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Appleの歴史

アメリカの多国籍のテクノロジー企業であるAppleの歴史 ウィキペディアから

Appleの歴史
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Appleの歴史(アップルのれきし)では、アメリカ合衆国多国籍のテクノロジー企業であるAppleの歴史を記述する。

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現行のAppleのロゴは1998年に採用され、2000年に廃止され、2014年に再採用された[1]

Apple消費者向け電子機器英語版および関連ソフトウェアの開発・販売、メディアコンテンツのデジタル配信を手掛ける。主な製品群はiPhoneスマートフォン)、iPadタブレットコンピュータ)、Macパーソナルコンピュータ)である。製品はオンラインおよび自社の小売店舗のApple Storeを通じて販売されている。創業者はスティーブ・ジョブズスティーブ・ウォズニアックロナルド・ウェインで、1976年4月1日に「Apple Computer Co.」として設立され、ウォズニアックが開発したマイクロコンピュータApple I」の販売を目的とした[2]。1977年1月3日にカリフォルニア州クパチーノで法人化された[3]

法人化された1977年に発売された「Apple II」が大ヒットしたことで会社は急成長を遂げた。その後、Apple Computerは革新的なグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)を備えるコンピュータの開発に向かい、1984年には初代「Macintosh」を発売した。1985年、ウォズニアックは会社を去り、その後社内で失脚したジョブズもまたAppleを離れ、新会社「NeXT」を設立した。1990年代に入ると、AppleのコンピュータはインテルのプロセッサとMicrosoft Windowsを搭載するPCに対して市場シェアを失い、業績は悪化した。1997年、Apple ComputerがNeXTを買収したことでジョブズが復帰し[4]、翌年に暫定CEOに就任[5]、その後正式なCEOとなった[6]。ジョブズは1998年のiMac G3英語版の発売を皮切りに、認知しやすい製品とシンプルなデザインという企業哲学を植え付けた。

2001年のiPodの成功と2003年のiTunes Storeの開始により、Appleは消費者向け電子機器とメディア販売の業界リーダーとしての地位を築き、2007年に社名から「Computer」を除いた。AppleはiPhoneを起点に始まったiOS系のスマートフォン、メディアプレーヤー、タブレットコンピュータ製品でも知られている。2011年8月、ジョブズは健康上の問題でCEOを辞任し、ティム・クックが後を継いだ。ジョブズは2カ月後の2011年10月5日に亡くなった。 2015年6月30日時点で、Appleは時価総額による世界最大の公開会社であり[7]、2018年8月2日時点での推定評価額は1兆ドルであった[8]。2010年の年間売上は650億ドル、2011年は1278億ドルに成長し[9]、2012年には1560億ドルに達した[10]

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ジョブズとウォズニアックの時代(1971年-1985年)

要約
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創業までの経緯

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コンピュータ歴史博物館に所蔵されている、スティーブ・ウォズニアックが1970年代初頭に製作したブルーボックス

1971年の夏、当時16歳のスティーブ・ジョブズと当時21歳のスティーブ・ウォズニアックは共通の友人であるビル・フェルナンデスの紹介で知り合い、友人となった[11]。2人の商業的な協力関係は1971年の秋に始まり、ウォズニアックは独学の電子技術者で、『エスクァイア』誌の記事で特定のトーンを発して無料で長距離電話をかけられる装置が紹介されているのを読んだ。ブルーボックス(電話回線を不正利用して無料での長距離電話を可能にする機械)を自作し、それを試すために教皇と話すためにヘンリー・キッシンジャーになりすまし、バチカン市国に電話をかけた[12]。ジョブズは学生などを相手にそれを売り回った[11][13]。ジョブズは約200台のブルーボックスを1台150ドルで販売し、ジョブズとウォズニアックは大きな利益を上げて分け合った[14][15]。しかし、あるとき銃で脅されブルーボックスを奪われたことがきっかけとなり、身の危険を感じた2人は販売をやめた[16][17][18]。ジョブズはのちに、伝記作家に対して、ブルーボックスを商売した経験がなければ「Appleが誕生することもなかったのは100パーセント確実」だと語っている[19]

1975年までに、ジョブズはリード大学を中退してゲーム会社のアタリに、ウォズニアックはカリフォルニア大学バークレー校を中退してヒューレット・パッカード(HP)に勤務していたが、ジョブズがウォズニアックを自分の職場に忍び込ませ、アタリのゲームを無料で遊ばせる代わりに仕事を手伝ってもらうなど、2人の交友関係は続いていた[17]

1975年3月5日には、シリコンバレーのコンピュータマニアによる「ホームブリュー・コンピュータ・クラブ(HCC)」の第1回会合がカリフォルニア州メンローパークで開かれ、ウォズニアックも参加した[20][21]。HCCで当時最新鋭の個人用コンピュータ「Altair 8800」に触れたウォズニアックは大きな刺激を受け、すぐに自作コンピュータの設計に取り掛かった[16]。当時入手可能なCPUは179ドルのIntel 80802023年時点の$1,014と同等)と170ドルのMotorola 68002023年時点の$963と同等)だったが高価で、ウォズニアックは6800を好んだが価格的に手が届かず、紙上で設計を続けた。

1976年、ウォズニアックはプロセッサとしてMOS Technologyが20ドル(2023年時点の$107と同等)の安価なMOS 6502を発売すると、ウォズニアックはこれ用のBASICを作成し、対応するコンピュータ設計に着手した。6502は6800の設計者が同じく設計したチップで、ウォズニアックの6800用設計は少し修正するだけで6502に対応した。外部ディスプレイとしてテレビを、入力機器としてキーボードをつなぐことができる自作のマイクロコンピュータを完成させた[22]

1976年3月1日、ウォズニアックは、のちに「Apple I」と命名されるこのマシンをHCCの会合に持ち込んで披露し、大きな反響を得た[22]。ウォズニアック自身はApple Iの回路図を無料で配布することを望んでいたが、ジョブズはこのコンピュータの商業的可能性に興味を抱き、Apple Iの組み立てに必要なプリント配線板を製造販売するビジネスを2人で始めるべきだと訴えた[23][24][16]。ウォズニアックは勤務先であるヒューレット・パッカードにApple Iを売り込んだが、HPの上層部はそのようなコンピュータの製品化に関心を示さず[25]、結局ウォズニアックはジョブズと共に新会社を立ち上げ、事業を始めることに合意した[26]。商品となるプリント配線板を設計製造するには1,000ドル以上の費用が掛かったが、ジョブズは愛車のワーゲンバス(フォルクスワーゲン・タイプ2)を、ウォズニアックは愛用していたヒューレット・パッカード製のプログラム電卓HP-65)を売却し、1,300ドル余りの資金を捻出した[24][16][27]

創業・Apple Iの発売

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スティーブ・ジョブズの両親の自宅、カリフォルニア州ロスアルトスのCrist DriveにあるガレージでAppleの事業が始まった[28]。初期の作業はジョブズの寝室で行われ、後に自宅のガレージへと移された[29]
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テレビとキーボードを接続して使用可能な状態にしたApple I
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ウォズニアックの設計によるApple Iは、回路基板として完成状態で販売され、外装はなかった。ユーザーはテレビとキーボードのみを用意すればよかった。
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Apple Iの宣伝広告の一部。Apple Iはむき出しの基板として販売され、使用するにはキーボードやディスプレイを用意して接続する必要があった。
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初代のAppleのロゴロナルド・ウェインによって描かれ、アイザック・ニュートンリンゴの木の下にいる図である。
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Rob Janoffが1977年に作成した、虹色のAppleのロゴは同年4月から[30]1999年8月26日まで使用された[要出典]

1976年4月1日、ジョブズとウォズニアックにロナルド・ウェインを加えた3人は、共同で「Apple Computer Company(アップルコンピュータ・カンパニー)」を創業し、カリフォルニア州のビジネス・パートナーシップとして登録した[31][32]。アタリで製図工として働いていたウェインは、職場で出会ったジョブズと意気投合し、10パーセントの株式を持つという条件でジョブズに誘われ、Appleの創業に参画した[24]。ウェインは4年前に自身の事業の失敗経験があり、慎重であった。設立から2週間も経たぬ1976年4月12日に、ウェインはAppleを離れ、その10%の持分をジョブズとウォズニアックに800ドルで売却した[33][34]。ジョブズとウォズニアックはそれぞれ45パーセントの株式を所持することとなり、2人の意見が対立した場合には、残りの株式を持つウェインがどちらかの側に付き、膠着状態を打開することが期待されていた[24]。ウェインはApple Iの取扱説明書を作成したほか、リンゴの木に寄り掛かるアイザック・ニュートンを描いたApple初のロゴマークをデザインした[32][24]

ジョブズは「Apple Computer」という社名の由来について、当時果実食主義を実践していたことに加え、リンゴ農園から帰ってきたばかりだったこともあってこの名前を思いつき、その響きが「楽しげで、元気がよく、威圧感もない」と考え、その上「電話帳で(自身が退職した)アタリより上に来る名前でもあった」ので採用にしたのだと説明している[35][36]。一方のウォズニアックは、この社名はジョブズが不意に提案してきたもので真意は不明だとした上で、「彼は音楽好きであったので、アップル・レコードビートルズのレコードレーベル)から思いついたのかもしれない」と語っている[35][24]

ジョブズはより多くのプリント配線板を売るために個人以外の販路を求め、HCCの会合に顔を出したコンピュータ小売店「バイトショップ(Byte Shop)」の経営者のポール・テレル英語版にApple Iのデモンストレーションを見せた[37]。興味を持ったテレルはジョブズに名刺を渡して去ったが、その翌日にジョブズはマウンテンビューのバイトショップ店舗に突然押しかけ、テレルにApple Iを売り込んだ[38]。説得されたテレルはその場でApple Iを50台注文し、納品時に1台につき500ドル(合計では2万5,000ドル)を現金で支払うと約束したが、テレルはジョブズが売ろうとしていたプリント配線板には興味がなく、「組み立て済みの完成品」を納入するよう要求した[38][39]

