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日本の艦上戦闘機 ウィキペディアから
零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)は、第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の艦上戦闘機。略称は零戦(ぜろせん/れいせん)。試作名称は十二試艦上戦闘機[1](略称は十二試艦戦)。
零式艦上戦闘機は、1936年に大日本帝国海軍に制式採用された九六式艦上戦闘機の後継機として開発され、日中戦争から太平洋戦争にかけて戦場で活躍した。
最大約3,300キロメートルの長大な航続距離(増槽タンク装備時・巡航のみ)、翼内に対爆撃機用の20ミリ固定機銃2門、機首部分に7.7ミリ固定機関銃2門を装備した重武装、格闘戦を重視した優れた運動性能、そして空力的洗練と防弾装備をなくし軽量化を徹底追求した機体設計は1000馬力級の「栄」エンジンの性能を極限まで引き出すに至り、一躍世界の戦闘機の頂点に立った。
しかし、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、F4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の投入で劣勢となるも、後継機である十七試艦上戦闘機「烈風」の開発が大幅に遅れたことにより、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機だった。
大戦末期には、戦闘爆撃機や特攻機としても改造され使用された。
開発元は三菱重工業(以下「三菱」)。三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産が行われており、総生産数の6割以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の1万機以上[2]。
当時の日本の軍用機の名称には採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定があり、零戦が制式採用された1940年(昭和15年)は神武天皇即位紀元(略称・皇紀)2600年にあたるので、その下2桁の「00」から「零式」とされた[3][注釈 1]。
「零戦」と略され「れいせん」「ぜろせん」と呼ばれる。このうち「ぜろせん」と読むことについて「戦時中、英語は敵性語として使用を制限されていたから『ぜろせん』と読むのは誤り」「“ゼロファイター”の和訳が戦後に一般化した」[要出典]と言われることがあるが、太平洋戦争中の1944年11月23日付の朝日新聞で初めて零戦の存在が公開された際には「荒鷲[注釈 2]などからは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ」とルビ付きで紹介されていることから、「ぜろせん」が誤りというわけではない。
当初の名称は「零式○号艦上戦闘機○型」とされ、発動機の換装を一号、二号、機体の改修を一型、二型と表していたが、1942年夏に最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示すように変更されたため表記が逆転し、既存の一号一型/一号二型はそれぞれ零式艦上戦闘機一一型/二一型と改称された。前述のとおり、それぞれの桁の数字は異なる意味が持たせられており、連続した二桁の「数」ではないため、「じゅういちがた」「にじゅういちがた」といった読み方ではなく独立した「いちいちがた」「にいいちがた」と呼ばれる。二号零戦/二号零戦改と仮称されていた新型零戦は三二型/二二型と命名された[要出典]。 後に、武装の変更を示す「甲・乙・丙」を付与する規定が追加された。
連合軍が零戦に付けたコードネームはZeke(ジーク)だが、パイロットからは直訳調のZero Fighter(ゼロファイター)やZero(ゼロ)と呼ばれた。ただし、三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、Hamp(当初はHap)というコードネームが付けられた。
零戦は、速力、上昇力、航続力の各数値を優れたものとするために、軽量化を徹底している[4]。同時期の艦上戦闘機であるF4Fワイルドキャットが構造で機体強度を確保していたのに対し、零戦はより強度の高い素材を使用して部材の肉を抜き重量を削減した[5]。軽量化は骨格にとどまらず、ボルトやねじなどに至るまで徹底したという。
