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香川県琴平町にある神社 ウィキペディアから
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する単立神社である。明治初年の神仏分離以前は金毘羅大権現と称し[1]、通称は「讃岐の金毘羅さん(さぬきのこんぴらさん)」[2]で知られる。明治初年以降に神社になってからの当宮の通称は「金比羅さん」である。
御朱印:金刀比羅宮(本宮前神札授与所)・白峰宮・厳魂神社(奥宮)
真言宗象頭山松尾寺の堂宇の一つとして神仏習合の金毘羅大権現を祀り、その別当として寺中の金光院が奉斎した。金毘羅大権現は隆盛し、本堂本尊十一面観音を凌駕し、後発の寺中であった金光院が全山を支配することとなる。目にあたる部分に寺院があり山容が象の頭に見えることから、また、釈迦が千人の弟子に説法をしたと云われるインドの伽耶山も象頭山と呼ばれ山容が似ていることから当山は象頭山と呼ばれた。
明治初年に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、金毘羅権現の奉斎は廃止とし大物主を主祭神とする神社となり、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった[3]。全国に約600ある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である[4]。
当初はあらゆる分野の人々に信仰されていたが、19世紀中頃以降は特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
長く続く参道の石段は奥社まで1368段ある。例大祭に合わせて毎年、石段を利用した「こんぴら石段マラソン」が開かれている。
金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである[5]。大宝元年十月の晴れ渡った青空から一竿の旗が舞い降りて象頭山に立ったため、この地に宮を建て旗宮と称したとある。別の説として、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする[6]。また別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国官社24社の1とされ讃岐国多度郡[7]の雲気神社[8][9]が金刀比羅宮という記述がある。
保元元年(1156年)讃岐国に配流された崇徳上皇は讃岐で崩御する前年の長寛元年(1163年)に当山境内の古籠所に参籠し、その附近の御所之尾を行宮した[10]と伝えられていることから、崩御の翌年の永万元年(1165年)に本社相殿に奉斎した[11]とされている。修験道の御霊信仰の影響であると云われている。
1573年(元亀4年)松尾寺金光院院主・宥雅[12]が、金毘羅堂を建立し金毘羅大権現を祀る。その際に坂出の天皇寺の奥之院になっている城山または金山に古来より祀られていた金毘羅神を勧請したのではとの説がある[13]。その後、1579年(天正7年)長宗我部元親が侵攻してくるとその敵方だった長尾氏の一族であった院主の宥雅は宝物などを持って堺に亡命する(この人物を後の時代に金毘羅宮は正当な院主と認めず宝物の返還要求の訴訟を起こして勝利している)。
長曽我部元親はこの山の松尾寺(金毘羅宮は松尾寺別当だった)を殊更に重視し土佐から宥厳[14]を院主に据え、1584年(天正12年)には二天門(持国天・多門天を安置、現在は賢木門)を建立するなど寄進をした。しかし、秀吉軍との戦いで5年ほどで長曽我部勢力は讃岐から退去する。ある意味元親と宥厳も金毘羅宮の再建者との見方ができるのであるが現代においてこの二人の名前は金毘羅宮では抹消されている。江戸半ばに讃岐では戦国期の寺社の荒廃はすべて長曾我部の侵略のためとする風潮があり、現代になっても地元ではその構図が続いているためである。金毘羅宮には多くの歴史的建造物があり、それらには立派な説明板が付けられているがこの再建において最初に建立され名称変更された賢木門にだけ付けられていない。なお、有名な江戸時代末期の民謡『金毘羅船々』の歌詞に「金毘羅信仰忘れちゃいけない シュラシュシュシュ 長宗我部元親 神罰恐れて 逆さに建てたる賢木門」という一節があり、元親の事跡を伝えている。そして、1600年に宥厳は元親により土佐へ呼び戻され、その弟子の宥盛が跡を継ぎ金光院院主となる[15]。
