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日本国有鉄道の直流電気機関車 ウィキペディアから
国鉄EF63形電気機関車(こくてつEF63がたでんききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した直流電気機関車である。信越本線横川 - 軽井沢間の碓氷峠専用の補助機関車として開発された。用途から「峠のシェルパ」、もしくは形式称号から「ロクサン」の愛称がある。
国鉄EF63形電気機関車 | |
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489系電車と協調運転をするEF63 16 (1997年6月 横川駅 - 軽井沢駅間) | |
基本情報 | |
運用者 |
日本国有鉄道 東日本旅客鉄道 |
製造所 |
東京芝浦電気 三菱電機・新三菱重工業 川崎電機製造・川崎車輛→富士電機・川崎重工業 |
製造年 | 1962年 - 1976年 |
製造数 | 23両+補充車2両 |
運用開始 | 1963年7月15日 |
運用終了 | 1997年9月30日 |
投入先 | 信越本線(横川 - 軽井沢間) |
主要諸元 | |
軸配置 | Bo-Bo-Bo |
軌間 | 1,067mm |
電気方式 |
全て直流架空電車線方式 1,500V 600V[注 1][1][2] 750V[注 2][3][4] |
全長 | 18,050mm |
全幅 | 2,800mm |
全高 | 4,060mm |
運転整備重量 | 108.0t |
台車 |
DT125形(両端) DT126形(中間) |
軸重 | 17t-19t |
動力伝達方式 | 1段歯車減速吊り掛け式 |
主電動機 | MT52 (MT52A) 形直流直巻電動機×6基 |
歯車比 | 16:71 (4.44) |
制御方式 | 抵抗制御、直並列3段組合せ、弱め界磁(バーニア制御付) |
制御装置 | 自動進段電動カム軸制御器 |
制動装置 |
EL14AS形自動空気ブレーキ 抑速発電ブレーキ 電磁吸着ブレーキ 電機子短絡ブレーキ |
保安装置 |
ATS-SN(JR移行後) 過速度検知装置 |
設計最高速度 | 100km/h |
定格速度 | 39km/h |
定格出力 | 2,550kW |
定格引張力 | 23,400kg |
備考 | 特に記載のない限り[5] |
最大勾配68‰に達する碓氷峠区間は1893年の開業時からラック式鉄道の一種「アプト式」を採用し、1934年からは同区間専用のED42による運転を行っていた。
第二次世界大戦終結以降の経済復興 - 高度経済成長期への時代趨勢に対応し、国鉄は主要幹線の輸送力増強に着手した。碓氷峠を含む信越本線系統においては所要時間の短縮を企図し、ラック式鉄道を廃止し一般的な粘着運転への切替方針が決定したが、諸案検討の結果、最大勾配66.7‰とした複線の新線が1963年9月30日までに完成することとなった。このため、急勾配の諸条件に対応し、かつED42に代わって同区間の列車の牽引・推進を行う新形式機関車が必要となり、EF60をベースに開発されたのが本形式である。
本務機EF62とは、下り列車ではプッシュプル運転、上り列車では協調運転を行うことを前提としており、常に重連運用とされることから前面に貫通扉を装備。また傾斜したサッシ支持前面窓や大型の側面通風フィルターが外観上の特徴である。
常に2両でペアを組み、横川 - 軽井沢間を通過する全ての列車の横川方に連結する補機という特殊な運用ならびに運転特性や安全性確保の観点から、数多くの独自かつ特殊な装備が搭載される。このため運転整備重量は108tで、EF60以降の新性能直流電気機関車では最大であり、引き通しも総括制御可能な構造を持つ機関車では異例の片渡り構造とされた。
主電動機はEF70交流電気機関車に続き端子電圧750V時1時間定格出力425kWのMT52形直流直巻電動機をEF60の2次車およびEF62と共に直流電気機関車として初めて採用した。
制御装置は勾配区間での空転防止の観点から、ノッチを細分化し主電動機のトルク変動を小さくすることを目的に従来の単位スイッチ方式を取りやめ、CS16形電動カム軸式自動進段抵抗制御器・CS17形バーニア制御器[6]・CS18形電動カム軸式転換制御器[7]を搭載する。