しかし、これら軽量化策は想定外の強度低下を招き、初期の飛行試験では設計上耐えられるはずの条件下での機体の破壊を招いた。1940年3月、十二試艦戦2号機が昇降舵マスバランスの疲労脱落によるフラッタにより空中分解しテストパイロットの奥山益美が殉職、さらに1941年4月、二一型135号機と140号機がバランスタブ追加の改修をした補助翼と主翼ねじれによる複合フラッタにより、急降下中に空中分解して下川万兵衛大尉が殉職、開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな改修が行われている。設計主務者の堀越技師は、設計上高い急降下性能があるはずの零戦にこのような事態が発生した原因として、設計の根拠となる理論の進歩が実機の進歩に追い付いていなかったと回想している[6]。操縦席の横に補強した脚置き場を設置し、胴体フィレット下と胴体側面に引き込み式のハンドルとステップを取り付けている。そのステップと一部のハンドルは操縦席から手が届かず、離陸前に整備員が押し込む必要があった。
生産段階でも多数の肉抜き穴や、空気抵抗を減らす目的で製造工程が複雑な沈頭鋲を機体全面に使用するなど、生産工程が増える設計となっているが、少数精鋭の艦戦ということで工数の多さが許容されたからである。大戦中期以降は後継機の開発が遅れたため生産数を増やす必要に迫られたことで設計を変更し、工数を減らす努力が続けられたが、設計段階から生産効率を考慮したP-51マスタングと比較すると零戦の生産工数は3倍程度もあり、生産側の負担となった[注釈 3]。
米軍が鹵獲した零戦二一型の機体調査に携わったチャンス・ヴォートのエンジニアから、V-143戦闘機と引き込み脚やカウリング・排気管回りなどが類似していると指摘されたため、零戦そのものがV143のコピー戦闘機であるという認識が、大戦中だけでなく現在でも一部海外で存在する。しかし、この説は開発開始時期の相違によって否定されている。降着装置が半引き込み式で、尾部の突起が少々長いが、外形、寸法、各種数値が似ているグロスター社のF.5/34をコピー元とする説もあるが、零戦の寸法は、翼面荷重や馬力荷重を九六式艦戦と同程度に収めるように決められた数値である。しかも、グロスターのF.5/34が前近代的な鋼管骨組み構造であるのに対し、零戦は九六式艦戦と同じ応力外皮(モノコック)構造なので、コピー説は否定されている。似ているのは、機体形状に関して冒険を避け、当時主流の設計にまとめられた結果である。
零戦には九六式艦上戦闘機同様、全面的な沈頭鋲の採用、徹底的な軽量化と空気力学的洗練、主翼翼端の捻り下げ、スプリット式フラップ、落下式増槽などがある。主翼と前部胴体の一体化構造は、陸軍の九七式戦闘機(中島製)に採用された技術で、フレーム重量を軽減するが、翼の損傷時の修理に手間取るという欠点がある。
太平洋戦争末期のアメリカ軍航空技術情報センター (ADRC) による零戦への評価は下記のとおり[44]。
零戦の高い旋回率、機動性、優れた飛行特性は、戦闘機の特性として最も望ましいものである。貧弱な性能、劣った武装、高速時の重い操舵性、過度の脆弱性は戦闘機として望ましくないものである。アメリカの水準と比べると非常に軽い構造で、装甲板、セルフシーリング燃料タンクを装備していない。このような特徴から、戦闘機としては非常に脆弱なものとなっている。
零戦の仕様は「昭和十一年度 航空機種及性能標準」の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている[45]。
開発は1937年10月5日に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。
「十二試艦上戦闘機計画要求書」は1937年5月に原案がメーカーに提示され、10月に正式な文書として交付された。そのため、変更点もあって内容が微妙に違うものも残っている[47]。「目的」が「攻撃機の阻止撃攘を主とし尚観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり」というものもある。堀越二郎によれば、5月のものに比べて特に航続距離の要求が強くなったという[48]。十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は、堀越技師らが「ないものねだり」と評するほど高いものであり、中島飛行機が途中で辞退、零戦は三菱単独開発となった。前作の九六式艦上戦闘機に続き堀越二郎技師を設計主務者として開発した。
