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イングランドのミュージシャン ウィキペディアから
ドン・エイリー(英語: Donald Smith "Don" Airey、1948年6月21日 - )は、イギリス・タインアンドウィア州、 サンダーランド出身のミュージシャン。
作曲、編曲の他、キーボードを担当。数多くのバンドやプロジェクトに参加している。熱心なサンダーランドAFCのサポーター。エアエイ、エイレイなど呼び方がある。身長180cm。
幼い頃からクラシック・ピアノを学び、ノッティンガム大学を経て英国王立ノーザン音楽大学で学位を取得卒業する。1972年にプロフェッショナルな音楽活動を開始し、コージー・パウエルズ・ハマーの「Na Na Na」(1974年)でレコーディング・デビューする。
1976年から1978年にかけて、ゲイリー・ムーアらと共にジャズ・ロック・バンド、コロシアムIIで活動。セッション・プレイヤーとしても活動しブラック・サバスのアルバム『ネヴァー・セイ・ダイ』(1978年)の録音に参加した後、1979年にリッチー・ブラックモアのグループ、レインボーに加入。『ダウン・トゥ・アース』(1979年)、『アイ・サレンダー』(1981年)のアルバム2枚の録音を残す。収録曲「Difficult To Cure」はベートーヴェンの「交響曲第9番」をアレンジした曲でグループのカラーに貢献した。しかし、コージー・パウエルの後任のドラマー、ボビー・ロンディネリとはウマが合わず、やがて方向性の違いから、『アイ・サレンダー』のアルバム・ツアー終了後に脱退した。
脱退後、オジー・オズボーンとゲイリー・ムーアのレコーディングやツアー・メンバーとしてキャリアを成す。1987年にはジェスロ・タルの公式メンバーとなり、ヨーロッパ及びアメリカ・ツアーに参加するが、1988年1月には脱退してソロ・アルバム『K2—栄光と悲劇の物語—』の制作に入る[1]。1980年代からはほぼスタジオ・ミュージシャン、編曲者として主にハード・ロック/ヘヴィメタルのアーティストのレコーディングで活躍。1997年ユーロビジョン・ソング・コンテストの英国代表であるカトリーナ・アンド・ザ・ウェイヴスのEBU 1997出展作品Love Shine a Lightの編曲とオーケストラの指揮を担当、英国に優勝をもたらしている。
仕事が散発的になっていた時代を経て、ウリ・ジョン・ロートのライブやレコーディングに参加。その後、2002年にはディープ・パープルにジョン・ロードの後任として加入し、活動を続けている[2]。
1982年3月19日、ランディ・ローズが飛行機事故による墜落死したこの日、奇しくもドンはセスナに乗る順番がランディより先だった為間一髪墜落死を免れた。
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