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東洋史学者 ウィキペディアから
宮﨑 市定(みやざき いちさだ、1901年(明治34年)8月4日[1] - 1995年(平成7年)5月24日)は、日本の東洋史学者。京都大学名誉教授。
人物情報 | |
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生誕 |
1901年8月4日 長野県下水内郡秋津村(現:飯山市) |
死没 |
1995年5月24日(93歳没) 肺炎 |
出身校 | 京都帝国大学文学部 |
配偶者 | 宮崎松枝 |
両親 | 宮崎市蔵・悦 |
子供 | 宮崎一枝 |
学問 | |
時代 | 昭和時代 - 平成時代 |
学派 | 京都学派(東洋史) |
研究分野 | 東洋史 |
研究機関 | 京都大学文学部史学科 |
指導教員 | 内藤湖南・桑原隲蔵・羽田亨・矢野仁一・狩野直喜 |
主な指導学生 | 礪波護・佐伯富・伊藤道治・梅原郁・池田誠・稲葉一郎・岡崎敬・愛宕松男・狩野直禎・河内良弘・河地重蔵・小玉新次郎・近藤治・佐竹靖彦・重松伸司・島田虔次・谷川道雄・竺沙雅章・寺田隆信・波多野善大・萩原淳平・日比野丈夫・藤本勝次・藤善真澄・間野英二・森正夫・森本公誠・吉川忠夫 |
学位 | 文学博士(1947年、京都大学) |
称号 |
京都大学名誉教授(1965年) 飯山市名誉市民(1992年) |
特筆すべき概念 | 宋以後近世説 |
主な業績 | 東洋史京都学派の発展 |
主要な作品 |
『アジア史概説』 『科挙』 『水滸伝』 |
影響を受けた人物 | 内藤湖南・桑原隲蔵・羽田亨・矢野仁一・狩野直喜・吉川幸次郎・濱田耕作 |
影響を与えた人物 | 吉川幸次郎 |
学会 | 東洋史研究会 |
主な受賞歴 |
日本学士院賞(1958年) 勲二等旭日重光章(1971年) ジュリアン賞(1978年) 京都府文化賞特別功労賞(1983年) 文化功労者(1989年) 従三位(1995年) |
1901年、長野県下水内郡秋津村(現在の飯山市)静間で宮崎市蔵・悦の次男として生まれた[2]。父の市蔵は、飯山小学校の教師であった。
その後、秋津小学校、県立飯山中学校(現:長野県飯山北高等学校)を卒業し[1]、1919年に新設まもない松本高校(現:信州大学)文科甲類に入学する[3]。同校の後輩には、後の東洋史学者、曽我部静雄と仁井田陞がいた。
1922年に京都帝国大学文学部史学科に入学、東洋史を専攻[4]し、内藤湖南・桑原隲蔵・羽田亨・狩野直喜らに師事する。卒業論文は、南宋滅亡期の中国社会と北方民族との交渉の一場面を題目とした。中国史の研究対象を中近世期から古代期にまで拡げた。
1932年(昭和7年)、第一次上海事変により応召。3ヶ月で無事帰還するが、馬廠長としての勤務中に蓄えた馬の知識は後々役に立ったという。
1934年(昭和9年)発表の「遊侠に於いて」では、中国古代における都市国家の存在を指摘している。
1936年(昭和11年)2月より文部省在外研究員として第三共和期のフランスに留学、パリの東洋語学校でアラビア語を学ぶ。アメリカ経由で、1938年(昭和13年)8月に帰国する。
1944年(昭和19年)5月 - 京都帝国大学文学部教授に就任[5]。
1947年(昭和22年) - 『アジヤ史概説:続編』を発表する。文学博士(京都大学)(学位論文『五代宋初の通貨問題』)
1950年(昭和25年)に『東洋的近世』を出版、宋代近世説を展開する。
1960年(昭和35年)10月 - パリ大学客員教授としてフランス赴任。帰国後にハーバード大学の客員教授を委嘱されてアメリカへ行き、1962年(昭和37年)7月に帰国する。
退官後は、吉田山東側・左京区浄土寺の自宅にて著述活動に専念、『論語の新研究』・『中国史』などを執筆した。全集が1990年代に刊行され、自跋(あとがき)が好評を博し、没後に自跋集として出版されるなど最晩年まで東洋史論文を書く筆力は健在であった(全集の刊行はほぼ2ヶ月に1冊のペースであり、90歳代前半で隔月連載をこなした計算になる)。