1938年1月17日、十二試艦戦計画要求に関する官民研究会で、日中戦争から帰還した第二連合航空隊航空参謀源田実少佐が飛行機隊の集団使用、遠距離進出などの新境地を開拓した経験から実戦での九六式艦戦や九五式艦戦の働きを説明して格闘性能と航続距離の必要を訴える[49][50]。
1938年4月10日、三菱A6M1計画説明書を海軍に提出した堀越二郎は、3日後(4月13日)に開かれた十二試艦戦計画説明審議会において、格闘力、速度、航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしいと要望した。すると横須賀航空隊飛行隊長の源田実には日中戦争の実戦体験から「どれも基準を満たしてもらわなければ困るがあえて挙げるなら格闘性能(空戦性能)、そのための他の若干の犠牲は仕方ない」と返答された。一方で、航空廠実験部の柴田武雄には実地経験から「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘性能は搭乗員の腕で補う」と返答された。どちらも平行線ながら正論であり、堀越は真剣な両者の期待に応えることにした[51][52]。
1938年秋、前線の戦闘機部隊である12空から提出された意見は、速力・航続力よりも軽快な運動性に重点をおくこと、機銃口径は10ないし13ミリを適度とし、初速の小さい翼上20ミリ機銃は戦闘機に百害あって一利なしというものであり、大航続力、20ミリ機銃に伴った機体の大型化にも反対だった[53][54]。
1939年3月16日、A6M1試作一号機完成。4月1日に岐阜県の陸軍各務原飛行場で試作一号機が初飛行。試作2号機までは瑞星一三型だったが出力不足で[要出典]試作3号機からエンジンを換装した。5月1日栄一二型を装備した3号機をA6M2とした。翌1940年7月24日に、A6M2零式一号艦上戦闘機一型が一一型として制式採用された。
1940年(昭和15年)7月15日、大陸戦線(中国戦線)にて101号作戦のため、第二連合航空隊に横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦13機が進出した。零戦はまだ実用試験中のものであり、全力空中戦闘をするとシリンダーが過熱し焼け付くおそれがあった。また、機体への加速度 (G) が大きくなると脚が飛び出すこと、同様にGがかかると20 mm機銃が射撃できなくなる点が未解決のままであった。これらの問題に対して、技術廠から飛行機部の高山捷一技術大尉、発動機部の永野治技術大尉が解決にあたり、技術者、整備員、搭乗員が一体となって解決した[55]。
零戦の最初の出撃は8月19日の九六式陸上攻撃機護衛任務だったが、あいにく会敵しなかった[56]。翌日にも伊藤俊隆大尉指揮のもと出撃したが会敵せず、悪天候のため出撃は翌月に延ばされた。第1回出撃時に燃料補給のため宜昌飛行場に着陸する際、1機(藤原喜平二空曹)が着陸に失敗し転覆。これが事実上最初の喪失となった。
9月12日、ようやく三度目の出撃となり、重慶上空に1時間も留まったが、これも会敵しなかった。基地に戻ると、敵は交戦を避け、去った後に大編隊を飛ばせて日本軍機を追い払っているように見せているということが判明した[57]。進藤大尉はこれを逆手に取り、翌日再び出撃、ようやく敵機の大編隊と遭遇した。相手は日本機を初撃墜した国民党空軍の精鋭である第四大隊(志航大隊、指揮官・鄭少愚少校)、および第三大隊率いるアメリカ・ソ連・国民党の戦闘機34機(I-15 × 19、I-16 × 15、I-15、I-16とも初飛行が1933年で、零戦より旧式機)で、うち1機がこの直前急激な発進による故障のため帰還しており実際に戦闘に参加したのは33機である。初陣で動揺していた日本軍とは対照的に、経験豊富だった国民党軍は奇襲で撃墜されてもすぐさま編隊を立て直し奥地へ誘い込もうとしたが、やがてスピード・火力ともに優れた新鋭機の前に圧倒され次々と撃墜されていった[58]。
この戦闘で初陣を飾った13機の零戦は、味方機に損失を出さずに、機銃が故障した白根斐夫中尉以外の12機全てが1機以上を撃墜する戦果を挙げた。進藤大尉はそれぞれの戦果を加味した結果、撃墜は27機と判断[59]、マスコミはこの戦果を一斉に報じた。ただし、実際の中国側記録によると、被撃墜13機、被撃破11機(うち10人戦死、負傷8人)である。零戦隊は13機中3機(大木芳男二空曹、三上一禧二空曹、藤原喜平二空曹)が被弾、さらに1機(高塚寅一一空曹)が主脚故障によって着陸に失敗し転覆した[60]。この際、パイロットたちから防弾について「攻撃機にあるような防弾タンクにしてほしい」と不満が出たが、高山捷一技術大尉は零戦の特性である空戦性能、航続距離が失われるので高速性、戦闘性を活かし活動し、効果を発揮するべきと説明した。大西瀧治郎はそれに対し「今の議論は技術官の言う通り」と言って収めてパイロットたちは黙った[61]。
