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日本の貴族・政治家 ウィキペディアから
長屋王(ながやおう/ ながやのおおきみ)は、奈良時代前期の皇親・政治家。太政大臣・高市皇子の長男。官位は正二位・左大臣。
天智天皇と天武天皇の孫(母方の祖父と父方の祖父)。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。
大宝選任令の蔭叙年齢規定によって大宝4年(704年)の初叙時の年齢を21歳として天武天皇13年(684年)誕生説が有力であったが[1]、『懐風藻』の記事にある享年54歳に基づき天武天皇5年(676年)とする説もある[2]。父は天武天皇の長男の高市皇子、母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。
また、長屋王の祖母は蘇我姪娘であり、自身の配偶者には同じく蘇我姪娘を祖母に持つ吉備内親王と、石川虫麻呂の娘の石川夫人、藤原不比等の娘の藤原長娥子がいた。つまり長屋王家は、長屋王自身や吉備内親王の即位の可能性のみならず、将来何らかの事情で皇位継承者が首皇子から他の皇統に移動した場合、蘇我系皇族腹、蘇我氏腹、藤原氏腹という考えうる3通りの選択肢を全て備えており、まさに次期皇位継承者としてふさわしく、不比等亡き後の藤原氏の恐怖と猜疑の対象となっていた[3]。長屋王一家が自死を迫られた際に葬られたのが、長娥子所生の皇子以外であったのは、藤原氏の野望を阻む対手がこれらに限られたためである[3]。なお、この問題に関して、本当に長屋王家に恐怖と猜疑を抱いていたのは、藤原氏ではなく首皇子(聖武天皇)であったとする見解もある[4]。
大宝4年(704年)無位から正四位上に直叙される。通常の二世王の蔭位は従四位下であるが、三階も高い叙位を受けていることから、天武天皇の皇孫の中でも特別に優遇されていたことがわかる。和銅2年(709年)従三位・宮内卿に叙任されて公卿に列す。和銅3年(710年)式部卿に任ぜられるが、式部卿在職時に官人の人事考第に関して、以下の施策が打ち出されている。
霊亀2年(716年)には正三位に叙せられる。霊亀3年(717年)左大臣・石上麻呂が薨去すると、翌養老2年(718年)長屋王は参議・中納言を経ずに一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣・藤原不比等に次ぐ地位を占める。正四位上と言う高位の初叙およびこの異例の昇進が実現した理由については、以下の諸説がある。
養老4年(720年)8月に藤原不比等が薨去すると、翌養老5年(721年)正月に長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は中納言としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂と参議の房前のみであったため、長屋王は知太政官事・舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す[7]。
また、長屋王政権における重要な民政策として開田策がある[14]。
この頃、律令制支配の浸透によって蝦夷や隼人では反乱が頻発していたが、長屋王は朝廷の最高責任者として機敏な対処を行い、速やかな反乱の鎮圧を実現している[16]。
長屋王政権における政策の特色として、上述のような律令制の維持を目的とした公民に対する撫育・救恤策のほかに、官人に対する統制強化・綱紀粛正策も実施されている[22]。
養老5年(721年)11月に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じる[28]。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる[29]。同年12月に元明上皇は崩御するが[30]、これにより政治が不安定化していたらしく、翌養老6年(722年)正月には多治比三宅麻呂が謀反誣告を、穂積老が天皇を名指して非難を行い、それぞれ流罪に処せられる事件が発生する[31]。この事件は評価が分かれるが、長屋王に対する不満や反感がこの事件に繋がったとする考えがある[29]。
神亀元年(724年)2月に聖武天皇の即位と同時に議政官全員に対する昇叙が行われた[注釈 1]。この結果、長屋王は正二位・左大臣に進む[32]。
間もなく聖武天皇は生母である藤原宮子(藤原不比等の娘)を尊んで「大夫人」と称する旨の勅を発する[33]。しかし、3月になって長屋王らは公式令によれば「皇太夫人」と称すべきこと、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になる旨の上奏を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上は「皇太夫人」を、口頭では「大御祖」と呼称するとの詔を出して事態を収拾した(辛巳事件)[34]。中国では、皇帝は新法の制定者で最終的な権威者で律令を超越できる(名例律18条「非常の際には律令に従わず裁断できる」とある)。これに準じて、日本でも養老律令・名例律、考課令官人犯罪条に同規定があるが、律令運用の中心は、太政官・議政官などの貴族層にあり実際は天皇も律令に拘束されると示した政治対立で、中国ではありえない[35]。この事件をきっかけとして長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が露になってゆく。
また、長屋王と吉備内親王の間の子女(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)は先の霊亀元年(715年)に皇孫として扱う詔勅が出されるなど、一定程度の皇位継承権を持つことが意識されていたらしく、聖武天皇やその後継に万一の事態が発生した場合に、長屋王家の子女が皇嗣に浮上する可能性があった。このため、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、長屋王家が目障りな存在だったと考えられる[36]。
さらに当時の朝廷には、母親が非皇族かつ病弱であった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えがあり、先の聖武天皇の即位当日に行われた議政官全員に対する昇叙も高官たちの支援を取り付けるための措置であったとみられている[32]。聖武天皇は神亀4年(727年)11月に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し[37]、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論む。なお、立太子後まもなく、大納言・多治比池守以下の諸官人が旧不比等邸に居住していた基王を訪問しているが、長屋王はこれに参加しておらず[38]、前代未聞の生後1ヶ月余りでの立太子を不満とし、反対の姿勢を明確に示した様子が窺われる[39]。結局、神亀5年(728年)9月に基王に満1歳になる前に先立たれてしまい、聖武天皇には非藤原氏系で同年に生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺した長屋王の変が発生する[36]。