宮崎の研究姿勢は、師の内藤湖南が提唱した唐宋変革論を受け継ぎ、社会経済史の立場に加え、西アジアやヨーロッパとの交流の影響および比較の上に立って、唐以前を中世・宋以後を近世と設定し、さらにそれを裏付けるために宋代における政治・制度・社会・経済などの研究から始まった。1950年「中国近世における生業資本の賃借において」に始まりいくつかの論考を発表。またその一つが科挙の研究となる。そこから派生して胥吏の研究に入り、胥吏の淵源を探ろうとして著されたのが『九品官人法の研究』である。さらに明清時代の景気変動の考察の延長に、景気変動史観を着想した。
その他にも佃戸に関する研究・『水滸伝』に関する論考など文化面・経済面など幅広い分野に、また漢代から清代に至るまでの幅広い時代に、宮崎の研究はこれら全てに及んでおり、その影響は限りなく大きい。
1935年に「晋武帝の戸調式に就いて」で古代の土地、賦税制度について述べた後、宋代以降の官僚制に研究を向ける。第二次世界大戦中には東亜研究所の依託により清代の官吏登用制度の研究を行い、科挙についてまとめた。そこで徴用されて半年ほどして終戦となる間に原稿が組版され、『科挙』として出版された。1963年に簡略化して書き直したものを中公新書より再刊したことで注目されるようになり、次いで英語版、イタリア語版なども出版された。
1942年に文部省教学局で「大東亜史概説」編纂が企画され、東京帝大の池内宏、京都帝大の羽田亨が編纂責任者、編纂嘱託として鈴木俊、山本達郎、安部健夫と宮崎が委嘱された。文部省の意向では、ビルマ以東の大東亜共栄圏において、世界で最も古い歴史を持つ日本を中心に、皇国の文化が朝鮮・中国からアジア各地へ光被していく歴史を書くということだった。その提案に対し嘱託4名は、叙述の範囲をアジア全体とし、日本ではなく西アジアを扇の要の位置とし、最古の文明が西アジアに発祥して東に延びて、最後の終着点である日本で最高度の文化を結晶させた、という方針を答申し、文部省はあっさりこの案を認めた。宮崎による上古から唐代までの草稿は1944年に完成したが、終戦により企画は消滅する。
1947年にこの草稿を『アジヤ史概説 正編』として出版。次いで新たに最近世まで、および「アジア史上における日本」の章を書き足し『アジヤ史概説 続編』を出版した。1973年に学生社で改訂版刊行に際し、新たに「現代アジア史」の章を追加。1987年に中公文庫で再刊された。
『水滸伝:虚構のなかの史実』では、歴史上において、宋江は二人いたという新説を立てた。他に古来挿入部分とされていた遼国征伐についても「梁山泊を滅亡へ持って行くためには必要な部分」との見解を示した。
『論語の新研究』で、論語を訳した部分は『現代語訳 論語』(岩波現代文庫)で没後再刊され、宮崎論語の別名で読み継がれている。谷沢永一をはじめ、名訳として高く評価する向きもある一方[7]、この訳解に批判的な意見も存在する(加地伸行[7]や吉川幸次郎、呉智英)。宮崎は「論語の文章は長い年月の中で改変を受けており、修正しなければ意味のとおる文章にならない」と唱え、「論語の新研究」において論語の文を修正注解していたが、吉川はこの考え方を批判し、「文章を改めず古来の注釈に依拠するべき」という態度であった。
文化大革命起こる直前の1963年-1965年に、中国学会で高級幹部・専門家向けの内部読物として現代中国語訳『宮崎市定論文選集』2巻が限定出版された。ここでは「反動史学家」というレッテルを貼られながらも、中国への批判も含め忠実な訳書で、当時北京大学在学中だった後の歴史学者劉俊文は宮崎ファンとなり、京都に研究遊学後に編訳版『日本学者研究中国史論著選訳』10巻(中華書局、1992年)を出版、宮崎の論文は10編を選んだ。
中国の社会、経済、制度史を専攻し、科挙に関する論考が著名であり、通史としての東洋史論考でも高く評価され、所謂京都学派(東洋学部門)の中心人物として、歴史学界をリードした。また執筆した概説書は、一般読書人にもファンが多かった。
宮崎の論考著作抜きには、東洋史研究は成立しないといってよく、多数の研究者により引用参照されている。研究者以外でも、司馬遼太郎・谷沢永一・向井敏・松本清張・米長邦雄などが宮崎の著作参照を明言している。谷沢・松本は、宮崎が発表した論考の内で東洋史学界では余り評価されなかった論語の研究や日本古代史の研究を高く評価し、一般に紹介した。
※ 以下表記は一部。『宮崎市定全集24 随筆(下)』巻末に、詳細な書誌(1994年まで)を収録。
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