その後も大陸戦線での零戦の活躍は続き、初陣から1年後の1941年8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜3機[62]だけで、空戦による被撃墜機はないまま、太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わった[63][64]。
太平洋戦争の中期まで、空戦性能において優越する零戦を装備した日本海軍航空隊は、グラマンF4FワイルドキャットやカーチスP-40などを装備する連合国軍に対して優勢だった[65][66]。また、零戦は約2200キロの航続距離をもっていた(当時連合軍の戦闘機がロンドンとベルリン間(片道約900キロ)を飛行し空戦を実施して帰還することは困難であった)[67]。零戦は太平洋戦争初期に連合軍航空兵力の主力を撃破した。その空戦性能と長大な航続距離によって、連合軍将兵の心の中に零戦に対する恐怖心を植え付けた[68]。
当時、主に交戦した米海軍機のグラマンF4Fワイルドキャットは、零戦に対して防弾と急降下性能で勝っていたが速度・上昇力・旋回性能に関して零戦に劣っていた[69]。海軍は真珠湾奇襲攻撃の1941年12月8日から、1942年3月までのジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜ないしは地上で破壊した。この数のうち零戦の戦果は471機、83 %を占めるとされる。太平洋戦争のはじめの1か月の全作戦中、陸上基地・空母からの零戦による敵の損害は65 %であった[70]。
対アメリカ戦の始まりとなった真珠湾攻撃は奇襲であったためアメリカ軍戦闘機との空戦の機会の少なかった零戦は主に飛行場へ機銃掃射をおこなった。その直後のフィリピン爆撃では台湾から出撃する陸攻隊を掩護しフィリピンを攻撃するという当時の単座戦闘機としては例の無い長距離作戦を成功させ、植民地フィリピン駐留のアメリカ陸軍航空隊を制圧した。南太平洋においてもラバウルからガダルカナル島やニューギニアへの攻撃に活躍した。
太平洋戦争初期の1942年3月までのアメリカ陸軍航空部隊のジャワ作戦での消耗と零戦隊の優勢、同部隊のオーストラリアへの撤収があった[71]。ラエ基地では1942年の5・6・7月の間、ほとんど連日空戦があったという。ラエの零戦隊は連日奮戦していた。彼我の機数では零戦隊が劣勢であった[72]。ラエ基地からは、ニューギニアにおける連合軍の拠点ポートモレスビーに爆撃に向かう一式陸上攻撃機の護衛任務として出撃を繰り返しており、迎撃してきたアメリカ陸軍航空隊とオーストラリア軍のP-39との空戦となった。P-39はこれまで主にソビエト連邦へレンドリースされていたが、ドイツ空軍のメッサーシュミット Bf109やフォッケウルフ Fw190と互角以上に戦い、多くのエースパイロットを生み出し、エリート部隊の第153親衛戦闘機連隊のわずか20機のP-39は、2か月の間に45機のドイツ軍戦闘機と18機の爆撃機を撃墜し、損失はたったの8機という大活躍をしていた[73]。
しかし、零戦の搭乗員から見ると組み易いという印象で、「大空のサムライ」こと坂井三郎によれば、その性能は芳しいものではなかったという評価であり、初のポートモレスビーへの爆撃機護衛任務で一撃で2機のP-39を撃墜している[74]。また、坂井の上官である「ラバウルの貴公子」こと笹井醇一中尉もポートモレスビー上空において、1列縦隊で飛行するP-39の3機編隊を三段跳びをするように次々と撃墜したこともあった[75]。
1942年5月8日には人類史上初の空母同士の海戦となった珊瑚海海戦が行われた。米軍第17任務部隊は空母「ヨークタウン」と「レキシントン」上空の戦いで、日本軍機動部隊攻撃隊69機(零戦18機・九九式艦上爆撃機23機・九七式艦上攻撃機18機)に対し零戦22機・艦爆11・雷撃機31機を直掩航空隊(F4Fワイルドキャット、SBDドーントレス爆撃機)と対空砲火で撃墜したと記録している[76]。日本軍機動部隊に帰投した機は46機で、零戦17機が帰投するも1機が不時着した[77]。この戦闘における戦果は日本側も過大に見積もっており、グラマン戦闘機32機、ダグラス急降下爆撃機17機撃墜を記録したが、実際の損害はF4F 6機、SBD 15機喪失である[78]。