手持ちの資金ではそれだけ多くのコンピュータを組み立てるためのパーツは購入できなかったが、ジョブズは不審に思うパーツ業者にテレルとの取引が存在することを電話で確認させ、30日間の支払猶予つきでパーツを購入することに成功した[40]。その後ロスアルトスのジョブズの実家では懸命な組み立て作業が行われた[41][42]。29日後、ジョブズらは50台のApple Iを完成させてバイトショップに納入し、テレルから受け取った代金を使って期限内にパーツ業者への支払いを完了した[43]。ジョブズらが納品した50台のApple Ⅰは、各種部品がプリント配線板にハンダ付けされたむきだしの基板(マザーボード)の状態であり、筐体やモニタ、キーボードなどを持つコンピュータを「完成品」として想定していたテレルは現物を見て少しうろたえたが、それでも約束の代金2万5,000ドルを支払った[40][28]

Apple Iは1976年7月から希望小売価格666.66ドルで発売され、最終的に合計で200台余りが製造された[44][43]。創業者の1人であったウェインは、自分の会社を4年前に破産させていたこともあり、ジョブズのリスクを厭わない経営方針に大きな不安を抱いた[39]。創業から2週間も経っていない1976年4月12日、ウェインは800ドルを受け取って所有する10パーセントの株式を自主放棄し、Appleを去った[39]

法人化・Apple IIの成功

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1979年6月に発売されたApple II Plus、主にウォズニアックが設計
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Disk IIもウォズニアックが設計
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Apple Computerの最初の本社オフィス、クパチーノ(2025年撮影)

バイトショップとの取引により約8,000ドルの利益を得たジョブズはさらなる事業拡大を望み、そのためには多額の融資が必要となった[28]。ジョブズはアタリ時代の上司であるノーラン・ブッシュネルの勧めにしたがい、セコイア・キャピタルの創業者のドン・バレンタインに会って融資を求めたが、バレンタインはAppleへの投資に興味を持たず、代わりにフェアチャイルドセミコンダクター時代の元部下で、個人投資家として財を成していたマイク・マークラを紹介した[45]

若くして引退生活を送っていたマークラは、ジョブズの野心とウォズニアックの技術的才能に心を動かされ、1976年11月に引退から復帰してAppleに加わった[46]。マークラは自分の個人的資産から9万2,000ドルをAppleに投資したほか、バンク・オブ・アメリカから25万ドルの信用供与を確保した[46]。マークラは事業に参加する条件として、当時まだHPの社員だったウォズニアックが今後Appleでの仕事に専念することを要求したため、ウォズニアックはHPを辞めざるを得なかった[47]

マークラの助けを得たAppleは1977年1月3日に法人化され、「Apple Computer, Inc.」となった[46]。マークラは会社の成長には経験豊富な経営者が不可欠であると考え、フェアチャイルドセミコンダクター時代の元同僚で、当時はナショナル セミコンダクターの製造部門を率いていたマイケル・スコット英語版を引き抜き、Appleの初代社長兼CEOに任命した[48][49]。スコットは1977年2月からAppleでの仕事を始め、すぐにAppleを組織的にするための施策として、新たに社員番号を入れた社員証を発行した[49]。スコットはその功績を認めてウォズニアックに社員番号1を与えたが、ジョブズは「1」が自分に与えられなかったことに不満を感じ、再考するようスコットに抗議した[49]。しかし、スコットも譲らなかったため、最終的にジョブズは社員番号0を与えてもらうことで妥協した[49][注 1]

Apple Iの後継機種である「Apple II」は、1977年4月16日から17日に開催された第1回「ウェスト・コースト・コンピュータ・フェア」で初めて発表され、6月10日に希望小売価格1,298ドルで発売された[50][51]。ウォズニアックはApple Iの発売以前から新型コンピュータの開発作業を始めており、1976年8月にはすでにApple IIの実動するプロトタイプを完成させていた[45][52]。むき出しの基板(マザーボード)として販売されたApple Iとは大きく異なり、Apple IIは基板やキーボード、電源装置などが一体化された筐体であり、テレビ等の外部ディスプレイを接続すればすぐにコンピュータとして使用することができたほか、ディスプレイにカラー表示することが可能なのも大きな特長だった[53][51]。1977年5月号の『バイト』において、ウォズニアックはApple IIの設計について「私にとってパーソナルコンピュータとは、小型で、信頼性があり、使いやすく、しかも安価であるべきだ」と述べた[54]

ウォズニアックはApple Iの発売以前から新型コンピュータの開発作業を始めており、1976年8月にはすでにApple IIの実動するプロトタイプを完成させていた[45][52]。コンピュータ内部の主な違いは完全に再設計されたテレビインターフェースで、表示内容をメモリに保持する仕組みであった。単なる文字表示にとどまらず、Apple IIはグラフィックス、さらにはカラー表示を備えていた。開発過程でジョブズは、ケース一体型のキーボードを持つデザイン性の高いプラスチック筐体を強く求め、箱から出してすぐに使える完成品とする発想を持っていた[55]。これはほぼApple Iでも実現されかけていたが、当時はまだ各部品を接続し、BASICを動かすためのコードを入力する必要があった。ジョブズはApple IIのケースを「シンプルでエレガント」にすることを望み、工業デザイナーのジェリー・マノックを雇って筐体デザインを任せた[55]。Appleの5人目の社員のRod Holtスイッチング電源を開発した[56]

初期のApple IIのモデルは記憶装置として一般的なカセットテープを使用していたが、1978年7月にウォズニアックが設計した495ドルの高性能な専用外付けフロッピーディスクドライブ「Disk II英語版」が登場し、本体の売り上げに大きく貢献した[57]。そして1979年10月にApple II専用として発売された表計算ソフトVisiCalc」が大ヒットを記録すると、商用・企業用コンピュータとしてのApple IIの需要に火がつき、その販売台数は飛躍的に増加した[57][58]。1977年に2500台だったApple IIの販売台数は、1981年には21万台にまで急増していた[59]。マイクロコンピュータ市場におけるApple製品のシェアは1978年には10%だったが、1980年には27%となり、タンディコモドールを上回って業界トップに躍り出た[60]

1979年、Apple IIはビジネス界初のキラーアプリケーションとなったVisiCalcのデスクトッププラットフォームに選ばれた[57]。その重要性はあまりにも大きく、Apple IIはジョン・マルコフによって「VisiCalcのアクセサリ」と評されるほどであった[61]。このアプリケーションは予想外にもコンピュータにビジネス市場を生み出し、ウォズニアックは後に「Apple IIの購入者の9割は小規模事業者であり、当初自分とジョブズが想定していたホビイストではなかった」と語っている[62]。これにより家庭ユーザーにも「オフィスとの互換性」という購入理由が生まれた[57]。VisiCalcの登場以前、Appleはコモドールやタンディに大きく後れを取った3番手の競合であった[63][64]

Apple IIは、家庭用コンピュータ市場を生み出したと広く評価されている「1977年のトリニティ」の3機種のひとつであった(他の2機種はコモドールPETとタンディのTRS-80[65]。その後もApple IIeApple IIGSなど様々なモデルが製造され、一般利用は約20年続いた[66]。Apple IIシリーズは1993年に製造終了となるまでに累計約600万台を販売した[67][68]

Apple IIIの失敗

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1980年に発売されたApple IIIApple Monitor III

VisiCalcによってApple IIがすでにビジネス用途に成功したプラットフォームとして確立していたにもかかわらず、Appleの経営陣は満足していなかった。「Apple III」は、ビジネス環境に対応しIBMに商用コンピュータ市場で挑戦を仕掛けたが、4,340ドルから7,800ドルという価格設定の高さと、対応ソフトウェアの不足、そしてハードウェアの設計上の欠陥がわざわいし、Apple IIIは極度の販売不振に陥った[69]。Apple IIIの開発は1978年末にウェンデル・サンダーの指揮のもと始まり[70]、その後ジョブズが率いる委員会によって進められた[71]。Apple IIIは1980年5月19日に発表され、小売価格は4,340ドルから7,800ドルで、同年11月に発売された[71]。IBMに商用コンピュータ市場で挑戦を仕掛けたが、価格設定の高さと、対応ソフトウェアの不足、そしてハードウェアの設計上の欠陥がわざわいし、Apple IIIは極度の販売不振に陥った[69]

Apple IIIは当時としては保守的な設計であったが、ジョブズは電子機器が発する熱を通常の冷却ファンではなく、本体の筐体で放散させることを望んだ。筐体は部品を十分に冷却できず、Apple IIIは過熱しやすく、集積回路チップがマザーボードから外れる欠陥が生じた。Appleのカスタマーサービスに連絡した顧客には、本体を空中に持ち上げて手を離し、回路が元の位置に戻るように指示された。1983年に問題を改善するため新モデルが導入されたが、すでに悪評は広まっていた。初期に出荷されたApple IIIのほとんどが欠陥品としてリコールされ、Appleは14,000台余りのApple IIIを無料で交換することを強いられた[69]。1984年に生産終了するまでのApple IIIの累計販売台数は約12万台に過ぎなかったが、Apple IIは同じ期間に約200万台を売り上げていた[72]。ウォズニアックは、技術者ではなくマーケティング部門の意向に基づいて設計されたことがApple IIIの敗因であったと分析している[73]

Appleの株式公開

1980年7月号の『Kilobaud Microcomputing』で、発行人のウェイン・グリーンは「これまで見た中で最も優れた消費者向け広告はAppleのものだ。人々の注目を集め、購買を促しているに違いない」と述べた[74]。8月には『フィナンシャル・タイムズ』が以下のように報じた。

