西大寺 (奈良市)
奈良市にある真言律宗の寺院 ウィキペディアから
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西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗の総本山の寺院。山号は勝宝山[注釈 1]。本尊は釈迦如来。奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊によって復興された。
西大寺 | |
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東塔跡越しに望む本堂(重要文化財) | |
所在地 | 奈良県奈良市西大寺芝町1丁目1-5 |
位置 | 北緯34度41分37秒 東経135度46分46.2秒 |
山号 |
勝寶山 秋篠山(旧称) |
院号 |
四王院 四天院(旧称) |
宗派 | 真言律宗 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 釈迦如来(重要文化財) |
創建年 | 天平神護元年(765年) |
開山 | 常騰 |
開基 | 孝謙上皇(勅願) |
正式名 |
勝寶山四王院西大寺 秋篠山四天院西大寺(旧称) |
別称 | 南都西大律寺 |
札所等 |
真言宗十八本山第15番 大和十三仏霊場第2番 西国愛染十七霊場第13番 大和北部八十八ヶ所霊場第24番 南都七大寺第5番 神仏霊場巡拝の道第23番(奈良第10番) |
文化財 |
絹本著色十二天像12幅、木造叡尊坐像、金銅宝塔及び納置品ほか(国宝) 本堂、絹本著色釈迦三尊像、木造釈迦如来立像ほか(重要文化財) |
公式サイト | 真言律宗総本山 西大寺 |
法人番号 | 2150005000193 |
宝亀11年(780年)の『西大寺資財流記帳』によれば、創建の経緯は以下のとおりである。天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。なお、孝謙上皇は同年10月重祚して称徳天皇となった。翌天平神護元年(765年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創建された。この四天王像4体は西大寺四王堂に今も安置されるが、各像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建当時のもので、像本体は後世の作に代わっている[注釈 2]。
西大寺の創建当時は僧・道鏡が中央政界で大きな力を持っており、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的影響が大きかったものと推定されている[1]。護国のために四天王像を安置するのは『金光明最勝王経』に基づくものである。
「西大寺」の寺名はいうまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。前述の『資財流記帳』の記載や、元禄11年(1698年)作成の伽藍絵図から復元される伽藍配置は以下のようなものである。寺域の中心には薬師金堂が建ち、その背後、通常の寺院では講堂のある位置には弥勒金堂が建っていた。これら中心伽藍の東には小塔院、その北に食堂院(じきどういん)、中心伽藍の西には正倉院、その北に政所院(まんどころいん)があった。中心伽藍の前方(南)には東西2基の五重塔が建ち、これらの東に四王院、西に十一面堂院があり、四王院の南に東南角院(すみいん)、十一面堂院の南に西南角院があった。塔は八角形で計画されたが、途中で四角形に改められた。
『資財流記帳』によれば、これらの諸堂には密教系の像を含む多数の仏像が安置され、多くの鏡で荘厳されていた。薬師金堂には、薬師三尊像を中心に計21体の仏像が安置され、中には密教系の孔雀明王像も含まれていた。弥勒金堂には計77体もの仏像が安置され、弥勒仏の兜率天浄土を表現していた[2]。
西大寺の中興の祖となったのは鎌倉時代の僧・叡尊(興正菩薩、建仁元年(1201年) - 正応3年(1290年))である。叡尊は建仁元年(1201年)、大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれた。11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、文暦2年(1235年)、35歳の時に初めて西大寺に住した。その後一時海龍王寺(奈良市法華寺町)に住した後、嘉禎4年(1238年)西大寺に戻り90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めた。また、貧者、病者などの救済に奔走し、今日でいう社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。その後も忍性などの高僧を輩出すると共に、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力し、南北朝時代の明徳2年(1391年)に出された『西大寺末寺帳』には8か国、同時代のその他の史料から更に十数か国の国分寺が西大寺の末寺であったと推定されている(なお、現存の国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺が真言宗各派に属している)。
西大寺は明応8年(1499年)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされたり、文亀2年(1502年)の火災で東塔が炎上するなど大きな被害を受けた。
江戸時代に江戸幕府より300石の寺領を認められると、ようやく再建の途に付いた。現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建である。
西大寺は1895年(明治28年)6月に真言宗から独立し、真言律宗を組織した。真言律宗に属する寺院は、大本山宝山寺(奈良県生駒市)の他、京都・浄瑠璃寺、岩船寺、奈良・海龍王寺、奈良・不退寺、鎌倉・極楽寺、横浜・称名寺などがある。
重要文化財。寄棟造、本瓦葺。室町時代の焼失後に再建された堂が傷んだため、修理ではなく新築することとし、寛政10年(1798年)頃造営に着手、文化5年(1808年)頃完成したものである。土壁を一切用いず、装飾性の少ない伝統的な様式になる。江戸時代後期の大規模仏堂建築の代表作として、1998年(平成10年)に重要文化財に指定された。この堂はかつては宝暦2年(1752年)の建築とされていたが、正しくは前述のように19世紀初頭の建築である。鎌倉時代に建てられた光明真言堂の後身である。
奈良県指定有形文化財。近衛家からの寄進を受け、京都御所にあった近衛家政所御殿を叡尊の住房であった西室の跡地に宝暦12年(1762年)に移築したもの(移築年次は明和4年(1767年)とも)。
2022年4月1日から入山を有料化し、四王堂、本堂、愛染堂のいずれかで拝観料を納めると「共通拝観券」が発行され、これらの堂宇を拝観できる共通拝観制が導入される(2022年3月14日真言律宗定期宗議会決定)[3]。2022年1月20日から南門は閉鎖されており、2022年4月1日から参拝者は東門と清浄院東側にある通路のみ通行できる[3]。
2022年3月までは境内の通り抜けは自由で各堂で個別の拝観料が必要だったが、文化財管理の安全性を優先し、寺院の信仰空間の荘厳さを保つため、参拝目的以外の入山を控えるよう求めることになった[3]。
(建造物)
(絵画)
(彫刻)
(※釈迦如来立像、騎獅文殊菩薩及脇侍像、愛染明王坐像、大黒天立像の像内納入品の細目は後出)
(工芸品)
(書跡典籍、古文書、歴史資料)
典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
(以上経幢内納入)
出典:『国宝・重要文化財大全 別巻』所有者別総合目録・名称総索引・統計資料(毎日新聞社、2000年)による。ただし、木造叡尊坐像の納入品の名称変更・追加指定については、平成28年8月17日文部科学省告示第112号による。
仏像の画像(古写真)
西大寺の大茶盛は、延応元年(1239年)1月16日、叡尊上人が西大寺復興のお礼に八幡神社に献茶した際に余服を地域の人々に振る舞った故事に由来する茶儀である[9][10]。年中行事として行われているほか、団体申込で随時実施されている[9]。
使用する茶碗は直径30センチメートル以上、重さ約7キログラムもあり[10]、これを「一味和合」の精神で廻し呑む[9]。
年中行事としては春と秋の大茶盛式(4月第二日曜日と前日土曜日、10月第二日曜日)、新春大茶盛式(1月15日)がある(年中行事と重なる場合は一般団体の大茶盛の受付はない)[9]。
境内(西大寺芝町1丁目1-9)に西大寺幼稚園(昭和25年創立)がある。
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