「1942年6月におこなわれたミッドウエー海戦における米陸海軍戦闘機への零戦の優勢」[79]。「当時ブリュースター・バッファロー とグラマンF4Fワイルドキャットが使用されていた」[80]。
アメリカ戦略空軍司令部作戦部長補佐代理ジョン・N・ユーバンク准将は「ニューギニアやラバウルで我々が遭遇した日本軍は、本当に熟練した操縦士だった。我々は最優秀の敵と戦っているのだということを一時も疑ったことはなかった」と回想している[81]。
アメリカ軍の公式記録によれば、大戦初期の零戦対連合国軍機(主に英国連邦軍と中華民国軍並びに義勇軍)とのキルレシオは 12 : 1 とされている。対米軍機でいえば、太平洋戦争開戦時からミッドウェー海戦までの零戦対F4Fワイルドキャットとのキルレシオは 1: 1.7 としているが、前述の通りミッドウェー海戦以前で零戦とF4Fの対決はウェーク島の戦いと珊瑚海海戦だけであり、前者なら第二航空戦隊の零戦6機は損失無しに対しF4Fは2機撃墜され[82][83]、 後者はMO機動部隊の零戦は日本軍攻撃隊は喪失機無し、MO機動部隊直掩隊の2機喪失に対し第17任務部隊はF4Fを上空直掩隊の6機、及びMO機動部隊攻撃隊の8機の計14機が喪失している(両者とも不時着機や行方不明機を除いた数値である[84][85]ので、実数とは合わない)。 真珠湾攻撃に参加した「飛龍」所属の1機がニイハウ島に不時着する事件が発生したが、アメリカ軍の調査が行われる前に機体は燃やされたため弱点も露見せず、対策は行われなかった。
1942年6月、アメリカ軍はアリューシャン列島のダッチハーバーに近いアクタン島の沼地に不時着した零戦(アクタン・ゼロ[注釈 25])をほぼ無傷で鹵獲することに成功した。この機体の徹底的な研究によって、零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能をもつ一方で、高速時の横転性能や急降下性能に問題があること[注釈 26]が明らかとなり、アメリカ軍は「零戦と格闘戦をしてはならない」「背後を取れない場合は時速300マイル以下で、ゼロと空戦をしてはならない」「上昇する零戦を追尾してはならない」という「三つのネバー (Never)」と呼ばれる勧告を、零戦との空戦が予想される全てのパイロットに対して行った。
不要な装備を除き、なるべく機体を軽くするように指示した[53]。弱点を衝いた対抗策として優位高度からの一撃離脱戦法と「サッチウィーブ」と呼ばれる編隊空戦法がアメリカ軍に広く普及することになった。一撃離脱戦法とサッチウィーブが徹底された1942年年間の零戦とF4Fのキルレシオは1 : 5.9とされたが、上述のようにアメリカ軍の公式撃墜数と被撃墜数を合わせたものであり、裏付けは取れていない。
1942年8月からガダルカナル島の戦いが始まる。前進基地が整備されるに従い、三二型もガダルカナル戦に投入可能となった。三二型は翼幅を1 m切断して最高速度1.5 ノット向上し、増産も簡易化したが、他の性能が低下、操縦性、格闘戦の上から改悪であると周防元成、藤田怡与蔵、坂井三郎といったパイロットを始め、ガダルカナル島奪還作戦で航続力、空戦性能の劣化に対して反対の声が上がった。結局、翼は元に戻され、左右に45リットルタンク各1を増設することになった[86]。
1942年12月までにはスピットファイアを含む英陸軍航空部隊は、西南太平洋戦域で零戦によって壊滅されていた[87]。
1943年にオーストラリアのダーウィンでスピットファイアMk.Vとの戦闘が数度生起している。この一連の戦闘では、一式陸攻を援護して単発機の限界に近い長距離を進攻する零戦隊を、自隊の基地近くで待ち伏せし迎撃するというスピットファイアMk.V隊に有利な状況であったが、零戦隊が優勢に戦っている。正確な日程は不明だが、ダーウィン上空の空戦で、スピットファイアの損失17対し零戦の損失はわずか2機という一方的な勝利も記録されている。この結果に対してフライングタイガーズの司令官だったクレア・シェンノート将軍は「英空軍の戦術はカルワザ的な日本軍に対しては自殺行為だった」と発言している[88]。戦闘は一般に零戦有利といわれる低空に限らず高高度でも行われ、当初格闘戦であったスピットファイア隊の戦闘スタイルも一撃離脱へと切り替えられたが、最後まで零戦隊の優勢は変わらなかった。バトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍戦闘機を圧倒し、「英国を救った戦闘機」などとも称されたスピットファイアですらも[89]、零戦相手には苦戦を強いられた。
