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日本の鉄道研究家(1923-1966) ウィキペディアから
鷹司 平通(たかつかさ としみち、1923年(大正12年)8月26日 - 1966年(昭和41年)1月27日)は、日本の鉄道研究家。日本交通公社交通博物館調査役。元交通博物館館長。五摂家の一つだった鷹司家の27代目当主。妻は昭和天皇の第三皇女・鷹司和子(孝宮和子内親王)。
東京都出身。公爵鷹司信輔・綏子の嗣子。17歳のとき、大政翼賛会の公募に応じて会歌「大政翼賛の歌」(作詞:山岡勝人)を応募し、入選する[1]。
1941年(昭和16年)に東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その後大阪理工科大学(現在の近畿大学)に進学し、卒業。
1950年(昭和25年)5月20日、東京高輪の光輪閣にて孝宮和子内親王(昭和天皇の第三皇女)と結婚。華族制廃止以後のため鷹司家は一般人の扱いであり、そのため天皇家から一般家庭への初の嫁入りとされ、民主化の象徴として話題になった。
幼時より大の鉄道好きとして知られ、交通博物館に勤務する傍ら鉄道の研究を行い、特に『鉄道物語』(サンケイ新聞出版局、1964年)は名著として知られる。鉄道友の会の世話役も務めた。
1966年(昭和41年)1月26日から行方不明になっていたが、28日に遺体が発見された(後述)。享年42。和子との間には子がなかったため、大給松平家から養子尚武(信輔の外孫)を取った。現在の鷹司家は、大給松平家からさらに鍋島氏を経て、血縁の上では少弐氏の男系子孫となっている。
大政翼賛の歌の他に、各地の小中学校の校歌も作曲している。
1966年(昭和41年)1月26日、台東区上野公園の国立美術館にて17世紀フランス名画展に出席。同日夜、銀座のバー「いさり火」に飲みに出かけ、同店の前田美智子(39歳)を渋谷区千駄ヶ谷の彼女の自宅マンション(当時の鷹司邸から徒歩圏)に送り届けてそのまま家に戻らなかったため、1月28日夕方、交通博物館が警察に捜索願を提出した。
1月28日夕方、前田美智子の自宅マンションにて、彼女と共に全裸で死去しているところを発見された。推定死亡時刻は1月27日午前1時から午前5時。同日午後6時に警察は宮内庁に連絡を取り、宮内庁の連絡から和子が平通の死去を知った。29日午前0時に宮内庁から死去が発表された。和子は取り乱すほどの大きなショックを受け、娘の身を案じた昭和天皇は入江相政侍従を鷹司邸へ直ちに派遣[2]。その後、天皇・香淳皇后をはじめ皇族や親族が相次いで弔問に訪れた。
結婚時に注目を集めたことに加え、鉄道通の実直な人物と知られていただけに、死去は世間の関心を集め、1966年1月29日付・1月30日付『ニューヨーク・タイムズ』『ザ・タイムズ』でも1面や2面で大きく報じられた。29日夕方までに警察はストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒での事故死と判断した。
日本のマスメディアでは『毎日新聞』が「鷹司平通氏が事故死」とだけ見出しに書いて報じるなど、いずれも控えめな扱いであり、毎日のデスクは2人が「素っ裸にガウン」の姿だったと認めつつ「皇室に対するエチケット」として「トップで扱うべきではない、と判断した」と述べた[3]。また、三大紙では『朝日新聞』『毎日新聞』が事故死と報じたのに対し、『読売新聞』は「変死」と報じた[3]。『週刊新潮』もまた「「事故死」を証明するものは何もない」と報じ、死因についても「問題のガスストーブを警視庁から借りてきて、テストしたんですが、不完全燃焼ということはなかった」「事故の起こった部屋の広さと換気率を計算に入れると、そう簡単にガスの不完全燃焼が生じるとは思えない」との東京ガス広報室長の発言を伝えている[3]。
父の鷹司信輔は公爵、貴族院議員、明治神宮宮司、鳥類学者。母の鷹司綏子は、公爵、貴族院議長・徳川家達の次女。
妻の鷹司和子は、第124代天皇・昭和天皇の第3皇女。養子の鷹司尚武は、伊勢神宮大宮司(尚武は松平乗武・章子夫妻の長男、章子は平通の妹であり、尚武は平通の甥にあたる)。
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