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李氏朝鮮の王族 ウィキペディアから
閔妃(びんひ、ミンビ、ミンピ、1851年11月17日 - 1895年10月8日)は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃。明成皇后(めいせいこうごう、ミョンソンファンフ)[4]、朝鮮王后(閔氏)とも称される。本貫は驪興閔氏。本名は閔 玆暎(びん じえい、ミン・ジャヨン、민자영)。尊号は孝慈元聖正化合天[5]、諡号は孝慈元聖正化合天洪功誠徳斉徽烈穆明成太皇后[6]。仁顕王后の兄・閔鎮厚の5代孫。
国王の正妃として強い権力を持ったが、真霊君の預言依存と閔氏一族を中心に反対派を糾合し、親族を政府の要職に登用する勢道政治を行ったことで、官吏の汚職が蔓延・国庫の浪費もしたため、義父興宣大院君との権力闘争により政局を混乱させた[7][8]。
日本の指導で開化派政策を取っていた時代に政治的対立していた大院君派と閔妃に不満があった旧朝鮮軍(旧式軍隊)らによる暗殺未遂事件である壬午事変を生き延びたが[9]、後に親清、更には親露に転じた。親露時代に朝鮮訓錬隊・朝鮮警務使・朝鮮人開化派・大院君派など閔妃の国政壟断に不満を持つ朝鮮人と共に[10]、日本軍守備隊・領事館警察官・大陸浪人らが王宮内に侵入する乙未事変で、閔妃は景福宮・乾清宮内で日韓の反閔妃連合に暗殺された[11][12]。死後2日後で、死亡公表前である10月10日に対立していた興宣大院君によって平民の身分に降格された[13]。興宣大院君による措置に高宗と純宗は反発し、小村壽太郎の助言もあり、11月26日に復位措置が取られている[14]。本来、「閔妃」は「閔氏の王妃」という意味だけであるが、近代朝鮮史や近代日本史、近代世界史では「閔妃」は高宗の妃である「閔 玆暎」を指している[8]。 息子である純宗は禹範善が「国母ノ仇(母の仇)」であるとし、それを現場で目撃したと証言している[15]。禹も自分が王妃を殺害したと自ら漏らし、また現場にいた高宗は「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている。そのため、禹範善暗殺時にはその犯人への減刑措置がなされた[16]。
李氏朝鮮は大院君と明成皇后は憎悪で対立、政治エリートらは、最初は開化の是非(開化派と衛正斥邪派)、次は方法論(急進開化派と穏健開化派)、その後は、どの列強に頼るべきかについて、最後は権力それ自体を独占で、激しく対立した。ハンギョレによると、李氏朝鮮は「妥協と折衝を通じて社会的合意を形成する方法を知らなかった」と語り、「冒険的クーデター」「政治テロ」が横行した。朝鮮王朝の国庫は空っぽで、清の北洋大臣の李鴻章は「国庫に直近の1カ月の備蓄分もない」と語るなど、王朝予算が国家予算を吸い込む「二重構造」は彼女の死後も続き、日韓併合で国が滅びるときまで変わらなかった[17]。
閔玆暎(後の閔妃)は、閔致禄の娘として京畿道驪州郡近東面蟾楽里に生まれた。幼名は玆暎(チャヨン、朝鮮語: 자영)[18]とも伝えられるが、明確にはわかっていない。閔一族はもともと中国系と言われ、中国を宗主と仰いで頻繁に訪問し宮廷から特権を与えられており、一族の規模も大きく、朝鮮最大の領地を持っていた[19]。
高宗との結婚
同治5年(1866年)、15歳の時に揀擇で選ばれた5人の候補のなかから王妃に選ばれて王宮に入った。閔が王妃に選ばれたのは、既に父親が亡くなっており、警戒すべき外戚がいなかったこと、大院君夫人が同じ閔氏の出身で、閔氏の娘を気に入っていたこと、神貞王后が豊壌趙氏の出身であることから、その外戚を警戒したことなどにより、大院君が決定した人選といわれる。その当時の高宗は政治と妃には関心を持たず、関心が深いのは専ら多数の宮女や妓生達を相手にした漁色と酒といった放蕩三昧のみという愚昧な人物であったとの評もある[20]。
王世子身分を巡る大院君との対立・清からの冊封成功
高宗が愛人である李尚宮(のちに淑媛李氏→永保堂貴人李氏。1849 - 1928年)との間に長子である完和君(完親王李墡。1868 - 1880年)をもうけると、祖父の大院君は喜び、完和君を王世子(高宗の次の王)にしようとした[21]。しかし、閔妃は自身の子である李坧(純宗)を王世子とするため、宗主国である清に側近を派遣して賄賂を贈った。そのため、李坧を嫡子として承認(冊封)してもらうことに成功した[21]。
