景福宮
大韓民国のソウル特別市鍾路区にある、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮 ウィキペディアから
大韓民国のソウル特別市鍾路区にある、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮 ウィキペディアから
景福宮(けいふくきゅう、朝: 경복궁、キョンボックン)は、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の王宮である。現在の韓国ソウル特別市にある。
李成桂により1395年に現在の大韓民国ソウル特別市鐘路区世宗路1-56に置かれた朝鮮王朝の王宮。近代では、大日本帝国に併合された後に朝鮮総督府の庁舎が置かれた。韓国建国後は、敷地の一部に大統領府(青瓦台)が置かれていたが、2022年に移転した。現在は景福宮の中心部に1867年に興宣大院君再建された勤政門や勤政殿などが現存し、建物の復元が進行中。
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定。無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まった。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成した。その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失した。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失した[1]。
その後は離宮の昌徳宮が正殿に使用され、景福宮は約270年の間再建されなかった。
朝鮮王朝末期の1865年に高宗の父興宣大院君が再建し、1868年に国王の住居と政務を昌徳宮から移したが、1896年に高宗はロシア公使館へ逃げ込み、そこで政務を執るようになり(露館播遷)、宮殿には王が不在となった。その後正宮は1897年に慶運宮(徳寿宮の当時の名称)に、1907年に純宗の即位で昌徳宮に移る。1910年、韓国併合条約により大韓帝国の統治が終了すると、王宮としての役割をなくした景福宮に代わり、朝鮮統治を後継した朝鮮総督府の庁舎の建設が景福宮敷地で1912年から始まり、1926年に完成した。景福宮の資材は大火にあった昌徳宮の修復に使用され、光化門は正面から移設された。
韓国独立後、景福宮内の旧朝鮮総督府庁舎は中央庁および韓国国立中央博物館に利用されていたが、景福宮復元計画により賛否両論の中で1996年に解体された。現在は光化門を正門、勤政殿を正殿とし、それを結ぶ線に対して左右対称に建物が配置されている。これは北京の紫禁城などの様式を倣ったもので、儒教の思想や伝統にかなったものである。また中には優雅な庭園が配されており、宮殿の中にいながら山河に遊ぶことができるようになっている。宮殿北側にある部分は2022年5月まで大韓民国大統領官邸(いわゆる青瓦台)に使用されていた。光化門は1968年に鉄筋コンクリート造で外観復元されたが、総督府庁舎があったため正確な位置ではなかった。そのため2006年に撤去され、2010年、正確な位置に復元された。景福宮は1990年から復元事業が行われており、2010年の光化門復元は第一次事業の最後を飾るものであった。第一段階事業によって89棟が復元され、これは1865年再建当時の25%水準となる。第二次復元事業は2011年から始まり2030年に終える予定である。第二段階復元事業により379棟を復元し1865年再建当時の75%の水準を回復する。第一次復元事業では主だった建物が復元されたが、第二次復元事業では付属の建物の復元も進められる。
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