から1835年にかけてパリで暗躍した悪党集団。4人の頭を中心に構成されている。「パトロン=ミネット」という名は、朝に仕事が終わるという意味からつけられた。彼らは夜に目を覚まし、ラ・サルペトリエール救護院 (Hôpital de la Salpêtrière) の近くの草原に集まり、そこで会議を開く。そして、ひと肌ぬぐ必要があり、金になる悪事ならば、4人の頭はそれぞれ必要なだけの手下を他の頭に貸して(頭自身も参加して)悪事を働くのだった。
ABCの友 (Les amis de l'A B C) とは、成立してから間もない共和派の秘密結社。「ABC」とは、基礎知識・おとしめた民衆 (Abaissé) を意味し、民衆の向上を目的に結成された。メンバーの大部分は、労働者と学生たちであった。活動拠点はラ・シャンヴルリー通り(rue de la Chanvrerie, 現在のランビュトー通り (Rue Rambuteau))の居酒屋コラント (Corinthe) とサン・ミッシェル通りのル=カフェ=ミュザン (le café Musain) である。主なメンバーは次で述べるが、孤児であるフイイー以外は、家族に王党派や正当理論派の人間がいた。
七月革命当時、フランスに実在した政治的秘密結社人権協会(ソシエテ・デ・ドロワ・ド・ロム)をモデルにしている。
主人公のジャン・ヴァルジャン(そしてジャヴェール)は、犯罪者と言われながらも、後にパリ警察の密偵となったフランソワ・ヴィドックがモデルだと想像される[16]。また、マリユスは若き日のユーゴー自身が、コゼットは彼の妻アデール・フーシェと愛人のジュリエット・ドルーエ (Juliette Drouet) がモデルだといわれている[誰によって?]。さらに、アンジョルラスは革命の大天使と謳われたルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストがモデルであり、ガヴローシュは、ドラクロアの絵画『民衆を導く自由の女神』において女神の右前にいる少年にヒントを得て描かれたといわれている[17]。
本作は最初、パリとブリュッセルで発売された。というのも、ユーゴーは当時フランス第二帝政およびナポレオン3世を拒絶したため祖国を追放されてしまい、ベルギーを経てイギリス国王の私領ガーンジー島で亡命生活を送っていたからである。
本作の売れ行きが悪ければ、ユーゴーは筆を折る覚悟をしていた。しかし、発売当日は長蛇の列ができ、本作は飛ぶように売れた。一般人はもちろん、数人の仲間から本代を集めた低所得の労働者たちの多くも列に加わり、本作を買っていった。労働者たちは仲間に本作を貸し合い、回し読みしたといわれている。
ユーゴーは本作の出版当初は亡命先を離れて旅に出ていたが、本作の売れ行きを心配し、出版社に「?」とだけ記した問い合わせの手紙を出すと、「!」とだけ記された返事を受け取ったという。それぞれ「売れてる?」「上々の売れ行きです!」を意味する[18]。これら2通は世界一短い手紙として『ギネス世界記録』に掲載されている[19]。
なお、ユーゴーは本作の発表より前に何作か作品を完成させているが、出版社は本作の完成を待ち望んでいた。
原作に基づいて、1980年代より公演開始されたミュージカルについては、別項を参照。
なお宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の初期演目に『ジヤンバルジヤン』がある。ジャン・ヴァルジャン:高峰妙子、コゼット:篁八十子、テナルディエ:雪野富士子の配役(雪組上演)で、1930年(昭和5年)12月1日から12月28日まで宝塚大劇場にて公演。
テレビ映画、ストレートプレイの舞台などが数多く作られている。
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