世継ぎ問題などで大院君と権力争いをしていた閔妃は、高宗が成人して親政をとるようになると、同治12年(1873年)、大院君を追放し、大院君とその一派を失脚させた。そして自分の一族(閔氏)を高官に取り立て、政治の実権を握った。大院君はその後京畿道楊州に隠居させられたが、閔妃の存在を国家存続を脅かすものとして政局復帰、閔妃追放の運動を始め、それが朝鮮末期の政局混乱の一因にもなった。両者の権力闘争は敵対者を暗殺するなど熾烈なものとなった。1874年11月には義兄の閔升鎬が自宅で爆弾によって暗殺された[22]。閔妃は義兄の暗殺は大院君の仕業と信じ、大院君の腹心である申哲均の食客であった張という姓の者を捕え、簡単には死なないようにする惨い拷問の末に獄死した[22]。これは、大院君の恨みを買い、双方で暗殺が続いて国内が乱れた。大院君は、自身が国のために貯めておいた国庫を空にする無駄遣いを繰り返す閔妃を暗殺のために、閔妃によって親族や親友を殺された者から暗殺者を募り始める[22]。閔妃も「まず閔妃一族の栄達をはかる為に、国家有為の人物よりも、大院君排除に必要な策士を網羅し、大院君が生命をかけて撤廃した書院や両班の特権を復活させるため彼らを煽動し、儒者にへつらい、大院君系の人を根こそぎ追放、流刑、死刑にし、処世の改革を破壊、復元(金熙明『興宣大院君と閔妃』)」したとされる。この頃の高宗の教旨には、「慈殿の意により」という文言が必ず付加されており、神貞王后が背後で指揮を取っていた可能性も否定できない。
開化政策時代・旧朝鮮軍と大院君派による暗殺未遂
攘夷政策をとった大院君が失脚すると、日本は外務省の森山茂を釜山に派遣して朝鮮の内情を探らせた。当時の重臣のなかには、朴趾源の孫にあたる朴珪寿などの強硬な開化派がおり、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を行った。日本から軍事顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手した。しかし、従来の朝鮮の軍隊(旧式軍隊)が放置され、さらに彼らへの賃金未払い問題なども発生したため、新式軍隊に対する不満がたまっていった。そこに開化政策に不満を持つ大院君等の勢力が合わさり、光緒8年(1882年)、朝鮮の旧式軍隊が閔妃暗殺を目論んだ(壬午事変)。その際多くの閔妃派要人や日本人が殺され、日本大使館は焼き討ちにされたが、いち早く事件を察知した閔妃は、侍女を自らの身替りとして王宮を脱出し、当時朝鮮国内に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱した。このクーデターを指揮していたとして、閔妃と敵対していた大院君は清に連行され、天津に幽閉された。高宗の嘆願・朝貢も効果なく、幽閉は3年間続き、帰国がかなったのは駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共にであった。
この当時、閔妃は巫堂ノリという呪術儀式に熱中し、国庫の6倍以上にあたる金額の国費を布施により浪費している。これは法外な額であるため、宮廷の役人は民衆から搾取しては競って閔妃に賄賂を贈っていた[21]。また庶民が苦しい生活をしている中、毎晩遅くまで、俳優や歌手を宮中に招いて遊興しており、起床はいつも午後で、そのため宮中の空気は「混濁腐敗」していたとも言われる[23]。特に閔妃は真霊君に入れ込んだため、「影の実力者」である真霊君に賄賂を渡したり、親戚だと主張するものまで現れた[24]。
事大主義(親清)時代
政敵の大院君が清によって天津に幽閉されると、閔妃も親日的な政策から次第に清に頼る事大主義に路線変更していった。そのような状況を見た親日的な開化派の金玉均らは、閔妃を追放しない限り朝鮮の近代化は実現しないとして、光緒10年(1884年)12月に甲申政変を起こした。それにより一時期政権を奪われるが、袁世凱率いる清軍の力によって政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊した(1894年、金玉均は閔妃の刺客、洪鐘宇により上海で暗殺され見せしめとして晒し首にされた)。
光緒11年(1885年)になると、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策も取り始める。光緒20年(1894年)に甲午農民戦争(東学党の乱)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の原因と戦場になった。
しかし、日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、後ろ盾となっていた清が大きな打撃を受けた閔妃の勢力は衰退していく。そのため閔妃は清への事大主義に代わり親露政策を更に推し進め、今度は7月6日にロシア軍の助力を得て権力奪還に成功する。この一件後の反閔妃派の不穏な動きを察し、反対勢力(訓練隊等)の武装解除等を行った[25]。