ジョン・ベダー著『スピットファイア』によると、初期の戦闘においては大きな差はなかったものの、次第に零戦が優位に変わり、スピットファイアには燃料切れやエンジントラブルで帰投できない機体が相次いだという。また、豪英空軍の証言として「エンジンの出力低下が激しかった」「機関砲が凍結した」などがあり、スピットファイアが南太平洋の環境に適応できず、次第に劣化していったと記載されている[90]。
零戦隊を率いていた鈴木少佐はスピットファイアの優秀性を認めており、侵攻に際しては飛行時間1,000時間以上のベテランパイロットだけで隊を編成したとの談話を残している。最終的にこの一連の戦闘における喪失機の総計は零戦5機(未帰還機は3機)に対し、スピットファイア42機(未帰還機は26機)となり、零戦隊の圧倒的な勝利で終わっている[91]。ただし、1942年当時スピットファイアはMk. XIIまで改良が重ねられていたが、当時インド洋の制海権は日本軍が握っていたために改良型の供給が不可能であり、オーストラリア軍は改良前のMk.Vを継続して使用していた。
1943年に入ると、零戦の優位に陰りが見られるようになっていた。1943年4月に連合艦隊長官山本五十六大将のもとで、連合艦隊、軍令部、航空本部、航空隊などが揃って行った「い号作戦」研究会での戦訓には、零戦の優秀性を認めつつも「戦闘機と言えど将来においては防御を考慮すべき。被撃墜の大半は火災による。これを防げば戦闘能力は驚異的に向上する」というものも含まれていた。そのため重量と効果の問題など研究が進められ、1943年末生産の五二型には翼内燃料タンクに自動消火装置が装備され、五二乙型には風防前部に防弾ガラス、座席後部に防弾鋼板を装備するなど、この頃から零戦に防弾が導入されていった。
連合軍も次々と新鋭機を投入し零戦を脅かし始めた。大型・高速・重武装の米陸軍機ロッキードP-38ライトニングはその長大な航続距離から太平洋戦域に多数投入されていた。当初は零戦を含む軽快な日本軍機にドッグファイトに持ち込まれて苦戦することも多く、零戦搭乗員からは「ぺろハチ」などとあだ名を付けられるほどであったが、戦闘を重ねるに連れて対策を講じ、その高速性や重武装を活かした戦術に転換して零戦の難敵になっていった[92]。アメリカ海軍と海兵隊は2,000馬力級エンジンを装備する、チャンスヴォートF4UコルセアとグラマンF6Fヘルキャットを戦場に投入した。しかし、F4Uコルセアも戦場投入当初はP-38と同様に、その機体特性を活かすことができず、零戦に対して苦戦している。1943年2月14日、ガダルカナル島に進出していた海兵隊戦闘機隊 VMA-124 のコルセア12機が、PB4Y4機の爆撃任務を陸軍のP-38・P-40と協同で行った。このとき、ブーゲンビル島上空で零戦に迎撃され、アメリカ軍各機は零戦の運動性に翻弄されて、コルセア2機、PB4Y2機、P-40とP-38の陸軍機6機の合計10機を撃墜されたのに対して、零戦は1機撃墜と惨敗を喫している。コルセアの初陣はほろ苦いものとなり、この日がバレンタインデーであったことから「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれることとなった[93]。
日本軍の一大航空拠点となったラバウルには、1943年末から1944年初めにかけて、アメリカ軍が連日にわたって戦爆連合の大編隊を差し向け続けたが、その機数は1週間の間に延べ1,000機にも及んだ[94]。ラバウル基地に集結した日本軍航空隊はラバウル航空隊とも呼ばれた。ラバウル航空隊の零戦とアメリカ軍新鋭戦闘機隊との間で死闘が繰り広げられ、零戦は数も性能も勝るアメリカ軍戦闘機相手に善戦し、多数の撃墜を報告している。1944年1月17日の迎撃戦では、合計117機のアメリカ軍戦爆連合[95]を零戦79機で迎撃し[96]、69機の撃墜を報告しながら全機無事に帰還している 。この日の様子を報道した日本ニュースのフィルムにも登場したエースパイロット岩本徹三は、自身の撃墜記録202機のうち142機をラバウルで撃墜したとされ「零戦虎徹」と呼ばれた[97]。ラバウルでは他にも、西沢広義[98]、杉田庄一[99]、坂井三郎[100]、奥村武雄[101]など、零戦による多くのエースパイロットが誕生することとなった。
