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日本の作家 ウィキペディアから
豊田 穣(とよだ じょう、1920年〈大正9年〉3月14日 - 1994年〈平成6年〉1月30日)は、日本の小説家、作家、海軍軍人。海兵68期。最終階級は海軍中尉。本名は豊田 稔(とよだ みのる)。
満州の四平街に生まれる。その後、郷里の岐阜県本巣郡穂積町(現・瑞穂市)へ戻り、1937年(昭和12年)3月、岐阜県立本巣中学校(現・岐阜県立本巣松陽高等学校)を卒業。
1937年(昭和12年)4月、海軍兵学校に入校。1940年(昭和15年)8月、卒業(68期)。同期に鴛淵孝、伴勝久、広尾彰、松永市郎、酒巻和男がいる。
1941年(昭和16年)4月、第36期飛行学生になる。12月8日、真珠湾攻撃が行われ、特潜で出撃した10名のうち、酒巻和男が捕虜となる。当時豊田は霞ヶ浦海軍航空隊附飛行学生であったが、既に軍内部でもその噂は広まっており、同期の一人が「酒巻の奴、自決してくれないかなぁ。クラスの名誉にかかわるからなぁ」と言うのを聞いたという[1]。
1942年(昭和17年)4月1日に中尉進級[2]。宇佐航空隊所属当時、のちにともに捕虜となった祖川兼輔上飛曹と出会う[3]。6月、第36期飛行学生を卒業、艦上爆撃機操縦員となる。7月に富高飛行場、9月に鹿屋飛行場を経て[4]、2月に空母飛鷹所属となる。
1943年(昭和18年)4月3日、い号作戦に参加のため、ラバウルに移動[5]。7日、九九艦爆を操縦しガダルカナル島飛行場攻撃の際、ソロモン方面サボ島沖でグラマンに撃墜され、偵察員の祖川兼輔上飛曹とともに脱出、ゴムボートで3日間漂流したのちニュージーランド海軍哨戒艇に拾われ捕虜になる[5]。水兵がコーヒーとパンを持って来た時、祖川が自決を願い出たが、豊田はそれを止めた[6]。数日後、ガダルカナル島から飛行機でニューカレドニアに送られ、40日後にハワイのフォード島の海兵隊拘禁所に連行され、5か月間にわたる尋問を受ける。この時、通訳官であったドナルド・キーンが訊問した最初の捕虜となる[7]。
豊田は、捕虜になった時から名前は大谷誠、東京市四谷区出身で商船学校出の輸送機パイロットを名乗っていたが、辻褄が合わない陳述でベテランの尋問官をだますことは出来ず、早くも2日後には海兵出身の零戦パイロットであることを自白する[8]。尋問官からは「利口な嘘つき能力の持ち主」と皮肉られた[8]。口が堅く嘘が多かったことから重要な情報を隠していると思った米軍はさらに追及を続け、真っ暗な独房で2週間尋問を受けた事もあった[6]。その結果、零戦の性能や装備、ほかの空母の性能や消息、最高機密である大和の速力、主砲の口径まで自白してしまう[8]。
またある時、捕虜とはいえ敵兵である豊田は真珠湾にて主力空母である空母エンタープライズの内部を見学を願い出、実現した[8]。なおこの時、案内役の副長に誘導され、隼鷹の構造や性能を自白してしまっている[8]。
アメリカ合衆国本土移送後、シカゴ西北のマッコイ捕虜収容所への移送が決まり、1944年4月8日夕方、スパルタ駅に到着。そこで収容所側との交渉役として「捕虜としての訓示」を行っていた酒巻と再会[1]。その夜、ビールの小瓶一本で酒巻と2人だけのクラス会を開く[1]。20人ばかりの将校棟に入った豊田は、酒巻の補佐役をやりつつ小説を書き始める。恋愛ものにも手を付けたが時代小説が好評で、「原稿料タダの流行作家だった」と回想する[8]。一方で、少尉を詐称しハワイ収容所にて牢名主然と振舞っていた太田清二等整備兵曹への吊し上げを行い、下士官兵とともに凄惨なリンチを展開させたとされる[9]。
1946年(昭和21年)、海軍機関学校出身の同期(コレス)の紹介で岐阜の新聞社に入社。名古屋の中日新聞社記者であった1947年(昭和22年)、処女作「ニューカレドニア」を発表。翌年、職業軍人パージに遭い、双立社という出版社に勤め、『小説と講談』を担当、多くの作家の知遇を得て、宮内寒弥の紹介で丹羽文雄らの十五日会に出入りする。[11]。しかし1949年(昭和24年)、双立社が廃業。岐阜の教科書会社・教育図書に勤務。
1951年(昭和26年)、『ミッドウェー海戦』で岐阜県文化賞受賞。会社を辞め上京、小説を書く。1952年(昭和27年)、公職追放解除により中日新聞社に復帰。1956年(昭和31年)、東京支社文化部に転属。1971年(昭和46年)、『長良川』で第64回直木賞を受賞。以降職業作家として執筆活動に専念するが[10]、自由出勤が認められたため中日新聞社は定年まで勤める[12]。
豊田と共に捕虜になった相川は、戦後は航空自衛隊に入って三等空佐で退官し、伊東温泉でマッサージ師をしていたが、1976年3月8日に割腹自決を遂げた[13]。元部下への聞き取りから、動機が捕虜となっていた事への負い目であると分かり、自著『割腹』にて「海上に漂流する浮舟の二人のうち、一人が突然別れの挨拶もかけずに消滅し、自分だけが浮舟の上に取り残されたのを意識した。」と記した[14]
1981年(昭和56年)、この年公開された東宝映画『連合艦隊』で、児島襄との共同で、映画の企画協力を担当。
豊田副武とは血縁関係ではないが、海軍時代に機関長から豊田副武の息子かと聞かれるくらい体格が似ていた。
第二次世界大戦について「日本をあの戦争に追い込んだのは、日本を囲むいわゆるABCD包囲網それにフランス、ソ連を加えた諸外国の動きを別にすれば、日本という国家及び日本人それ自体の体質、そして、軍事よりむしろ、政治、経済、外交の性格や方向づけに問題があったのではないかと、私は考えるようになった」と述べている。
豊田の全著作と執筆の際に参考にした戦史・戦記・伝記資料などは、故郷・岐阜の岐阜県図書館に「豊田穣文庫」として収蔵されている。
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