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日本の作家 (1925-2023) ウィキペディアから
永井 路子(ながい みちこ、1925年〈大正14年〉3月31日 - 2023年〈令和5年〉1月27日)は、日本の歴史小説家。本名は黒板擴子(くろいた ひろこ)。茨城県古河市の名誉市民[1]。
東京府東京市本郷区に生まれる。実父は来島清徳、実母は声楽家の永井智子。実父は生後数年で死去している[2]。
母が一人娘だったため、母の実家を継ぐ目的で[2]、血縁的には大叔父に当たる永井八郎治の長女として入籍。3歳で茨城県古河町(現:古河市)に転居して[1]、当地で育つ。茨城県立古河高等女学校(現:茨城県立古河第二高等学校)卒業。1944年、東京女子大学国語専攻部を卒業[1]。戦後は東京大学で経済史を学んだ[3]。
1949年、歴史学者の黒板勝美の甥で同じく歴史学者となる黒板伸夫と結婚し、東京・中野に転居[1]。同1949年小学館入社[1]、『女学生の友』や『マドモアゼル』等の編集に従事。編集に関わりながら、歴史小説を書く[1]。1958年、筆名・永井路子を使いはじめる[1]。
編集者としても有能であり、「白いトックリのセーターに黒のタイト姿で、夜遅くまで仕事をする彼女は若い男性社員の憧れの的であった」と大村彦次郎は述べている。担当した作家には松本清張らがいる[4]。『近代説話』の同人となり、歴史に対する独特の視点で同誌に発表した作品は有名であった。近代説話の発起人だった司馬遼太郎は、この雑誌をやめたいと漏らしていたが、永井が直木賞を取るまでは雑誌発刊を続けようと考えたほどである[4]。
1961年、『マドモアゼル』の副編集長で退社して文筆に専念[1]。1962年、鎌倉市に転居[1]。1964年、『炎環』(光風社、1964年10月)で直木賞を受賞する[3]。1984年には、中世を題材にした作品で歴史小説に新風をもたらしたとして、菊池寛賞を受賞。
戦前から戦後の移り変わりを体験し、歪められた歴史を多くの資料と説得力のある文章で覆し、評価を得る。これまで考えられてきた歴史人物像、歴史事件等を見直し、男性の影に隠れ見落とされがちな女性にも焦点を当てた作品が多い。また、執筆の際、みずから歴史人物の系図を作成し、本に掲載しているものもある。評論では砕けた文章を用い、親しみやすいものにしている。
1995年、戦後50年を期して、歴史小説の断筆を宣言[1]。1998年、寄贈した蔵書を中核資料とした「古河文学館」開館[1]。2000年、東京・品川に転居[1]。2003年、古河文学館にて「永井路子展」開催、あわせて永井路子旧宅を修復、一般公開開始[1]。
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