宥盛は翌年には徳島・松山に金毘羅権現を勧請し四国のみならず東北地方まで巡り信仰を広め、荒廃していた境内を整備した。宥盛は死の直前には神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説もあり、今は讃岐三天狗の一狗で金剛坊と呼ばれる(他は八栗寺の中将坊と白峯寺の相模坊)。1606年自らの像を作って本殿脇に祀り1613年亡くなった後しばらくして観音堂後堂の威徳殿[16]に尊体は法衣長頭襟姿で脇に不動明王と毘沙門天を配し[17]秘仏として祀られていたが、現在は奥社に祀られている[18]。
近世に入ると、高松藩主の生駒氏により崇敬され、代々社領が寄進された[19]。1642年(寛永19年)に高松藩主が徳川光圀の兄である松平頼重に交代すると、頼重は当宮を崇敬して社領を加増したほか、正保4年(1647年)330石の社領地を大名ではなく将軍が安堵する朱印地とすることに成功した[19]。これにより当宮を管理する別当職の金光院の地位も向上し、将軍の代替わりの度に出府して謁見することが許され、また別当が交代する時にも参府して将軍に謁見する「継目御礼」が認められた[19]。その後も、頼重は寄進を続け主な建物だけでも1651年に仁王門(現在の大門)を新築、1659年に本社造営、1673年に13間5尺余(高さ約25m)と云われる大型の多宝塔の建立など山内の建物は一新され多くの参拝者を呼び発展の礎となった。なお、近世期には象頭山から神職は除かれ、金光院が当宮の管理運営を完全に掌握し、社領地の司法や行政も管掌していた[19]。
高野山の僧であった宥盛が本坊に造った護摩堂での祈祷で大きな木札を賜った漁師たちの中で難破し沈没した際に船に祀っていた大きな木札に捉まって命拾いしたという話が全国に広まり、漁師達の間でますます隆盛した。 また、金光院院主が宥光のときには参拝の土産物として○に金の印を入れたうちわを作ることを思いつき、大和国から技術者を招いたといわれる。
1689年刊行の四国遍礼霊場記(真念の情報による寂本の著書)に「巡礼の数にあらずといえども讃州の壮観名望の霊区なれば遍礼の人象頭山に往詣せずといふ事なし」と挿絵入りで札所以上にページをさいて紹介している。さらに「大物主の命天竺にゆきましてかしこにて金毘羅といひしとかや・・金毘と三輪一躰と尺し給ふ事あり」と由緒を語りことさらの扱いとなっている[20]。
江戸時代中期に入ると全国の庶民の間へと信仰は広がった。各地で金毘羅講が組織されて「金毘羅参り」が盛んに行われるようになり、伊勢神宮へのお陰参りに次ぐ庶民の憧れだったといわれる[21]。その様子は、浮世絵の東海道五十三次の一つである「沼津」や、滑稽本の東海道中膝栗毛に描かれている。奉納も多く行われ、奉納された石碑を収めるために本来直線だった参道を曲げたほどであった[22]。
1753年(宝暦3年)桃園天皇より勅願所となり[19]、1760年(同10年)5月には「日本一社の綸旨」を賜わり、安永8年(1779年)には幕府祈願所になり、明治初年に至るまで毎年春秋の2回、禁中より御撫物(おなでもの)が金光院に下賜され、宝祚悠久(ほうそゆうきゅう)を祈願してきた。
江戸時代後期には、由加山(蓮台寺、由加神社本宮)が同じ権現である喩伽権現を祀っているということで、瀬戸内海周辺で一番人気のあった当山にあやかろうと本州方面から当山への道中であったこともあり、金毘羅大権現と喩伽権現の両方を参拝する「両参り」をアピールし成功していた。さらに明治期には、西大寺が当社の不動明王と毘沙門天(詳細は後述)を牛玉所(ごうしょ)殿に迎え「三所参り」として西大寺も参拝することを勧めた。また、四国内でも、隆盛を極めつつあった金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする山伏寺が各地に現れたため、上述の日本一社の綸旨をいただき、それらが当山とは無関係であると示すことを図ったが、実現は困難であった。
明治元年(1868年)3月の神仏分離令に際し、第19代金光院別当であった琴陵宥常(ことおかひろつね1840年 - 1892年)[24]は当山の存続を守るため神仏混淆であった「象頭山金毘羅大権現」を「琴平山金刀比羅宮」[25]と改称して神道の神社とし、御本社金毘羅大権現は、主祭神の名を大物主神と定め相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀り、象頭山松尾寺金光院は廃されそのまま社務所になり、他の五つの塔頭は廃止となり、自らは復飾し大宮司就任を許されずも社務職にとどまりさまざまな変更をした[26]。明治元年9月13日には勅祭神社とされる[27]。