親日開化主義から親清事大を経て、親ロシアへと次々に方針を転換したかのように見える閔妃の政策はまさに大院君への怨念ともいえる姿勢で貫かれており、これらが原因で大院君に代表される反対派勢力による反感を買うことになる。閔妃の動きは閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国から警戒され、開国504年(1895年)10月8日早朝、景福宮に日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らが侵入する事件が発生、閔妃もその混乱の中で殺害された(乙未事変)。
閔妃は死後二日後に、対立してきた大院君によって王后としての称号を剥奪され、平民へ降格された[26]。そのため、当初は東九陵の崇陵前に埋葬されたが、後に清凉里の洪陵に移された。さらには高宗の没後は南楊州市の金谷洞に位置する洪陵に高宗と彼女の合葬陵として現在の洪陵[27]に移された。
閔妃と関連の深い事項に関する年表を示す。
韓国人作家の金辰明は著書の『皇太子拉致事件』で日本人が妃を「死姦」したと記述した。金は参考文献を角田房子から示された石塚英蔵報告書を根拠とする実話であると主張していたが、本物の石塚書簡にはそのような記載はなく、金によるフィクションであることが判明している[50]。金の同小説には、「秘密外交文書電報435号」と称する架空の文書が書かれ、そこには閔妃暗殺の詳細として『日本の浪人が明成皇后の死体を屍姦し、死体を焼いて証拠隠滅した』という内容があると主張されていた。しかし、現物の電報第 435 号(極秘扱)は「中山書記官より広田外務大臣宛電報」(昭和8年10月14日[51])であり、事件と同時代の文書でもなく、また小説に出てくるような記述は一切ない[52]。
これまで日韓で閔妃とされた写真は頭にかつら(クンモリ)をつけ、かんざしをつけた写真であったが、この写真は別の写真であることが2000年10月[53]から2003年にかけての三谷憲正の検証で明らかになっている[54]。
この写真を閔妃とキャプションをつけた最古例は、1955年の日本近代史研究会『写真・図説 総合日本史』[55]であり、ここから「閔妃」とキャプションがつけられるようになった[56]。角田房子が『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(1988年)において「日本人写真師・村上天真撮影の閔妃といわれる写真」とキャプションを付け、それを閔妃として掲載した[57]。さらに、角田は事件当時の資料では「(日本人は)誰も閔妃の顔を知らなかった」と記録されていることについて、下記の辛基秀などの論をもとに、日本は写真を持っていたので、それは嘘であるとし、また、閔妃の写真は数枚あったはずだが、日本側がほとんど破棄したために、この一枚しか残っていない、と自説を展開した[要ページ番号]。
『別冊1億人の昭和史 日本植民地史①朝鮮』(1978年)[58]」、『目でみる李朝時代』(1986年)[59]では、宮中女官として紹介されている[60]。
1987年には辛基秀が『映像が語る「日韓併合」史』[61]において、この写真「閔妃(1851-1895年)国王高宗の皇后」として掲げ、以下論じた[56]。
ソウルの日本軍守備隊や公使館員らは、1895年10月7日の夜、王宮に侵入、婦人3名を殺害、閔妃をはづかしめ、松林で焼きはらった。この前代未聞の暴虐の行為でにほんのカメラマンが果たした役割を看過できない。 — 辛基秀、『映像が語る「日韓併合」史』1987年8月、労働経済社。p.13
辛基秀はその根拠として韓国で1976年に刊行された姜相圭『韓国写真史』[62]を挙げたが、『韓国写真史』では次のように論じてあった[63]。
安達謙、岡本柳之助が引率した幽徒隊が、閔妃の人物写真を皇室専属写真師から入手して、実際の顔と対照し、確認した後、閔妃を殺害したのであり、このときの皇室嘱託写真師は日本人の村上天真である。 — 姜相圭『韓国写真史』1976年12月、図書出版一心社(原文韓国語)
一方、閔妃付きの侍医のように王妃の傍らにいたアンダーウッド(L.H.Underwood)が1905年(明治38年)に刊行したWith Tommy Tompkins in Koreaの「家政(Housekeeping)」章で、この写真が掲載されており、キャプションに「正装の朝鮮人令嬢(A KOREAN LADY IN HULL COSTUME)」とある[64][65]。また、高宗の政治顧問をしていたハルバート(Homer B.Hubert)が1906年に刊行したThe Passing of Koreaでのキャプションは「A PALACE-WOMAN IN FULL REGALIA(正装の宮中女性)」とあり、三谷は閔妃の側にいたアンダーウッドやハルバートが王妃の顔を知らないということがあっただろうかと疑問視した[65]。2001年7月7日東亜日報で建国大学のシンポンニョンは、この写真は明成皇后の写真ではなく、アンダーウッド女史やハルバートが王妃の写真としていないことがその理由であるとし、「追慕の情が度を越して、存在しない形姿を描いたり、想像が行き過ぎたりすると、それは追慕ではなく、むしろ故人を辱めることになる」その代表的な例がこの写真であると述べた[66]。
