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1866-1934, 東洋史学者 ウィキペディアから
内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日)[1] - 1934年(昭和9年)6月26日)は、近代日本の東洋史学者。名は虎次郎(とらじろう)。字は炳卿(へいけい)。湖南は号。別号に黒頭尊者。白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国における唐宋変革時代区分論争などで学界を二分した。
1866年 (慶応年間)陸奥国毛馬内村(現:秋田県鹿角市十和田毛馬内)にて、南部藩士・内藤調一(1832年 - 1908年。号は十湾)と容子の次男として生まれた[2]。本名の「虎次郎」は、父の十湾が吉田松陰に心酔していたため、吉田松陰の通称である「寅次郎」から取って命名した[3]。父・十湾[4]は折衷学派に属していた。
6歳で『大学』をわずか4ヶ月で習得し、7歳で『二十四孝』と四書を習得し、13歳時で『日本外史』を通読し、さらに詩作を始める。友人や世間の評判も「学問が出来ても決して威張らず、喧嘩など一度もしたことがない。感心な子どもだ」というものであった。秋田師範学校に入学後も、一人キリスト教会に通い、宣教師ガルスト・スミス(アメリカ人)につき『万国史』などを勉強した。
1884年(明治17年) 秋田師範学校を4年かかる課程を2年半で卒業して、10代で綴子(つづれこ)小学校の主席訓導(実質的には校長)となる。
1887年(明治20年)に上京し、大内青巒の仏教雑誌「明教新誌」の編集に携わり、続けて同じく青巒の「万報一覧」「大同新報」の記者のあと、国粋主義の政教社に入社、機関紙「日本人」「亜細亜(「日本人」のダミー誌)」の編集に加わった[5]。その後「三河新聞」や「大阪朝日新聞」「台湾日報」「万朝報」などの編集で名を馳せた。日露戦争に於いては開戦論を展開した。
10年間ジャーナリストを務めた後、1907年(明治40年)に京都帝国大学文科大学史学科(同年、学生募集開始)東洋史学講座講師に就任、1909年(明治42年) には京都帝大教授になった[6]。講師となって以後、東洋史担当講座に足掛け20年務め、同僚の狩野直喜・桑原隲蔵とともに「京都支那学」を形成、京大の学宝とまで呼ばれた。
1910年(明治43年)、教授在任期間が1年となったため、狩野亨吉総長の推薦により文学博士(京都帝国大学)[7]。主著の一つである『清朝史通論』は、この博士号が慣習によるものであったため、自身が博士論文に相当する論考を書かねばならないと決意し執筆したもの。同論文自体は博士学位論文ではない。
東京帝国大学(東京学派)の白鳥庫吉とは「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称された。特に邪馬台国の所在地をめぐる論争では畿内説を主張し、九州説を唱えた白鳥と激しい論争が展開された。
1926年(大正15年)に大学の60歳定年制に基づき、京都帝大を退官[6]、また帝国学士院会員に選出される[8]。退官後は京都府瓶原村(現木津川市)に隠棲し、読書著述の日々を過ごした。
1921年(大正10年)の講演「応仁の乱に就て」では「一体他流試合と申すもので、一寸も私の専門に関係のないことであります」といういささか挑発的な前置きをしつつも、「大体今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であつて、これを本当に知って居れば、それで日本歴史は十分だと言つていいのであります」と発言している[11][12]。この発言は多く日本中世史を論じるときに引用されている[13][14]。
史論の代表的なものに、独特の文化史観に基づき、中国史の時代区分を唐と宋の間を持って大きく時代を分けるというものが唐宋変革論である。湖南は秦漢時代を上古と規定し、後漢から西晋の間を第一次の過渡期とし、五胡十六国時代から唐の中期までを中世とする。唐の後期から五代十国時代を第二の過渡期とし、この時代をもって大きく社会が変容したとする。そして、宋以降は近世(ここでいう「近世」は現代でいう「近代」に近い[15])であり、貴族の時代から平民の時代へ変革したとする。
戦後、湖南は「対中侵略主義者」として批判された[15][16][17]。これは、1914年刊『支那論』、その続編として書かれた1924年刊『新支那論』(没後1938年合本版、2013年復刊[17])の内容が原因である。
『支那論』は、同時代の中国(中華民国初期)についての時事評論であり、とくに袁世凱の専制政治を、唐宋変革論により非難する内容だった。すなわち、中国は宋代以降現代まで「平民」の時代であり、袁世凱の専制政治は時代に逆行している、と説いた。[15][16][17]
『新支那論』は、袁世凱没後の軍閥内乱や、五四運動による排日運動・欧米化の過熱を踏まえて、『支那論』を更新する内容だった。湖南は、五四運動の担い手だった若者たち(通称ヤング・チャイナ)を、欧米かぶれで伝統文化を破壊する「新人」として非難した。その上で「文化や芸術は高尚なもの、政治は低俗なもの」という前提のもと、中国人は文化や芸術に専念して、中国統治は日本人や欧米人に委託するべき、と説いた。これは列強の中国侵略を肯定しているようだが、湖南としては、中国こそが文化的な先進国であり、日本や欧米は後進国である、という考えによるものだった。[15][16][17]
戦後日本では、『支那論』『新支那論』が侵略主義的だったとして、野原四郎や増淵龍夫に断罪された[18]。一方、唐宋変革論は、宮崎市定ら京都学派に継承され、歴研派との時代区分論争が展開された。しかしながら、湖南についての解説書は、ジョシュア・フォーゲル 『内藤湖南 ポリティックスとシノロジー』(原著1984年、日本語訳1989年)がある程度だった[17]。三田村泰助『内藤湖南』(1972年、中公新書)もあるが、前半生の伝記が中心で、学問の解説は乏しかった[17]。
しかし2000年前後から、著作の復刊、再評価、湖南研究が徐々に進んでいる[17]。中国でも同じころから研究対象として注目されている[19]。
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