Apple Computerは、消費者、ビジネス、教育市場向けの小型コンピュータを製造する急成長中のカリフォルニアのメーカーであり、今年後半に株式公開を行う計画である。同社はアメリカ最大の小型コンピュータの非公開メーカーである。約5年前に小さな作業場ビジネスとして創業したが、現在ではタンディ社のラジオシャック部門に次いで、小型コンピュータの製造では全米第2位のメーカーとなっている。[75]

1980年12月12日、Appleは株式シンボル「AAPL」でNASDAQに上場し、1株22ドルで460万株を売り出した(後の株式分割を考慮すると1株0.10ドル、2020年11月30日 (2020-11-30)現在[76]。これにより1億ドル以上を調達し、これは1956年のフォード・モーター以来最大の株式公開(IPO)となった[77][78][79]。この株式公開により、750万株を持つジョブズは約2億5,600万ドルの個人資産を手に入れ、ウォズニアックやマークラ、スコットらも莫大な利益を得た[80][81]。複数のベンチャーキャピタリストが株を手放し、長期にわたる巨額の資本利益を得た。取引初日の終値は29ドルに達し、ジョブズとウォズニアックも含む300人の富豪が誕生した[82][83]。このころ、ウォズニアックは自らの株1,000万ドル分を初期従業員に提供しようと提案したが、ジョブズはこれを拒否した[82]。公開初日のAppleの時価総額は17億7800万ドルであった[77][83]

1981年1月、Appleは公開会社として初の株主総会をデアンザ・カレッジフリント・センター(交響楽公演にも使用される大ホール)で開催した。株式公開後に株主数が急増したためであり、投票手続きは15分以内で完了するよう計画されていた。通常、委任状投票は事前に郵送され数日から数か月前に集計されるが、この場合は株式公開の直後で、多くの株が新しい株主の手に渡っていた。ジョブズは用意したスピーチを始めたが、投票で何度も中断されると原稿を棄て、裏切り、敬意の欠如などについて感情を込めて長く語った[84]。投票の結果は予想外であり、若いプログラマーのRandy Wiggintonが、大株主による累積投票制の活用によって十分な票を得て、Appleの取締役会に選出された。

IBM PCとの競合

IBMは1981年8月12日に「IBM PC」を発表してパーソナルコンピュータ(PC)市場へ参入し、AppleとIBMの競争は本格化した[85]。しかしIBM PCの販売は好調であり、初年度だけで5万台を売り上げ、2年後には売上高でApple製PCを追い抜いた[85]。1983年度のデータによれば、この年にAppleの市場シェアが20%から21%に微増するにとどまったのに対し、IBMの市場シェアは18%から26%に伸びていた[85]

1981年8月までにAppleはマイクロコンピュータ企業の上位3社に入り、ラジオシャックを抜いて首位に立った可能性があった[86]。その年上半期の収益はすでに1980年の1億1800万ドルを超えており、『InfoWorld』は生産能力不足が成長を制約していると報じた[87]VisiCalcの存在により、Apple IIの購入者の9割は企業であり[88][62]、大口顧客は特にAppleを支持した。

その月、IBMはIBM PCを投入してパーソナルコンピュータ市場に参入した[89][90]。これは、IBMのロゴのない製品が顧客の机に置かれることを避けるためでもあった[91]。しかしAppleには多くの優位性があった。IBMが1機種のマイクロコンピュータとわずかなハードウェア・ソフトウェア、数百の販売店から始めたのに対し、Appleはアメリカ国内に5倍の販売店と確立された国際流通網を持っていた。Apple IIは25万台以上の既存顧客基盤を誇り、数百の独立系開発者がソフトウェアや周辺機器を供給。少なくとも10種のデータベースと10種のワードプロセッサが利用可能だったのに対し、IBM PCにはデータベースがなくワードプロセッサも1種しかなかった[92]

Appleの顧客は献身と忠誠心で知られるようになった。1984年『バイト』誌はこう述べている[93]

世の中には2種類の人がいる。Appleは単なる企業ではなく大義だと言う者と、Appleは大義ではなく単なる企業だと言う者である。両者とも正しい。Appleに関しては矛盾律は無効にされている。 Appleは単なる企業以上の存在だ。その創業には神話的要素がある…。Appleはガレージの2人の男が、大企業にのみ許されてきたコンピュータパワーを、普通の予算を持つ普通の個人に届ける使命を担ったところから始まった。同社が2人から10億ドル規模の企業に成長したこと自体がアメリカン・ドリームの体現である。大企業となった今もなお、AppleはIBMというゴリアテに立ち向かうダビデであり、その神話において共感的な役割を果たしている。

同誌はまた、この忠誠心が必ずしもAppleにとって有益ではないと指摘した。顧客は製品の欠点を容認しつつ、競合他社よりも高い基準をAppleに要求した[93]。Apple IIIは販売代理店の間で「Appleの傲慢さ」と評された専制的な評判の例である[94][95]。AppleはPCを実際に調べても感銘を受けなかったため、Appleは経済紙のウォール・ストリート・ジャーナルに今日では有名になった「Welcome, IBM. Seriously(ようこそ、IBM)」と題する全面広告を出してIBMを「歓迎」して見せるなど、当初はIBM PCが大きな脅威になるとは認識していなかった[85][96][97][90]。同社はApple IIIを3年間優先し、マーケティングと研究開発にウォズニアックの推定で1億ドルを費やす一方で、IIを改良せずPCと競争させなかった。これはIIIの販売を守るためであった[62]

IBMの発表当日、マイクロソフトの責任者であったビル・ゲイツはAppleの本社にいたが、後に「彼らは気にしていないように見えた。何が起きたのか理解するのに丸1年かかった」と語っている[90]。PCはAppleの競合製品であるIIIの販売をほぼ完全に終わらせたが、IIは依然としてよく売れ、1978年から1982年にアメリカで700万台が販売され、同国最大のコンピュータメーカーであり続けた[98]。だが1983年までにPCはApple IIを抜き、最も売れたパーソナルコンピュータとなった[99]。IBMはAppleの優良ディーラーを多く引き抜き、彼らが嫌っていた割引のグレーマーケットを避けた[91]。小売チェーンの経営者は「IBMはなぜApple IIが成功したのかをApple自身よりもよく理解していたようだ」と述べた[94]ジーン・アムダールはAppleもIBMが打ち負かしてきた「生意気な新興企業」の一つになるだろうと予測した[100]

1984年までに報道は両社を宿敵と呼ぶようになった[101]。だがIBMのパソコン事業の年間収益は40億ドルに達し、これはAppleの2倍以上で、かつ同社と次の3社の売上を合わせた規模に匹敵した[102]。『フォーチュン』の調査によると、パソコンを導入しているアメリカ企業の56%はIBM製を使用しており、Appleは16%にとどまった[103]。小規模事業者、教育機関、一部の家庭がIIの主要市場となった[88]

ゼロックスPARC見学・Lisa

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1983年に発売されたLisa

1979年の夏、ゼロックスにAppleの株式10万株をIPO前に売却することの交換条件として、ジョブズはゼロックスのパロアルト研究所(PARC)を見学する権利を得た[104][73]。ジョブズは、Appleの同僚とともに1979年11月と12月にPARCを2度訪問し[105][106][107][108]、12月にPARCを訪れたApple関係者の一団(ジョブズを含む)は、そこで目にしたマウスによって操作される先進的なグラフィカルユーザインタフェース(GUI)に強い印象を受けた[104][73]

ジョブズはAppleで1978年ごろから開発されていたビジネス向けPC「Lisa(リサ)」に、PARCで目にしたようなGUIを実装することを決意し、1980年初頭からLisaプロジェクトのトップに立って開発を主導し始めた[109]。しかし、Lisaの開発はジョブズの過剰な技術的要求によって混迷することとなり、社長スコットの判断でジョブズは1980年9月にLisaの開発チームから外された[110][111][112]

その後、ジョブズとの対立を深めたスコットはマークラからの支持も失って社長兼CEOを辞任することとなり、1981年3月からは暫定的にマークラがスコットの後を継いだ[113]。スコットは、当時のAppleを暗に批判する手紙を残して1981年7月に会社を去った[114][113]。スコットに代わる経営者として、ジョブズはペプシコーラからジョン・スカリーを引き抜いたが、スカリーを説得する際にジョブズが用いた「このまま一生、砂糖水を売り続ける気なのか?世界を変えるチャンスに賭けてみる気はないのか?」というフレーズは有名になった[115]。スカリーは1983年4月からAppleのCEOとして働き始めた[115]

1983年1月にようやく発売されたLisaは、GUIやマウスなど多くの革新的機能を備えていたが[116][117]、価格は9,995ドルと極端に高く、またソフトウェア互換性の欠如がビジネスユーザーを遠ざける結果となり、販売は低迷した[117]。Lisaの開発には1億5000万ドル以上が費やされたと伝えられるが、販売されたのはわずか1万台であり、Appleに多額の損失をもたらした[116]

Macintoshの発表・1984

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1984年に発売されたMacintosh 128K

Macintoshのプロジェクトは1979年9月に、Appleの初期社員でコンピュータ科学者であるジェフ・ラスキンによって始められた[118][119]Macintoshという名称はラスキンのお気に入りのリンゴの品種に由来し、もともと低価格のポータブルコンピュータとして構想されていた[120][121]。1981年1月、Lisaのプロジェクトから外されたスティーブ・ジョブズがチームに加わると、プロジェクトは新局面へと進む[122][123]。ジョブズは「海軍に入るよりも、海賊であれ」などと説いて開発チームの連帯感と反骨精神を煽り、プロジェクトを強力に主導した[124][125][注 2]。ジョブズは間もなくラスキンから主導権を奪い、MacintoshをLisaに似た高性能デスクトップ型へ再定義し、マウス操作によるGUIMotorola 68000マイクロプロセッサを搭載させるよう設計した[126]。ラスキンとともに共同創業者のウォズニアックも初期の設計に関わったが、飛行機事故により休職中で、これがジョブズに主導権が渡った一因であった[127][128]