さらに三谷の調査によって、1904年の『日露戦争 写真画報』(第一巻、博文館)ではこの写真を掲げ、「宮中の侍女」とキャプションをつけていたことがわかった[66]。翌年の同第25巻では「宮中の女官」とあった[67]。また1911年の『韓国併合記念帖』啓文社には「宮中の老官女 AN OLD WOMAN IN THE COREAN COURT」とある[68]。
三谷はさらにロセッティ(Carlo Rossetti)の1904年の著書「朝鮮と朝鮮人(Corea e Coreani)」に掲載された「宮殿の貴婦人」の写真を人物から切り取られて合成されたと推測する説については、同年に日本の雑誌に掲載されていることから、違うとしている[69]。
戦前では閔妃とキャプションのついた写真は、日本の資料では発見されていない[53]。
1997年から韓国では閔妃肖像写真ついての論争が始まり、それに先立って 1994年8月23日の朝鮮日報では「閔妃を殺害したと推定される刃物と日本人の犯行自白が九州で発見され、1995年5月10日同紙ではロシア人の目撃記録が発見された」と報じられていた[60]。1997年11月12日の朝鮮日報から写真論争が始まり、最終的に、この写真の服が皇后の服ではないこと、19世紀末ガードーナーの『朝鮮』では宮女の挿画が発見され、またフランスの資料(Villetard de Laguerie,La Coree,independante,Russe,ou Japonaise.1898)からこの写真の女は天主教信者ではないかなどと報じられた[70]。
2001年7月7日付け東亜日報では、この写真真偽問題に関連して「当時“写真を撮らせると、魂が抜ける”と認識 カメラ忌避」と、当時の人間が写真を避けることが説明されるようになり、2004年8月12日付け朝鮮日報では「1909年馬山郵便局消印「閔妃」ハガキ発見」として、「日本人写真師・村上天真撮影の閔妃といわれる写真」とはまったく別の写真が提示された。
2006年にイギリス出身の写真収集家テリー・ベネットが7月25日の聯合ニュースのロサンゼルス発記事を通じて再び閔妃の写真論争を提起した。テリー・ベネットは興宣大院君や高宗が掲載されたアルバムを公開したが、その中の1人が閔妃だと主張した[71]。 ソウル大学国史学教授のイ・テジンは、アルバムの中の閔妃推定写真と興宣大院君の写真の背景が似ている点に注目し、「興宣大院君が座った席に座って写真を撮ることができる女性は、大院君と相応の身分でなければならないはず」とし、「私は閔妃だと思う」と主張した。それに対し明智大学の韓国服飾史の名誉教授であるチョ・ヒョスンは「写真の女性が着た衣装は皇后の服装ではない」とし、「閔妃ではない」と主張した[72]。
2003年、従来は閔妃のものとされていた肖像写真について、朝鮮王宮の女官を写したものではないかとする論説が発表されたり、彼女(閔妃)を名誉誹謗したとして罰金刑(罪名『死者に対する名誉毀損』)がソウル高等裁判所から作家金完燮に下された。
2005年9月2日にも、金完燮がその著作の中で歴史上の人物である閔妃のことを、「朝鮮を滅ぼした亡国の元凶であり、西太后と肩を並べる人物」などと評論したことに対して、ソウル中央地裁から名誉毀損であるとして閔妃遺族らへそれぞれ1000万ウォンを支払うよう命じられた[73]。
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
2005年5月、「明成皇后を殺害した者の子孫ら」を名乗る日本人が明成皇后(閔妃)が埋葬されている洪陵を訪れて謝罪した。このときに子孫らは墓地を訪れていた閔妃の曾孫に対しても謝罪の言葉を送ったが、閔妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った[74]。
2009年8月24日、テレビ朝日の『報道ステーション』にて閔妃の暗殺事件についての特集が組まれた。この特集は、鄭秀雄監督が2005年に制作したドキュメンタリー『110年ぶりの追跡 明成皇后殺害事件』を基に作られた[75]。この特集では、「犯人は日本人」としており、「暗殺事件の犯人は朝鮮人による物であった」という目撃証言を日本の工作とした。一方で現場に居合わせた王子・李坧が、「国母を殺したのは、禹範善だ」と[76]、国王・高宗が、「王妃を殺したのは、不逞の私の部下だ」と証言した[77]とするこの特集と異なった内容の資料も存在する。
2015年8月30日、産経新聞政治部専門委員の野口裕之が書いた記事「米中二股 韓国が断ち切れぬ「民族の悪い遺産」」[78]で、朴槿恵大統領を閔妃に例えた事に対して、韓国政府が「論評する価値もない」と切り捨て、記事の削除と再発防止を要求した[79]。
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