MH91-FK34形主電動機送風機は、発電ブレーキ使用時の抵抗器熱をより素早く冷却させるために、6基設置である他形式とは異なり、出力電圧を250Vから375Vに増圧した4基設置とした。これにより発生する送風音は甲高い音となり、本形式の大きな特徴の一つとして挙げられている[注 3]。
台車はEF62の3軸ボギー台車(軸配置Co-Co)と異なり2軸ボギー台車(軸配置Bo-Bo-Bo)としたが、電磁吸着ブレーキなどの特殊装置が装備されることから本形式専用設計とした。両端台車はED72が装着するDT119A形をベースに逆ハリンク機構を採用したDT125形[8]、中間台車はDT125形に直径115mmの過速度検知装置用遊輪を装着したDT126形である。また各台車の軸重は、軽井沢方にデッドウェイトを偏って搭載しているため、横川方17t・中間18t・軽井沢方19tとアンバランスな状態に調整された。これは、勾配区間での軸重移動を考慮し均等にするための措置である[注 4][9]。なお軽井沢方台車の軸重は国鉄車両としては最大である。
ジャンパ連結器は、横川方(1エンド)基準で協調制御用のKE70形1基とEF62を含む総括制御用のKE63形(先行試作車から2次形まで)またはKE77A形[注 5](3次形以降)2基が運転席側に、MRP管(元空気溜管)と釣り合い引き通し管が助手席側スカート部にそれぞれ設置されている。なお、軽井沢方(2エンド)は横川方と逆配置で、併せて後述する独自の電車との連結用ジャンパ連結器等が設置されている。
当区間の運転はすべて横川方に連結される本形式[注 16]に乗務する機関士が担当する。以下で解説する装備を搭載する。
EF62と協調運転を行う関係上本形式には当初から150kHz帯の誘導無線が装備されていたが、トンネル区間を中心に雑音が問題となった。横川機関区や横川・軽井沢両駅との連絡を確実にする観点から、本形式とEF62には1975年から新たに敷設した専用漏洩同軸ケーブルを使うUHF400MHz帯列車無線が搭載され、軽井沢方運転室側面と屋上にアンテナを設置した。さらに1980年代に入ると異常時に他列車への連絡を可能とする防護機能が追加され、1990年以降は山岳区間での了解度向上を目的に通称『C'アンテナ』と呼ばれる八木アンテナ製コーリニアアレイアンテナが軽井沢方運転席前と横川方助手席前に設置された。
以下で製造年次別による詳細を解説する。
当初の計画では車両定数によって1両のみで運用する計画もあったが、車両故障など非常事態への対策を考慮して本形式のみの単機回送列車も含めて常に2両1組の形態で運用することが原則化され、電車・気動車・機関車・客車を問わず横川 - 軽井沢を通過するすべての列車に補機として連結運用された。
最大66.7‰の急勾配という条件で峠の下側から本機による推進・牽引運転のため、連結器の破損や座屈による浮き上がり脱線の予防、車両の逸走を防止する点から当区間を通過する車両には以下の対策(通称:『横軽対策』)が必須になった。
対策施工車両には識別のため車両番号の頭に直径40mmの「●(Gマーク)」を付した。塗色は白色または赤2号とされ、特急型車両など形式番号がステンレス切抜文字となっている場合でもいずれかの色で塗装している。
当初は以下の運転形態が計画された[18]。
しかし実地試験を行った結果一部で不具合や問題が発生したため修正を加え、EF62が牽引する客車・貨車と動力分散方式の電車・気動車とでは以下に示す方式に変更され、若干の差異が発生した。
1962年5月に先行試作車の1が製造され数々の試験を実施。1963年7月15日に横川 - 軽井沢間粘着運転新線が開通したことに伴い、営業運転を開始した。アプト式は9月30日で廃止となり、翌10月1日には全面的に粘着運転へ切り替えられたが、それまでに13両が高崎第二機関区(現在はJR貨物高崎機関区)に新製配置され、28両[注 31]あったED42を完全に置き換えた。1964年8月には、横川機関区(1987年に横川運転区へ改組・改称)に転属した[20]。
その後は輸送量の増加に伴い数回にわたり増備が行われた。特殊な構造であるため他区間への転用はできないものの、碓氷峠区間には必要不可欠な補助機関車という特殊性から、国鉄分割民営化時にはそれまでに廃車となった4両を除く21両が東日本旅客鉄道(JR東日本)に承継された。