1984年には、多くのコンピュータ販売業者がIBMの影響に対抗できる唯一の明確な選択肢としてAppleを見ていた[129]。PCへの依存を減らすため積極的にApple製品を販売する業者もいた[91]。同社は1983年10月にMacintosh 128Kを報道陣に発表し、12月には雑誌に18ページのパンフレットを同梱した[130]。アメリカで一度だけ放送された150万ドル(2023年時点の$4,400,000と同等)のテレビCM1984』がMacintoshの発表には大きな注目が集まった[131][132]。これはリドリー・スコットが監督し、1984年1月22日に行われた第18回スーパーボウル第3クォーターで放送された[133]。この広告は「画期的な出来事」と評され[134]、また「傑作」とも言われている[135]。広告は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の強制的な同一化が支配するディストピアを暗示した。映像ではヒロインがMacintoshを象徴し人類を救う存在として描かれ[136]、最後は「On January 24th, Apple Computer will introduce Macintosh. And you'll see why 1984 won't be like 1984.(1月24日、Apple ComputerがMacintoshを発表する。そして、なぜ1984があの1984のようにはならない理由を知るだろう)」という言葉で締めくくられた[137]

1984年1月24日、Macintoshは小売価格2,495ドルで発売され[138][139]MacWriteMacPaintが同梱されGUIをアピールした。同日、ジョブズはフリント・オーディトリアムで開かれた株主総会で熱狂的な聴衆に感情的な発表を行い、Macintoshの技術者のアンディ・ハーツフェルドは「まるで蜂の巣を突いたような騒ぎだった」と振り返った[140]。Macintoshはメディアから広く称賛され当初の販売も順調であった[141][142]。しかし処理速度の遅さとソフト不足から1984年後半には急速に販売が落ち込んだ[141][142][143]

Macintoshはあまりにも革新的だったため、一部には単なる「おもちゃ」と評されることもあった。マシン全体がGUIに基づいて設計されていたため、既存のテキストモードやコマンド駆動型アプリケーションは全面的な再設計とコードの書き直しを迫られ、多くのソフトウェア開発者は対応を避けた。この結果、当初は対応ソフトが不足した。1984年4月にマイクロソフトのMultiplanMS-DOSから移植され、1985年1月にはMicrosoft Wordが登場した[144]。その見返りとして、マイクロソフトによるMacintoshの支援の約束と引き換えに、Appleは競合ソフト企業に対してソフトウェア開発キットや試作機を供与しないという協定を結んだ[145]。1985年にはロータスソフトウェアがIBM PC向けのLotus 1-2-3の成功に続いてLotus Jazzを発売したが、失敗に終わった[146]。同年、Appleは「Macintosh Office」を発表し、レミングス広告を打ったが、潜在顧客を侮辱する内容であり成功しなかった[147]

1984年11月の特別版『ニューズウィーク』において、Appleは250万ドル以上を投じ、全39ページの広告枠を買い占めた[148]。また「Macintoshを試そう」キャンペーンを行い、クレジットカードを持つ購入希望者はMacintoshを24時間持ち帰って試用し、その後販売店に返却できた。20万人が参加したが、販売店には不評で、供給不足に加えて、多くの返却品が再販不能な状態となった。このマーケティング施策により、CEOのジョン・スカリーは価格を1,995ドル(2023年時点の$5,900と同等)から2,495ドル(2023年時点の$7,300と同等)へ引き上げた[147]

ジョブズとウォズニアックの離脱

1985年初頭、MacintoshがIBM PCに勝てなかったことにより[141][142]、ジョブズとCEOのジョン・スカリーの間で権力闘争が勃発した。両者の経営方針は大きく異なり、スカリーはオープンアーキテクチャのApple IIを支持して教育・中小企業・家庭市場への販売を重視したのに対し、ジョブズはクローズドアーキテクチャのMacintoshでIBM PCの代替となることを目指した。会長としてMacintoshの部門を管轄するジョブズに対し、社長兼CEOのスカリーは統制力を欠き、Macintoshの部門とApple IIの部門は別会社のように重複した運営を行っていた[149]

1985年1月の株主総会では、売上の85%を占めていたApple IIの部門やその従業員は言及されず、これに不満を抱いたウォズニアックは別の事業を始めるためにAppleを離れていた(非常勤職員としての籍は維持)。その際、ウォズニアックはAppleがApple IIの部門を冷遇してきたことへの不満を表明し、会社が「過去5年間ずっと間違った方向に進んでいる」と述べて同年春に現職を退き、大半の株式を売却した[150][151][152]。しかしウォズニアックは円満に退社し、その後もイベントやインタビューでAppleの代表を務め、2006年時点で年間12万ドルの手当を受け取っていると推定されていた[153]。また、退社後も株主としてAppleに関与し続けた[154]

ウォズニアックは退社後、1985年にCL 9を設立し、2年後に世界初のプログラム可能な汎用リモコン「CORE」を開発した。彼は「自分の会社(Apple)に背を向けたとは感じなかった」と述べている。Appleの技術担当取締役であったウェイン・ローシングには退社を告げたが、長年の友人であるジョブズには知らせなかった。ジョブズが初めて知ったのは『ウォール・ストリート・ジャーナル』の記事だったと彼は推測している。記事ではAppleへの不満から去るのではなく、新しいリモコンの開発に胸を躍らせていると語ったが、同時にAppleへの批判も含まれてしまい、ウォズニアックは後に「偶然そうなったのだが、その後すべての本や歴史に引用されてしまった」と述べている[153]

1985年3月、スカリーはジョブズをMacintosh部門から降ろすことを決定し、4月には取締役会から全会一致の承認を得た[155]。ジョブズはこの決定に反発し、スカリーが5月末に中国に出張するのを利用して彼を解任することを画策したが、その企てはAppleのフランス法人ゼネラルマネージャーであるジャン=ルイ・ガセーにより事前に密告され、スカリーは出張をキャンセルし、翌日の重役会議でジョブズと直接対峙した[155][156]。スカリーは出席したAppleの重役一人一人に自分とジョブズのどちらを支持するのかを質問したが、全員がスカリーへの支持を表明した[155]。ジョブズはこれに従わず、逆にスカリーを失脚させようとした[157]。しかしジャン=ルイ・ガセーの情報提供でクーデター計画が発覚すると、スカリーは緊急役員会を招集し、重役陣がスカリー側についたため5月31日にジョブズは全ての業務から外され、何の実権も持たない会長職を与えられた[158][155][157]

その後も会長職にとどまったジョブズであったが経営への影響力を失い、1985年9月に辞任して複数の社員を伴い「NeXT」を設立した[159]。ジョブズは企業から退けられた反発として650万株のうち1株を残し7000万ドルで売却、続いて500万ドルでピクサーを買収した(2023年時点の$13,900,000と同等)。NeXTは未来的なデザインのコンピュータとUNIX系OSのNEXTSTEPを開発し、後にMac OS Xに発展した。商業的には高価格ゆえに成功しなかったが、ティム・バーナーズ=リーWorld Wide Webを開発する際のプラットフォームとなるなど、パソコン史において重要な概念を導入した[160]

スカリーは営業とマーケティングを一つの部門に、製品運営と開発を別部門に再編した[161][149]。当初マーケティングには苦戦したものの、Appleはアドビシステムズとの提携によりレーザープリンターAdobe PageMakerを導入してデスクトップパブリッシング(後にはコンピュータアニメーション)を普及させたことでMacintoshのブランドは成功を収め、映画、音楽、広告、出版といったアート業界の標準プラットフォームとなった。

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スカリー、スピンドラー、アメリオの時代(1985年-1997年)

要約
視点
Appleはイタリアによく似ている。非常に創造的な企業だが、その裏には常に混乱がつきまとう。

スカリーの企業経営

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Macintosh SE(1987年)

ジョン・スカリーの指導のもと、Appleは1987年5月11日に初の株式配当を実施した。1か月後の6月16日にはAppleの株の初めてとなる2対1の株式分割を行った。1988年3月から1989年1月にかけて、Appleは5件の買収を実施し、その中にはソフトウェア企業のNetwork Innovations[163]、Styleware[164]、Nashoba Systems[165]、Coral Software[166]、および衛星通信会社のOrion Network Systemsが含まれていた[167]

Apple IIはMacintoshの登場後も引き続き販売された。1984年のMacintosh発表の数ヶ月後、AppleはApple IIのコンパクトなバージョンであるApple IIcを発売し、1986年にはマウス駆動でMacに似たオペレーティング環境を持つハイブリッド製品としてApple IIGSを導入した。初代Macintoshの発売後もApple IIは長年にわたりAppleの主な収益源であり続けた[168]

Macファミリー

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1987年に発売されたMacintosh II

ジョブズとウォズニアックが去った1985年には、Appleがキヤノンと共同開発したMacintosh用レーザープリンターである「LaserWriter」と、アルダスが開発した文書作成ソフト「PageMaker」が発売され、「デスクトップ・パブリッシング(DTP)」という新たな市場が誕生した。精巧なタイポグラフィ機能を備えていたMacintoshは、DTP用コンピュータとして圧倒的な人気を博し、Appleは初期のDTP市場を事実上独占することに成功した[169]。ジョブズに代わってMacintosh部門のトップに立ったガセーは、55%の利益率という目標を意味する「55か死か(fifty-five or die)」というスローガンを掲げてMacintosh製品の値上げを実行し、1980年代後半のAppleで高価格・高利益率路線を推し進めた[170][171]。高価格で販売された「Macintosh II」などの新型モデルは高い利益率を提供し、DTP市場での人気を背景に当初は売上高にも減少は見られなかった[169]