しかし、アメリカ軍パイロットも次第に、新鋭戦闘機の性能を活かした零戦対策を確立しつつあった。零戦に攻撃されたときにはまずは高速急降下を行い、その後急上昇してかわして、その後は高速性能と頑丈な機体を最大限活用して、水平、上昇、下降のあらゆる局面での飛行速度で零戦の機動性を打ち破る戦術が取られ、零戦は苦戦するようになっていく[102]。機体性能や戦術のほかにも、前線が伸び切り補給が行き届かなくなった日本と、莫大な生産力を有するアメリカを中心とした連合国軍との戦況は完全に逆転しており、補給や補充も含めて総合的にも零戦の優位は完全に揺らいでいた[103]。
零戦の実用化に目処が立った頃、海軍は三菱に十四試局地戦闘機(J2M1。後の雷電)の開発を指示している。しかし、試算により十四試局戦の性能が今ひとつであることが判明すると、より大馬力の発動機に換装した十四試局戦改/試製雷電 (J2M2) の開発を三菱に命じ、これを次期主力戦闘機(艦上戦闘機ではない)として零戦の減産と雷電の大増産計画を立てる一方、同じ頃に川西が提案してきた十五試水上戦闘機 (N1K1) の局地戦闘機化(後の紫電一一型、紫電二一型(紫電改))を許可している。しかし、雷電が数々のトラブルで早期戦力化が不可能、紫電一一型・二一型の実用化はまだ先という状況になったことから、この両機種の代替として零戦の武装・防弾の強化及び高速化に泥縄的に取り組まざるを得なくなってしまった。そのため、アメリカ軍が投入した新鋭戦闘機F6FヘルキャットやF4Uコルセアなどに対して零戦は劣勢を強いられていたが、雷電や烈風など零戦の後継機の開発に遅れた日本海軍は零戦の僅かな性能向上型[注釈 27]でこれらに対抗せざるを得なかった。
しかし、武装強化や防弾装備の強化は却って零戦の最大の強みでもあった運動性の低下を招くこととなり、藤田怡与蔵によれば「操縦性、格闘力は何といっても二一型が優れていたので、二一型に若いパイロットたちを乗せ、五二型には自分たち古参のパイロットが乗って邀撃戦を展開した。その効き目は予期以上だった。空中でやられたのは五二型に乗っていた歴戦のベテランばかりで、その反対に、何機落とした、おれは2機だ、などと鼻息荒く帰投してくるのは、二一型で戦ってきた若い操縦者たちだった」という[104]。
さらに、1943年から続々と就航したエセックス級航空母艦で編成されたアメリカ軍機動部隊搭載の大量の艦載戦闘機が日本軍を圧倒していく[105]。また、これまでの激戦による消耗で戦闘機搭乗員の質の低下が著しく、その後継の育成にも失敗しアメリカ軍戦闘機パイロットとの質の格差は拡大する一方であった[106]。日本軍戦闘機搭乗員によれば、1944年に入ると戦場の雰囲気はそれまでと一変して、零戦では性能が勝る大量のアメリカ軍戦闘機に対して防戦一方となってしまったという[107]。特にF6Fヘルキャットは零戦にとって最大の難敵となり、コルセアと同様の機体の頑丈さと高速性能に加えて、機動性、運動性にも優れていたので、エースパイロット坂井三郎少尉は「零戦でF6Fヘルキャットから逃れられるのは、アメリカ軍パイロットが経験不足のときだけだ」と述べている[108]。また、アメリカ軍の対空能力も飛躍的に進化しており、各空母に設置された戦闘指揮所(CIC)が、充実したレーダーを活用して、効率的な艦載戦闘機による迎撃戦闘を管制・指揮し、新兵器近接信管(VT信管)も含めた圧倒的な対空兵器によって日本軍の通常の航空攻撃を実質的に無力化してしていた[109]。
大戦末期において零戦の運用にかなりの混乱も見られている。艦上爆撃機彗星が、小型空母や商船などを改修した改造空母では運用困難であったため、零戦に大型爆弾用懸吊・投下装置を設置、艦上爆撃機の代用(戦爆)として運用することとした[110]。零戦戦爆はマリアナ沖海戦で勇躍して出撃したが、アメリカ軍機動部隊の戦闘指揮所(CIC)に管制された大量のF6Fヘルキャットが迎撃に飛来したので、爆装した零戦はその動きの鈍さから一方的に撃墜されて壊滅的な損害を被り、その様子は後日「マリアナの七面鳥撃ち」とアメリカ軍側から揶揄されてしまうこととなった[111]。
あ号作戦のためマリアナ諸島に配置される予定であった第三〇一海軍航空隊戦闘三一六飛行隊には、アメリカ軍機動部隊艦載機迎撃のため、当時最新型の五二型が優先的に配備されたが[112]、飛行長であった美濃部正少佐が、戦闘機搭乗員の消耗によって水上機から配置転換された熟練搭乗員の訓練において、「水上機パイロット出身者は零戦で訓練すれば、空中戦もすぐに上達する」などと楽観的に考えて、戦爆の訓練を優先し、空戦の訓練をほとんど行わせなかった。したがって、戦闘三一六飛行隊の練度に向上が見られず、訓練方針を問題視した航空隊司令の八木勝利中佐が、美濃部を問い質したところ、「そんなに短期間で空戦訓練ができるわけがない」「戦闘機の任務は空中戦ばかりではありません」などと反抗したので、八木は美濃部を更迭している[113]。結局、戦闘三一六飛行隊の戦闘機搭乗員は技術的には未熟のまま前線に出ることとなり、1944年6月11日、サイパンの戦いの前のアメリカ軍機動部隊による空襲の迎撃戦闘で、F6Fヘルキャットに一方的に撃墜されて、出撃した全機が未帰還となる惨敗を喫した[112]。