また、お召し列車が1964年や1978年に同区間を走行した際には以下の車両が特別装備の上で運用された。
1997年10月1日に北陸新幹線高崎 - 長野間が先行開業したため、横川 - 軽井沢間の在来線区間は前日の9月30日限りで廃止となった[注 32]。これにより用途を喪失した本形式は在籍全車が高崎運転所(現・ぐんま車両センター)に転出し[注 33]、1998年に廃車・廃形式となった。
これに先立ち、1997年2月に18、3月に19、4月に24、6月に25の4両[注 34]が本形式最後の全般検査出場を記念して初期の「ぶどう色2号」へ塗装変更された。9月10日に横川で開催された「さよなら祭り」から廃線当日までの間、横川運転区が制作したさまざまな「さよならヘッドマーク」が横川方前面に順次取り付けられた[注 35]。最後の営業列車「あさま37号」3037列車の補機仕業には、3(青)・19(茶)[注 36]が就いた。これは当日朝に軽井沢保存のために切り離された2(青)と組んでいた3(青)と、臨時回送列車の牽引から戻った18(茶)・19(茶)をばらして、3(青)・19(茶)の2色コンビを結成させ、最終列車の花道を飾ったものである。本形式の最後の本線自走運転は、大宮工場(現在は大宮総合車両センター)で開催された「JRおおみや鉄道ふれあいフェア」(現在は「鉄道のまち大宮 鉄道ふれあいフェア」)での展示のために1997年10月18日深夜に高崎操車場から大宮操車場まで運転された回送列車で、19号機がEF55 1・EF60 19を牽引した[注 37]。
1997年の用途廃止後による廃車以外では事故により2両、余剰により2両の計4両の廃車がある。
全車廃車となっているが、2024年現在では碓氷峠鉄道文化むらで動態保存・静態保存合わせて7両、それ以外の場所に2両の計9両が保存されている。
碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市松井田町横川)では4両が動態保存されており、運転体験ができるほか、3両が静態保存されている。
保存車両のうち、1号機と廃止間際の全検出場で塗り替え施工を行った18・19・24・25号機の計5両は茶色塗装。後に19号機は解体、24・25号機は本来の青色塗装へ復元されたため、2024年時点で茶色塗装を維持しているのは静態保存の1・18号機の計2両に留まる。
画像 | 番号 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|
EF63 2 | 長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢 しなの鉄道軽井沢駅構内 |
1997年9月30日の単171列車で24・25号機との三重連で軽井沢駅構内へと自走回送された。 到着後、同地で保存展示されている。 | |
EF63 3 | 群馬県安中市松井田町横川 横川駅前 ※動輪のみ |
1997年9月30日の碓氷峠最終列車の牽引機。 廃車後、荻野屋が動輪のみを譲り受け、横川駅前で保存されている。 | |
EF63 13 | 埼玉県さいたま市大宮区錦町 JR東日本大宮総合車両センター ※2エンド前頭部のみ |
1997年に同車両所で全般検査を受けた車両の一つ。 廃車後、軽井沢方2エンド前頭部のみが保存された。 同車両所の公開時のみ見学可能。 | |
EF63 15 | 長野県長野市西和田2丁目29-1 JR東日本長野総合車両センター ※解体済み |
長野県内での保存のため、同センターへ搬入し長らく保管されていたが、2016年(平成28年)2月に解体された[28]。 | |
EF63 19 | 長野県長野市西和田2丁目29-1 JR東日本長野総合車両センター ※解体済み |
15同様に長らく保管されていたが、2019年(令和元年)9月に解体された[28][注 39]。 | |
EF63 22 | 群馬県安中市松井田町坂本[注 40] ※個人所有 |
廃車後、同場所へ引き渡された。
将来は碓氷峠の歴史を伝える博物館の建設が予定されている[要出典]。 |
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