1980年代末、Macintoshと同等の機能をはるかに低い価格で提供するPC/AT互換機用のDTPプログラムが登場すると、ガゼーの高価格路線は裏目にでることとなった。Macintoshはそれまで維持してきたDTP用途での優位性を失い、高価格路線の結果としてその他の一般ユーザーはMacintoshを敬遠していた。1989年9月にはガゼーが開発を推進したポータブルコンピュータMacintosh Portable」が発売されたが、ライバル機種と比較してかなり重いことがネックとなり販売は低迷した[172]。Appleは1989年のクリスマス・シーズンで史上初めて売上高の減少を記録することとなり、それを受けて株価は20パーセント下落した[173]。この時期にはスカリーとガゼーの関係も悪化しており、スカリーは1990年1月、COOにガゼーではなくマイケル・スピンドラーを任命した[174]。この事実上の降格処置を受けて、ガゼーは1990年9月にAppleを去った[174]。ガゼーが退社した直後の1990年10月、Appleは「Macintosh Classic」、「Macintosh LC」、「Macintosh IIsi」という3種の廉価モデルを発売し、低価格帯(ローエンド)の製品ラインナップ強化を図った[175]

1991年10月、AppleとIBMモトローラは提携関係を結び、Wintelに対抗する標準プラットフォームの創造を目的とした連合(AIM連合)を結成した[176][117]。そして1994年、この提携の成果として生まれた「PowerPC」プロセッサを搭載する「Power Macintosh」が発売された[177]

PowerBookの成功

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1991年に発売されたPowerBook

1991年10月、Appleは新型ポータブルコンピュータ「PowerBook」を発表し、現代のほぼ全てのノートパソコンの原型となるデザインを示した。失敗に終わったMacintosh Portableとは異なり、軽量なPowerBookは発売後1年で40万台以上を売り上げる大成功を収め、約10億ドルの収入をAppleにもたらした[178]。同年には大幅アップグレードされたMacintosh用オペレーティングシステム(OS)である「System 7」も発表され、インタフェースのカラー化が実現されるなど、その後のMac OSの原型となった。他方、Appleの上層部は継続的な成功を収めているApple IIシリーズについて、製造コストが高くつく上にMacintoshから売り上げを奪っていると考えていた[179][180]。1993年11月15日、Apple IIe英語版の販売が打ち切られ、16年以上続いたApple IIシリーズはAppleの製品ラインナップから消滅した[179][181]。この時期、マイクロソフトは安価なPC/AT互換機向けの環境として「Microsoft Windows 2.0」(OSはMS-DOS 3.x)を供給することで市場シェアを伸ばし続けていた[182]。1988年、Appleはマイクロソフトが自社のGUIを「Windows 2.0」に盗用したとして、Apple Computer対マイクロソフト訴訟英語版を起こした[183]。この法廷闘争は1995年2月まで約7年間続いたが、最終的にAppleの訴えは退けられた[184]

業績悪化・スカリーの退任

1980年代後半、Appleの最大の技術的ライバルはAmigaおよびAtari STプラットフォームであった。しかしIBM PCベースのコンピュータはこれら三者よりも遥かに人気があり、1990年代に入るとWindows 3.0によって同等のGUIを備え、Appleを凌駕するようになった。

AppleはPCの脅威に対抗するため、Appleは価格帯や仕様の異なる数十のMacintosh製品を展開し、幅広い顧客のニーズを満たそうと試みた[185][186]。1991年から1993年にかけ、AppleはMacintoshに3つのブランドを新設し、ハイエンドの「Macintosh Quadra」、ミッドレンジの「Macintosh Centris英語版」、ローコストの「Macintosh Performa」を加えた。しかし、これら新型機種は「業界最悪レベルの経営を行う企業」と評されたAppleによって不適切にマーケティングされていた。仕様の異なるモデルが乱立する状況は一般の消費者を混乱させることとなり、Macintoshの売り上げに悪影響を及ぼした[185][186][187]。無作為な型番の多さは消費者を混乱させ、Appleのシンプルさの評判を損ねた。シアーズCompUSAのような再販業者はこれらのMacを販売や展示も満足にできなかった。人気モデルの需要は一貫して過小評価され、逆に他のモデルは過大評価され、在庫が増加した[188]

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Apple Newton MessagePad(1993年)

スカリーはAppleにはMacintoshに代わる画期的な新製品が必要と考えており、携帯情報端末Apple Newton」の開発プロジェクトを1990年ごろから全面的にサポートした[189]。Newtonの開発やマーケティングには約5億ドルが投じられたが、1993年に実際に発売されると販売は低調であり、4年半後には生産終了となった[190]

1993年の第3四半期、Appleは過去最悪となる1億8,830万ドルの損失を計上した[117]。業績悪化が表面化する中、Newtonの失敗や政治活動への傾倒によって取締役会からの信用を失っていたスカリーは、1993年6月18日をもってCEOを退任させられ、COOを務めていたマイケル・スピンドラーが新CEOに就任した[191][192][193]。CEO退任後もスカリーは会長職にとどまったが、1993年10月にはAppleを去って他社のCEOに就任した[194]

1996年2月初旬、スピンドラーが辞任し、ギル・アメリオが後任としてAppleのCEOに就任した[195][196]。会社再建人としての評判を買われてナショナル・セミコンダクターから引き抜かれたアメリオは、CTOエレン・ハンコックを迎え、大胆なレイオフとコスト削減策を実行した[197]

1990年代半ば時点でAppleは依然として深刻な経営難にあったため、1996年2月に『フォーチュン』誌は「パーソナルコンピュータを発明した会社は消滅の可能性が高い」と報じている。雑誌の読者が号を手にするころには同社はサン・マイクロシステムズPhilips Electronicsに買収されているかもしれないと指摘し、10年前に投資した1000ドルはAppleの株で2900ドル、Compaq株で22000ドルに増えていたと述べた[162]

スケールの不足を理解していたAppleは10年にわたりより大きいパートナーを探していた。DECのパーソナルコンピュータ事業を管理する契約をほぼ締結しそうになったこともある[162]。IBMによる買収提案は拒否したが後に別のオファーを模索するも不成功に終わった[198]。ある時点ではサンに買収される寸前であった[188][199]。サンが会社を買収しようとしたのは数回に及んだ。マルクーラはSun合併交渉の間に「1986年からDEC、Kodakソニー、サン、Compaq、IBMなどと本格的な交渉を続けてきた。技術交換や会社合併に至るあらゆる話し合いがあった」と述べている[162]

新OS開発の失敗とNeXT買収・ジョブズの復帰

90年代にはAppleとIBMが協力して新OS「Taligent」を開発する「プロジェクトPink」があったが、社内対立のためAppleは脱退し、IBMが完成させた。AppleはSystem 7の置き換えを目指す「Copland」プロジェクトを開始したが、機能過剰と開発難航により頓挫した[200]。Coplandが頓挫し、Appleは他社のOS買収に踏み切った。候補にサンSolarisWindows NTが挙がり、ハンコックはSolaris支持、アメリオはWindows支持であった。アメリオはビル・ゲイツに連絡を取り、マイクロソフトの技術者がNTへのQuickDraw移植を約束した[201]

TaligentCoplandといった次世代OSの開発に失敗したAppleは、ハンコックによる精査で最終的にはOSを外部から調達する決定を行い、ジョブズが立ち上げたNeXTを1997年に買収することで同社の「NeXTSTEP」を獲得し、その結果ジョブズはAppleに復帰した[202]。アナリストのベン・トンプソン英語版によれば、ジョブズが復帰した時点でAppleは倒産寸前の状況であったであったという[203]

1996年、経営難に陥っていたNeXTはAppleに対し同年、Be Inc.のBeOSよりも優先してオペレーティングシステムを販売する契約を勝ち取った[204]。1996年12月20日、AppleはNeXTおよびそのNeXTstepオペレーティングシステムを4億2900万ドルとApple株式150万株で買収すると発表した[205]

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Appleの復活(1997年-2001年)

要約
視点
もし自分がAppleを経営していたら、Macintoshから得られるものはすべて搾り取って、次の偉大な製品に取りかかるだろう。パソコン戦争は終わった。とっくの昔にマイクロソフトが勝利した。
ジョブズ、1996年2月[162]

スティーブ・ジョブズの復帰

1997年7月9日、Gil AmelioはAppleのCEOを取締役会により解任された。Fred D. Andersonは短期間取締役会長を務め、1997年7月に銀行から短期運転資金を確保した[206][207]。1997年8月にジョブズは暫定CEOに就き、会社の製品ラインの重要な再構築を開始した[5]。彼はやがて正式なCEOとなり、2000年1月から2011年8月までこの職を務めた[6]。2011年8月24日、長期にわたる膵臓癌との闘病の末、ジョブズはCEOの職を辞任し、同年10月5日に死去した[208]

1997年11月10日、AppleはNeXTの買収で得たWebObjectsアプリケーションサーバーを基盤としたApple Storeのオンライン直販店を開設した。この新しい販売チャネルは新たな受注生産方式と連動していた[209][210]

マイクロソフトとの提携

1997年のMacworld Expoにて、ジョブズはAppleがマイクロソフトとの提携を開始すると発表した。主な条件には、マイクロソフトがMacintosh向けのMicrosoft Officeを5年間提供し続けることと、マイクロソフトによるAppleへの1億5000万ドルの投資が含まれていた。WindowsによるAppleの特許侵害に関する長年の紛争も解決され[211]Internet ExplorerはMacintoshのデフォルトブラウザとして提供され、利用者は好みに応じて変更可能であった。マイクロソフトの会長のビル・ゲイツは画面上に登場しMac用ソフトウェア開発計画を説明し、Apple復活への支援に期待を示した。ジョブズは聴衆に次のように述べた。

私たちが前進し、Appleが再び健全になり成功するためには、いくつかのことを手放す必要があります。「Appleが勝つためにはマイクロソフトが負けなければならない」という考えを捨てなければなりません。「Appleが勝つためには、Appleが本当に良い仕事をする必要がある」という考えを受け入れるべきです。他者が私たちを助けてくれるならそれは素晴らしいことです。なぜなら、私たちにはできる限りの支援が必要だからです。そして、もし私たちが失敗して良い仕事ができなかったとすれば、それはほかの誰かのせいではなく、私たちの責任です。これは非常に重要な視点だと思います。もし私たちがMacにMicrosoft Officeを望むなら、それを提供している会社に対して多少は感謝の気持ちを持つべきでしょう。Appleとマイクロソフトを競争相手として設定する時代は、私の考えではもう終わりました。これはAppleを健全にすること、Appleが業界に非常に素晴らしい貢献をできるようになり、再び健全になり成功することについての問題なのです[212]