神亀6年(729年)2月に漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲する。この密告の対象となる具体的な内容は、前年に夭折した基王を呪い殺したことであったものと見られる[40]。なお、『軍防令』差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたっては、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王らは首をくくって自殺した。『獄令』決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる(ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。従って、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでない。
一方で、皇位継承権の埒外である藤原長娥子と所生の諸王(安宿王ら)には全く咎めはなかった。また、変に連座して罰せられた官人は外従五位下・上毛野宿奈麻呂ら微官の7名に過ぎず、皇親勢力の大物である舎人・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、長屋王が政権を握る中で藤原四兄弟に対抗できる勢力を構築できていなかったことは明白であった[41]。また、前述の神亀4年(727年)に行われた官人に対する統制強化・綱紀粛正策が、王自身に対してのみ手厚く、その他の官人に対しては冷淡な、自己本位的・独善的な面があり、多くの官人の不満を生んだとする見方もある[42]。更に長屋王の変そのものが、長屋王と吉備内親王夫妻及びその所生の皇子の存在そのものを自身の皇位と子孫への皇位継承への脅威とみなした聖武天皇が彼らを抹殺するために引き起こした事件とする見方も存在する[4]。
長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、天平9年(737年)に天然痘により4人とも揃って病死してしまったことから、長屋王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという[注釈 2]。なお、『続日本紀』によると、翌天平10年(738年)長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人が、かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺されてしまう。『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている[43]。
後述のとおり、長屋王の邸宅跡から発掘された木簡に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があったこと、『日本霊異記』の長屋王の変に関する説話では「長屋親王」と称されていることなどから、在世時には長屋親王と称されていたとする学説もある。長屋王と吉備内親王の間の子供達が外祖母にあたる元明天皇によって二世王の待遇(元来は天武天皇の三世王)を受けていることなどから長屋王に対しても特別待遇がされていた可能性もある。通常の律令解釈によれば、親王は天皇の息子または孫に対して天皇から親王宣下を受けない限り名乗れなかったとされる。
これに対して、「長屋親王」はあくまでの長屋王家内部のみでの使用であったからこそ許された私称であり、公の場では用いることが出来ない物であったとする指摘もある。この説では、内部での使用に限って許容される私称が律令の規定に反して公の場で用いられることに対して反対する、というのが辛巳事件において「大夫人」の称号に反対した長屋王側の主張の根幹であったとしている(その裏側には天皇や藤原氏に対する国家の私物化に対する反発もあったと推測される)[48]。
昭和61年(1986年)から平成元年(1989年)にかけて、奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われ、昭和63年(1988年)には奈良時代の貴族邸宅址が大量の木簡群(長屋王家木簡)とともに発見され、長屋王邸と判明した[注釈 3][49]。
長屋王邸は平城宮の東南角に隣接する高級住宅街に位置し、二条大路に面し、南は曲水苑池の庭である平城京の左京三条二坊跡庭園と向かい合っている。約30,000m2を占めていた[注釈 4]。出土した4万点に及ぶ木簡の中から、「長屋親王」の文字が入った木簡が発見され、長屋王の邸宅であったことが判明した。また、奈良時代の貴族生活を知る貴重な遺産ともなったが、地元や研究者の反対にもかかわらず遺構の多くは建設により破壊され、奈良そごう、イトーヨーカドー奈良店として利用されていた。
しかし両店とも2017年に閉店してしまう。このことから「長屋王の呪い」とも囁かれた[50]。翌2018年4月にミ・ナーラとしてリニューアルした。現在は敷地の一角に記念碑が設けられているのみである。
※ 注記のないものは『続日本紀』による。
34 舒明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
古人大兄皇子 | 38 天智天皇 (中大兄皇子) | 間人皇女(孝徳天皇后) | 40 天武天皇 (大海人皇子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭姫王 (天智天皇后) | 41 持統天皇 (天武天皇后) | 43 元明天皇 (草壁皇子妃) | 39 弘文天皇 (大友皇子) | 志貴皇子 | 高市皇子 | 草壁皇子 | 大津皇子 | 忍壁皇子 | 長皇子 | 舎人親王 | 新田部親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛野王 | 49 光仁天皇 | 長屋王 | 44 元正天皇 | 42 文武天皇 | 吉備内親王 (長屋王妃) | 文室浄三 (智努王) | 三原王 | 47 淳仁天皇 | 貞代王 | 塩焼王 | 道祖王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
池辺王 | 50 桓武天皇 | 早良親王 (崇道天皇) | 桑田王 | 45 聖武天皇 | 三諸大原 | 小倉王 | 清原有雄 〔清原氏〕 | 氷上川継 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
淡海三船 〔淡海氏〕 | 礒部王 | 46 孝謙天皇 48 称徳天皇 | 井上内親王 (光仁天皇后) | 文室綿麻呂 〔文室氏〕 | 清原夏野 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石見王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高階峯緒 〔高階氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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