主な堂宇の変革として、観音堂は大年社を経て三穂津姫社となり本尊十一面観音菩薩(重要文化財)は宝物館に展示され、金堂は天御中主神ほか二神を祀る旭社となり本尊薬師如来と十二神将は不明となる。観音堂後堂に祀られていた宥盛は厳魂彦命と名を変え、1905年(明治38年)には現在の奥社へと遷座され宥盛像は不明、その脇仏とみられる不動明王と毘沙門天の二体は破却の危機に直面したが塔頭の萬福院住職宥明によって救い出され岡山に渡り、その後、所在は転々としたが、1882年(明治15年)岡山市の西大寺の住職光阿によって同寺に移され、その二体で金毘羅大権現とし、牛玉所権現(五大明王)とともに牛玉所殿に祀られ現在に至る[28]。慶長9年(1604年)金光院本坊内に護摩堂が造られたとき迎えられた初代の不動明王立像は2代目を迎えたとき塔頭の多門院に本尊として移されていたがこの時海岸寺に移され[29]、2代目の不動明王[30]は宝物館に展示されている。護摩堂と同時期に横に造られた大師堂は廃止となり、大師像(県指定文化財)は現在の松尾寺へいち早く遷座される。多聞天と持国天を有した二天門は賢木門となる。金剛界大日如来を本尊とする多宝塔は廃棄され今は馬の銅像が立つ。大門は左右の金剛力士像が武者像に変わり存続、経蔵は文庫になり、鐘楼は麓の興泉寺北緯34度11分24.11秒 東経133度49分23.76秒へ売却。その他にも阿弥陀堂・不動堂・摩利支天堂・毘沙門堂・孔雀堂・行者堂・三十番神社などが摂末社に変更され多くの仏像経巻仏具等が売却または焼却された。なお、神仏分離に反対していた重鎮の宥暁が住職である普門院が唯一再興し、松尾寺普門院として法灯を継承し、明治5年に「浦の谷」で焼かれた仏像仏具から逃れたいくつかの仏像を所蔵している。
古くから信仰を集め、こんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、1969年(昭和44年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。総本部は金刀比羅宮の大門近くにある。金刀比羅本教は神社本庁に属さない独立した包括宗教法人であるが、金刀比羅宮自体はかつては神社本庁の被包括法人であり、別表神社に指定されていた。
2019年(令和元年)の天皇即位に伴う大嘗祭当日祭に供される臨時の神社本庁幣帛料が送付されなかったことなどを理由として、2020年(令和2年)6月5日に金刀比羅宮は神社本庁に対して「被包括関係を廃止する」との通知を送付した。同年11月、神社本庁からの離脱が承認され単立神社となった[4]。
詳細は香川県教育委員会サイトを参照[40]。
海運の守護神であるため、必然的に奉納を行うのは海運関係者や漁師が多い。そのため、金刀比羅宮の近くの海域を通過する金刀比羅宮へ直接参詣できない船が金刀比羅宮の加護を得るため、酒を入れた樽に「奉納 金刀比羅宮」と書いた白幡を付けて船から海に落とし、それを見つけた漁師が拾って金刀比羅宮に代わりに奉納(代参)する「流し樽」という風習がある。これは現在でも海上自衛隊の艦艇の処女航海など、当該海域を通る様々な船舶の乗組員によって行われている[43]。
また、江戸時代には犬に飼い主が初穂料と犬の道中の食料などを首にかけて代参させることもあったという。その犬は道中の人々の善意によって金刀比羅宮へ連れて行かれた[44][45]。
金刀比羅宮が発祥のサクラの栽培品種としてコトヒラ(琴平)とヤオトメ(八少女)がある。コトヒラは1928年に京都の佐野藤右衛門が金刀比羅宮にあったサクラから穂木を採取して佐野園で増殖して各地に広まった、白色の花弁の中輪の八重咲きの栽培品種である。金刀比羅宮にあった原木や佐野園の個体は失われているが、1994年に石川県林業試験場から里帰りとして贈られた1本が表書院の社務所門の内側の石畳沿いに植栽されている。ヤオトメは社務所門を挟んでコトヒラの向かい側の土手に植わっている古木で、淡紅色の花弁の大輪の一重咲きの栽培品種である。以前まではコトヒラと混同されるなどして栽培品種名がつけられていなかったが、鑑定の結果今までに確認されていない栽培品種と判明したため、2020年春に巫女の舞にちなんでヤオトメ(八少女)と名付けられた[46][47]。
なお、かつては琴平参宮電鉄(1963年まで)・琴平急行電鉄(1944年まで)といった路線も琴平に発着しており、1930年~1944年には4つの路線がひしめき合っていた。
正式な分社は6社のみである。
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