発表の前日、Appleの時価総額は24.6億ドルで[213]、前の四半期末の四半期収益は17億ドル、現金準備高は12億ドルであり、1億5000万ドルの投資額は主に象徴的な意味合いを持っていた。AppleのCFOであるフレッド・アンダーソンは、この追加資金を教育市場やクリエイティブコンテンツの主要市場への投資に充てる予定であると述べた[211]

発表前日のAppleの時価総額は24億6000万ドルで[213]、前四半期の収益は17億ドル、現金準備高は12億ドルであったため[214]、1億5000万ドルの投資額は象徴的な意味合いが強かった。AppleのCFOフレッド・アンダーソンは、この追加資金を教育とクリエイティブコンテンツというAppleの主要市場に投資する意向を示した[211]

iMac、iBook、Power Mac G4

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1998年発売の初代iMaciMac G3

Appleがオペレーティングシステムのサードパーティー製造者へのライセンス提供を終了する中、暫定CEOとなったジョブズの最初の行動の一つはiMacの開発であった。これによりAppleは再編を進める時間を稼いだ。初代iMacはCRTディスプレイとCPUを一体化し、流線型の半透明プラスチック筐体を持っていた。シリーズは年間約100万台を販売する大ヒットとなり、Appleをメディアや一般に再び紹介し、製品のデザインと美学に重きを置く新たな方針を広く伝えた。

1999年、Appleはモトローラ製PowerPC 7400を採用したPower Mac G4を発表した。このCPUはAltiVecとして知られる128ビット命令ユニットを備えるフラッグシップのプロセッサであった。同年、Appleは初の消費者向けノートパソコンであるiBookを発表した。これはAirPortカードによりオプションでWireless LANをサポートした初のMacintoshであった。802.11b規格に基づき、ネットワーク接続のためのワイヤレスLAN技術の普及に貢献した。

Mac OS X

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カリフォルニア州クパチーノの本社

2001年、AppleはNeXTのNeXTSTEPを基にし、FreeBSDのカーネルの一部を組み込んだMac OS Xを導入した[215] 。一般ユーザーとプロ向けの両面を意識したMac OS Xは、Unixの安定性、信頼性、セキュリティを、完全に一新されたユーザーインターフェースの使いやすさと融合させた。ユーザーが移行しやすいように、新しいオペレーションシステムはClassic環境を通じてMac OS 9のアプリケーションの使用を許可した。AppleのCarbon APIは、Mac OS 9ソフトウェアをMac OS Xの機能に対応させるための開発者支援を行った。

小売店

2001年5月、数々の憶測の末、Appleは全米主要コンピュータ需要市場に数店舗のApple直営店を開設すると発表した。この店舗展開は主に2つの目的で設計された。1つはAppleの低迷していたコンピュータ市場シェアを食い止めることであり、もう1つはサードパーティーの小売店舗におけるApple製品のマーケティングの不十分さに対応するためであった。

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iPod、iTunes Store、Intelへの移行(2001年-2007年)

要約
視点

iPod

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初代iPod(2001年)
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ドイツ語UI設定のiPod Mini

2001年10月、Appleは初のポータブルデジタルオーディオプレーヤーiPodを発表した。当初のiPodは5ギガバイトの容量で約1000曲を保存可能であった。その後、iPod Mini(販売終了)、iPod Touch(販売終了)、iPod Shuffle(販売終了)、iPod Classic(販売終了)、iPod Nano(販売終了)、およびiPhoneiPadへと製品群が拡大した。2011年3月以降、iPodの最大ストレージ容量は160ギガバイトである[216]。2005年6月6日、ジョブズはソフトウェア開発者に対して、Appleのポータブル音楽機器市場におけるシェアは76%に達していると語った[217]

iPodはAppleの財務に大きな貢献をもたらした[218]。2005年3月26日に終了した四半期では、Appleは売上32億4000万ドルに対して純利益2億9000万ドル(1株あたり34セント)を計上している。前年の同四半期の純利益は4600万ドル(1株6セント)、売上は19億1000万ドルにとどまっていた。

プラスチックカラーとPowerPC G3からの脱却

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iMac G4(2002年)

2002年初頭、AppleはG4プロセッサとLCDディスプレイを用いた完全に再設計されたiMacを発表した。新しいiMac G4は、白い半球型のベースと、回転可能なクローム製のネックに支えられたフラットパネルのデジタルディスプレイを備えていた。処理速度やスクリーンサイズが15インチから17インチ、20インチへと何度かアップグレードされ、iMac G4は2004年の夏に廃止され、iMac G5に置き換えられた。

2002年後半、AppleはXserveの1Uラックマウント型サーバーを発売した。最初は2つのG4チップを搭載し、Appleにとって珍しい企業向け市場への本格的な参入を意味したほか、競合他社の類似機種よりも安価であった。これは従来のラックマウントサーバーで使われるSCSIではなく、Fast ATAドライブを採用したためである。Appleはその後、競合システムより安価な14ドライブRAIDXserve RAIDも発売した。

2003年中ごろ、ジョブズはIBMG5プロセッサ搭載のPower Mac G5を発表した。オールメタルの陽極酸化アルミニウム筐体は、Appleがコンピュータのカラフルなプラスチックからの脱却を完了したことを示している。Appleはこれが一般向けに販売された初の64ビットコンピュータであると主張した。Power Mac G5はバージニア工科大学の試作スパコンSystem Xの構築に用いられた。このスパコンは当時世界で3番目に高速と考えられており、建設費用は520万ドルと、前の世界3位のスパコンやその他の上位機種に比べて格段に安価であった。AppleのXserveもG5搭載にアップデートされている。これらのXserveはPower Mac G5マシンの代わりにバージニア工科大のSystem Xの主要構成要素となり、2004年11月には世界第7位のスパコンに位置付けられた[219]

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iMac G5(2004年)

2004年8月31日、G5プロセッサ搭載の新しいiMacが発表され、9月中頃に発売された。このモデルではベースが廃止され、CPUなどのコンピュータハードウェアは平らなパネルの背面に配置され、アルミ製の流線型の脚で支えられた。この新しいiMac G5は「世界最薄のデスクトップコンピュータ」と称され、厚みは約2インチ(約5センチメートル)であった[220][221]

2004年、Appleは十分な財政基盤を確立した後、新しいサプライヤーからの部品の実験を開始した。Appleは迅速に新たなデザインを市場に送り出すことが可能となり、「iPod Video」や「iPod Classic」、そして最終的には「iPod touch」と「iPhone」を発売した。2005年4月29日、AppleはMac OS X v10.4 「Tiger」をリリースした。

Appleの成功したPowerBookiBookはモトローラからスピンオフしたFreescale Semiconductorの旧世代G4アーキテクチャを利用していた。IBMのエンジニアはPowerPC G5プロセッサの消費電力削減と冷却性能向上を一定程度成功させたが、iBookやPowerBookの形態で使えるほどではなかった。2005年10月、Appleはデュアルコアプロセッサ搭載のPower Mac G5 Dualをリリースした。Power Mac G5 Quadは2つのデュアルコアプロセッサを搭載する。Power Mac G5 Dualのコアはそれぞれ2.0GHzまたは2.3GHzで動作し、Power Mac G5 Quadのコアはそれぞれ2.5GHzで動作する。これら全モデルにグラフィックスプロセッサが搭載されており、256ビットのメモリ帯域を持つ[222]

小売店の拡大

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東京都中央区銀座地区にあるApple Store

当初、Apple Storeはアメリカ国内にのみ存在したが、2003年末に初めて国外に進出し、東京銀座地区に店舗を開設した。続いて2004年8月に大阪店がオープンし、2005年には名古屋、東京の渋谷地区、福岡仙台にも店舗が開設された。2006年には札幌店がオープンした。Appleのヨーロッパ初店舗は2004年11月にロンドンリージェント・ストリートに開設された。2005年4月にはバーミンガムのブルリングショッピングセンター、同年7月にはイギリスケント州ダートフォードブルーウォーターショッピングセンターにも店舗が開設された。カナダ初の店舗は2005年中ごろにトロントのヨークデール・ショッピングセンターに開設された。その後、イギリスのシェフィールドにメドウホール店、マンチェスターにトラフォード・センター店を開設した。ロンドン周辺においては2006年1月にブレント・クロス、2008年9月にウエストフィールド・シェパーズ・ブッシュ、2010年8月にコベント・ガーデンに店舗を開設した。コベント・ガーデン店は2015年時点で世界最大のApple Storeである[223]

Appleは2004年10月に、需要はあるが通常規模の店舗を建てるほどではない市場を対象に「小規模」店舗を展開し始めた。これらの店舗は通常店舗の半分の広さしかない。最初の店舗はカリフォルニア州パロアルトスタンフォード・ショッピング・センターに開設された。

Appleとiウェブサービス

2000年、AppleはiToolsを開始した。これは無料のウェブベースツール群で、メールアカウント、インターネットグリーティングカードであるiCards、iReviewというウェブサイト評価サービス、そして「KidSafe」という子供の不適切サイト閲覧防止ツールが含まれた。後者2つのサービスは不成功に終わり廃止された。iCardsとメールは2002年に導入されたAppleの有料サービス.Macに統合されたが、2008年半ばにサービス終了し、iPhone 3G発売に合わせてMobileMeに移行された。MobileMeは年間99ドルの料金体系で、メールや連絡先、カレンダーの「プッシュ」サービスを提供し、即時かつ自動でiPhoneに更新を送信した。MobileMeのリリースではダウンタイムや長期間のリリース遅延があり批判を浴びたため、Appleは既存MobileMe加入者に30日間の無料延長を提供した[224]。2011年6月のWWDCイベントで、AppleはiCloudを発表し、多くのMobileMeサービスは継承したが、iDisk、Gallery、iWebは廃止された。iCloudはFind my Mac、iTunes Match、Photo Stream、Documents & Data Backup、およびiOSデバイス向けのiCloudバックアップを追加し、iOS 5とOS X 10.7 Lion以降に対応した。

iTunes Store

iTunes Music Storeは2003年4月に開始され、最初の16日間で200万ダウンロードを記録した。音楽は最初Mac専用だったiTunesアプリケーションを通じて購入されたが、2003年10月にWindows対応が加わった。当初、ライセンス制限により音楽ストアはアメリカ国内のみで利用可能であった。

2004年6月、Appleはイギリス、フランスドイツでiTunes Music Storeを開設した。欧州連合向けのバージョンは2004年10月に開始されたが、アイルランドではIrish Recorded Music Association(IRMA)の抵抗により最初は利用できず、2005年1月6日に開設された。カナダ版は2004年12月に開設された。2005年5月10日にはデンマークノルウェースウェーデンスイスにも拡大した。

2004年12月16日、AppleはiTunes Music Storeで2億曲目のダウンロードをマサチューセッツ州ベルチタウンのライアン・アレクマンに販売した。ダウンロード曲はU2の『The Complete U2』であった[225]。ほぼ3か月後の2005年3月2日、3億曲目の販売を達成した[226]。2005年7月17日には5億曲目を販売[227]。その時点で曲の年間販売量が5億曲を超えるペースで加速していた。

2005年10月25日、iTunes Storeはオーストラリアでもサービスを開始し、曲は1.69豪ドル、アルバムは(一般的に)16.99豪ドル、ミュージックビデオやピクサーの短編は3.39豪ドルで販売された。抜け穴が閉じられる前の短期間、ニュージーランドのユーザーはオーストラリアのストアで購入できた。2006年2月23日、iTunes Music Storeは10億曲目の販売を達成している[228]

2006年9月12日、iTunes Music Storeはコンテンツ(テレビ番組と映画)の販売開始にあわせて「iTunes Store」に改称された。iTunesは公開以降20億曲以上を販売しており、そのうち12億曲は2006年中に売れている。テレビや映画コンテンツのダウンロードも増え、5000万エピソードのテレビ番組と130万本の映画が販売された。2010年前半、AppleはiTunes Music Storeからの10億曲ダウンロードを祝った。[229]

インテルへの移行

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インテル搭載のMacBook Pro(2006年)

2005年6月6日の基調講演で、ジョブズはAppleが2006年からインテルベースのMacintoshを製造すると発表した[230]。ジョブズは過去5年間、PowerPCとインテル両対応のmacOS版を秘密裏に製造していたことを明らかにし、インテルへの移行は2007年末までに完了すると述べた。Mac OS XがOPENSTEPに基づくもので、多くのプラットフォーム用だったことがクロスプラットフォーム対応の噂に繋がっていた。Mac OS Xのオープンソース基盤であるAppleのDarwinもIntelのx86アーキテクチャに対応していた[231][232][233]

2006年1月10日、Intel Core Duoプラットフォーム搭載のインテルベースのiMacMacBook Proが発表された[234][235]。Appleは当初の予定より1年早く、2006年末までにインテルチップへの完全移行を完了すると発表した。

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Apple、iPhone、iOS、iPad(2007年-2011年)

要約
視点

2007年1月9日、Apple Computer, Inc.はApple Inc.に社名を短縮した。Macworld Expoの基調講演で、ジョブズはiPodやApple TV、Macintoshブランドからなる現在の製品群を説明し、Appleはもはや単なるコンピュータ会社ではないと語った。同講演で、Appleがこれまでに参入したことのない産業を革命的に変える製品として、AppleのiPhoneが発表された。iPhoneはApple初のワイドスクリーンiPodと世界初のビジュアルボイスメールを備えた携帯端末を組み合わせ、当時はiPhone OSと呼ばれていた(後にiOSとなる)完全機能版のApple製ウェブブラウザSafariを動作させるインターネットコミュニケーターであった。

iOSの進化、iPhoneとiPad

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初代iPhone(2007年)

初代iPhoneは2007年6月29日に選ばれた国・地域で発売された。iPhone 3Gはそれから約12か月後の2008年7月11日に発売された。Appleは2009年6月8日にiPhone 3GSを発表し、同年6月19日にアメリカ、カナダ、主要ヨーロッパの諸国で発売、以後7月、8月に順次発売した。この12か月のモデル刷新サイクルは継続され、iPhone 4も2010年に同様の形で投入され、2011年2月にはVerizonモデル、10月にはジョブズ死去直後にSprintモデルが発売された。

2011年2月10日、iPhone 4がVerizon WirelessとAT&Tの両方で販売された。現在2種類のiPodがマルチタッチ対応となっており、それはiPod nanoiPod touchであり、大きな技術進歩である。Apple TVは第2世代モデルを提供しており、これは初代Apple TVの4分の1のサイズである。Appleはワイヤレス製品のラインナップも拡大しており、ワイヤレストラックパッド、キーボード、マウス、外付けハードドライブを販売している。なお有線アクセサリーも提供されている。

AppleのiPadは2010年1月27日に発表され、小売販売は4月に開始され、その後2010年にかけて着実に各市場で増加した。iPadはAppleのiOS製品ラインに属し、iPhoneの2倍のスクリーンサイズを持つが、電話機能は備えていない。当初は製品の食い合いを懸念する声もあったが、2011年1月に発表された2010年度の財務結果には、iPadの販売がiMacやMacBookの販売増加をもたらす逆ヘイロー効果があったとコメントが記されている[236]

マイクロソフトとの復活競争

2005年以降、Appleの収益、利益および株価は大幅に成長した。2010年5月26日、Appleの時価総額はマイクロソフトを上回った[237][238][239]。2010年第3四半期にはAppleの収益がマイクロソフトを上回った[240][241]。2011年第1四半期の利益発表で、マイクロソフトの純利益が52億ドルであったのに対し、Appleは60億ドルの純利益を計上した[242][243]。これにより20年ぶりにマイクロソフトの利益がAppleを下回ったこととなった[244]。これは『Ars Technica』が「10年前には考えられなかったこと」と表現した状況である[242]

The Guardianは、この変化の理由の1つが、マイクロソフトが主力としてきたPC向けソフトウェアの重要性が低下し、Appleが強みを持つタブレットやスマートフォン市場が重要度を増したことにあると報じた[244]。また、PCの販売台数が予想外に減少したことも一因であった[244]。さらにマイクロソフトは、2010年第1四半期に7億ドルの損失を計上したオンライン検索事業の苦戦に直面していた[244]

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再編とApple Watch(2011年-2020年)

要約
視点

2011年3月2日、Appleは第2世代のiPadであるiPad 2を発表した。4世代目のiPod TouchやiPhoneと同様に、iPad 2は前面と背面のカメラを搭載し、これらの新機能を活用した3つの新しいアプリ「Camera」、「FaceTime」、「Photo Booth」が付属している。2011年8月24日、ジョブズはCEOを辞任し、後任にはティム・クックが就任した[245]

2012年10月29日、Appleはハードウェア、ソフトウェア、サービスの連携を強化するための組織改革を発表した[246]。これに伴い、iOSの立ち上げに関わったスコット・フォーストールが退社し、iOSとOS Xチームの責任者にはクレイグ・フェデリギが任命された。ジョニー・アイブはヒューマンインターフェース(HI)部門の責任者に就任し、エディ・キューはSiriやマップを含むオンラインサービス部門の責任者に就いた。この改革の最も顕著な短期的変化は、ジョニー・アイブが指揮をとるiOS 7のリリースであり、これが従来とは大幅に異なるデザインを初めて採用したバージョンであった[247]。1年後には類似のデザインを持つOS X Yosemiteがリリースされた。

同時期に、Appleはスクリーンサイズが3.5インチを超える初めてのiPhoneであるiPhone 5を発売した[248]。4インチディスプレイのiPod Touch 5や指紋認証技術を備えたiPhone 5S、4.7インチと5.5インチサイズのiPhone 6およびiPhone 6 Plusも発売された。Retinaディスプレイの第3世代iPadは、半年後に第4世代iPadが続き、iPad Miniは第4世代iPadと同時に発表され、9.7インチ未満の画面を備えた初のiPadであった。その後、Retinaディスプレイを備えるiPad Mini 2(2013年)と9.7インチモデルの後継であるiPad Air、さらに2014年にはTouch IDを搭載したiPad Air 2が発売された。Appleはまた、多数のMacのアップデートを実施し、Retinaディスプレイ搭載のMacBook Proを発売し[249]、オリジナルのMacBookは一時的に廃止されたが2015年にRetinaディスプレイ、新しいデザイン、USB-C実装で復活し他の全てのポートは廃止された[250]Mac ProおよびiMacも性能増強と大幅な小型・薄型化が実現された。2013年11月25日、AppleはPrimeSenseを買収した[251]

2014年5月28日、Appleは人気のBeats ElectronicsおよびBeats Musicを買収した。9月9日、Appleはジョブズ退任後としては初の新製品ラインであるApple Watchを発表した[252]。Apple WatchはiPhoneのBluetoothやWi-Fiの範囲内でなければ基本機能以外使用できず、多くのアプリは音楽リモコンやApple TVコントロールとして機能し、健康管理機能も備える。Apple Watchは賛否両論の評価を受けたが、市場にある他の多くの機器と同様に明確な用途が不足していると指摘された[253]。Apple Watchは2015年4月24日に発売された[254]

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Apple Watch初代(2015年)

2015年9月9日、Appleは3D Touch搭載のiPhone 6SiPhone 6S PlusiPad Pro、第4世代のApple TVおよびiPad Miniを発表した。2016年3月21日には初代iPhone SEと小型のiPad Proを発表した。

2016年9月7日、Appleは改善されたカメラと高速なプロセッサを搭載したiPhone 7iPhone 7 Plusを発表した。10月27日、新型13インチ・15インチのMacBook Pro(Retina Touch Bar搭載)を発表した。2017年3月21日、AppleはiPad (2017)を発表し、(Product)RED仕様のiPhone 7iPhone 7 Plusも同時に発表した。

2017年6月5日、AppleはiOS 11およびmacOS、watchOS、tvOSの新バージョンを発表し、iMac、MacBook Pro、MacBookの更新版、10.5インチおよび12.9インチのiPad Pro、そしてHomePodを発表した。2017年9月12日、スティーブ・ジョブズ・シアターiPhone 8iPhone 8 Plus、顔認証とワイヤレス充電を備えたiPhone X、4K、HDR、ドルビービジョン対応のApple TV、セルラー対応のApple Watch Series 3が発表された。

2018年3月、BloombergはAppleがiPhone、iPad、Mac、Apple Watch、ARメガネ、Apple Car Projectの電気自動車向けにMicroLEDディスプレイを開発していると報じた[255][256][257]。これはカリフォルニア州サンタクララの研究開発施設「Aria」に関連していると報じられた[258][259]。2018年9月12日、Steve Jobs Theaterで、iOS 12搭載のiPhone XSiPhone XS MaxiPhone XRが発表され、顔認証機能やHDR対応のディスプレイおよびカメラ性能が向上した。Apple Watch Series 4はwatchOS 5を搭載し、新デザインと大型ディスプレイ、多数の健康関連機能を備えた。

2018年10月、『ブルームバーグ』は2015年以来、中国人民解放軍の専門部隊がSupermicroのサーバーにバックドアを可能にするチップを埋め込んでいたと報じた[260]。約30社がこのチップによりサーバーを侵害されたと報じられており、Appleもその一社に含まれている[260]。2019年9月20日、iPhone 11iPhone 11 ProiPhone 11 Pro Maxが発表された。iPhone 11 Proは3カメラ搭載の初のiPhoneである。

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5GとAppleシリコン(2020年-)

要約
視点
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MacBook Air M1 (2020年)

2020年、AppleはiPhoneの古いモデルを意図的に遅くして買い換えを促進したとして、2100万ユーロの罰金を科された。Appleは2017年にこの行為を一部認めており、iPhoneのリチウムイオン電池の劣化に対応するために性能を抑制したと説明した[261]新型コロナウイルスは中国に大きな影響を及ぼし、Appleの財務にも打撃を与えた。Appleは中国に多くを依存する投資を行っていた[262]。中国の工場が閉鎖され、Apple製品の需要が減少した[263]。しかし、Appleは回復し、同年後半には時価総額2兆ドルを達成した[264]iPhone 12iPhone 12 Pro、12 Pro Maxは5G接続に対応した初のiPhoneである[265]。AppleはIntel製チップの代わりに独自のAppleシリコンプロセッサをMac向けに使用し始めた[266][267]

2021年4月、M1搭載iPadが発売され、7色展開の新型M1搭載iMacも発売された。AppleはFind Myネットワークを利用する位置追跡デバイス、AirTagを開始した。2021年と2022年には毎年9月に4機種の新iPhoneを発表するパターンを繰り返し、2021年のiPhone 13iPhone 13 Pro、2022年のiPhone 14iPhone 14 Proのラインを展開した。iPhone 14 Proはノッチを廃止し、「ダイナミックアイランド」と呼ばれる新しい設計を採用した。2022年にはApple初のM2チップ搭載Macと、アウトドア向け高性能Apple Watch Ultraが発表された。

2021年から2022年にかけて従業員の間に前例のない労働問題が発生し、企業内および小売店スタッフの女性への扱いなどに対して問題が表面化した[268][269]。従業員は#MeToo運動に触発されたハッシュタグ運動である#AppleTooを展開し、2つのアメリカの店舗で初めて労働組合を結成した[270][271]

2022年、ロシアのウクライナ侵攻を受け、Appleはロシアでの製品販売をすべて停止した[272]。ティム・クックはプライバシー機能に注力し、それによりApp Storeの開発者収益が減少した。App Tracking Transparencyを開発し、これはFacebookに120億ドルの損失をもたらした[262]。AppleはBooks、Maps、TVなどのiOSアプリに広告を導入し、最終的には中国からの生産移管を計画すると発表した[273][274]

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展示されるApple Vision Proヘッドセット

2023年、AppleはApple Walletユーザー向けの買い物後払いサービス『Apple Pay Later』を開始。50ドルから1000ドルのローンを承認し、6週間を4回分割で無利息・手数料なしで返済可能とした[275][276]。6月には、Appleは拡張現実ヘッドセットApple Vision Proを発表した。これはVisionOSを搭載し、手の動きだけで操作が可能である[277]。アメリカでの初期価格は3500ドルであり、2024年6月までに販売数は公表されていないが、初期段階での商業的失敗とみなされている[278]

Appleは米司法省のケースで、アメリカ市民を差別的に扱っているとされた件で2500万ドルの和解金を支払った。この件ではオンラインに掲載されていない求人を作成し、紙でのみ応募できるとしながら、外国人労働者にはそれらの求人を勧誘の一環として宣伝していた[279]

2024年4月、Appleは電気自動車プロジェクトおよびマイクロLED開発に関連する施設で600人以上の従業員を解雇した[280]。これらのプロジェクトは直前2カ月間に停止されたと報じられている[281][282]

2024年6月、AppleはWWDC 2024でiOS 18macOS Sequoiaを発表した[283][284]。2020年代初頭にOpenAIChatGPTのような高度な人工知能ソフトウェアが開発され、AppleはAIのイノベーションで後れを取っていると指摘された。[285]。その一方で、同社はSiriの改良にChatGPTを取り入れるなど、製品へのAI機能導入を発表した。これらはApple Intelligenceという名称で、初採用はiPhone 15 ProのiOS 18となる予定である[286]。このプランは、ユーザーの録音済み入力をChatGPTの学習データに組み込むことに対して批判を受けている[287]。Appleはこれらの機能のためにOpenAIに支払っていないが、OpenAI製品の利用が自社に金銭的利益をもたらすと考えている[288]。この発表を受け、Appleの株価は上昇し、一時的にマイクロソフトを抜き世界で最も時価総額の高い企業となった[289]

2024年、Appleは女性社員による男女差別を訴える集団訴訟を起こされた[290]。一方、2024年の春および秋においてNLRB全米労働関係法違反でAppleを告発し、違法な従業員契約やソーシャルメディア規則、ストライキ社員の取り調べ、Janneke Parrishという労働活動家への不当解雇を指摘した[291][292][293]

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財務の歴史

要約
視点

Appleは2006年4月6日に、現金準備金の大幅増加に対応して資産管理のための子会社のBraeburn Capitalを設立した[294]

さらに見る 財務期間, 売上高(百万米ドル) ...

株式

「AAPL」はAppleがNASDAQ株式市場で取引される株式シンボルである。Appleは1980年12月12日に1株22ドルで株式公開(IPO)を行った[298]。株式は1987年6月15日、2000年6月21日、2005年2月28日に2対1の株式分割が3回行われている。Appleは1987年6月15日から1995年12月15日まで配当を行っていた。2012年3月19日、Appleは四半期ごとに1株あたり2.65ドルの配当を再開し、同時に2012年9月30日より100億ドル規模の自社株買いを開始すると発表した。株式と収益の動向を追う主なアナリストにはPiper Jaffrayのジーン・マンスターとマイケル・オルソンがいる[299]

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Appleの製品のタイムライン

Appleの製品の年表
Windows 11Windows 10Windows 8Windows 7Windows VistaTim CookWindows XPSteve JobsDebianGil AmelioNeXTMichael SpindlerMicrosoft WindowsJohn SculleyIBM PCMike MarkkulaTRS-80Michael Scott (Apple)Altair 8800iWorkiLifeiTunesFinal CutFileMaker ProClarisWorksAppleShareMacPaintMacWriteAppleWorksAirPort Time CapsuleAirPort#AirPort Extreme (802.11n)iSight CameraAirPortGeoPortApple USB ModemLocalTalkApple USB ModemApple Studio DisplayPro Display XDRApple displays#LCD displaysApple displays#LCD displaysTrinitronApple displaysApple displaysApple displaysMagic Mouse 2Magic MouseApple Mighty MouseApple Wireless MouseApple Mouse#Apple USB Mouse (M4848)Apple Adjustable KeyboardApple ScannerApple Desktop BusApple MouseApple KeyboardColor LaserWriter 12/600 PSStyleWriterLaserWriterTemplate:Apple printersSuperDriveSuperDrive#Floppy disk driveAppleCDHard Disk 20SCMacintosh External Disk DriveApple ProFileDisk IIApple TVApple Bandai PippinApple Interactive Television BoxHomePod MiniHomePodApple WatchPowerCD#AppleDesign Powered SpeakersApple QuickTakeiPod TouchiPodPowerCDiPhoneiPadNewton (platform)Mac ProApple's transition to Intel processorsPower Mac G5OS XPower Mac G4iMacPower Macintosh G3Power MacintoshPowerBookMacintosh LCMacintosh SE/30Macintosh IICompact MacintoshMac StudioiMac ProMac MiniXserveiMacApple Network ServerMacintosh XLApple LisaMacBook AirMacBook ProMacBook (2006–2012)iBookiBookApple IIe CardApple IIe#The Platinum IIeApple IIc PlusApple IIGSApple IIcApple IIIApple IIeApple IIIApple II PlusApple II (original)Apple I
このタイムラインの製品は、導入日を示しているのみであり、必ずしも製品の販売終了日を表しているわけではない。新しい製品が連続した製品ラインとして開始されるためである。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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