その後、美濃部は夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」の指揮官となり、重武装、重装甲型の零戦五二丙型型が配備されたが[114]、ここでも美濃部は、空戦の訓練を一切行わせず、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は空戦技術をほとんど持たなかった。この美濃部の方針によって、戦艦大和による海上特攻の際には、第五航空艦隊司令部からの戦艦大和の護衛要請を、多数の零戦を擁していたのにも拒否している[115]。沖縄戦で美濃部は、1945年4月下旬より芙蓉部隊の零戦をアメリカ軍飛行場への機銃掃射に投入したが[注釈 28]、アメリカ軍の激烈な対空砲火で、戦果はなかったのにもかかわらず損害が続出したので、まもなく任務継続不可能となり[116]、早くも5月5日以降には艦船や潜水艦を発見したら銃撃するという索敵攻撃任務に回している[117]。しかし、夜間戦闘機隊と称しても芙蓉部隊の零戦に夜間戦闘用の装備はなかったので、その後も芙蓉部隊の零戦夜戦隊はめぼしい戦果のないまま、夜間戦闘の装備が充実していたアメリカ軍の対空砲火や夜間戦闘機に撃墜されて損害が積み重なり、空戦では1機の撃墜戦果もなかったのに対し[118]、1945年5月15日までに戦闘内外で零戦39機を失い[119]、搭乗員の戦死率も60 %と非常な高率となった[120]。このように大戦初期から中期には見られなかった零戦の大きな損害が見られるようになっていく。
零戦によるアメリカ軍飛行場攻撃で大きな戦果を挙げた例もある。第二五二海軍航空隊で編成された「第1御盾隊」の12機の零戦は[注釈 29]、1944年11月27日に硫黄島から出撃し、偵察機「彩雲」 2機の誘導で、B-29が展開するサイパン島のイズリー飛行場を襲撃した[122]。奇襲は成功し、午前10時40分から、零戦は地上に並んでいたB-29を3度にもわたって徹底的に機銃掃射し、4機爆破炎上、6機大破、23機損傷という大戦果を挙げている。零戦は最後まで攻撃を続け、激しい対空砲火と迎撃してきたP-47に撃墜され、1機だけが生還したが、不時着基地として指定されていたパガン島に到達したとき、執拗に追跡してきたP-47に撃墜され全滅した[123]。
零戦戦爆がアメリカ軍機動部隊に通用しないのは明らかであったが[124]、日本軍は捷一号作戦の作戦準備として、フィリピンにおいて零戦戦爆に反跳爆撃の訓練を行わせていた。しかし、ダバオ誤報事件で零戦を多数損失すると、もはや戦爆での運用は困難となり[125]、やがてフィリピンに連合軍が侵攻してくると、関行男大尉ら戦爆として訓練していた零戦搭乗員によって、1944年10月20日最初の神風特別攻撃隊が編成され、それ以降も終戦まで零戦は特別攻撃隊に使用された。フィリピンの戦いや硫黄島の戦いで零戦は、護衛空母「セント・ロー」や「ビスマーク・シー」の撃沈を含めて、多数のアメリカ軍艦船を撃沈破するといった戦果を挙げている。沖縄戦では、特別攻撃隊に対応してさらに強化された連合国軍の警戒網を突破するために日本陸軍側も戦術を工夫して突入を成功させ、零戦の特攻による確実な戦果としては、空母「エンタープライズ」や「バンカーヒル」を大破炎上させている。沖縄戦で零戦は特攻機の主力として、延べ602機が出撃し、うち320機が未帰還となったが、[126][127]公式記録上、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と甚大なものであり[128]、その大部分は特攻による損害で[129]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[130]。
アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島からは、新型爆撃機ボーイングB-29が日本本土に来襲し、日本本土空襲が激化した。海上からも日本本土に接近した連合軍機動部隊の艦載機が来襲したので、それらを迎撃する日本本土の各航空隊に零戦は配備されたが、性能の劣後は明らかになっており、迎撃戦の主力は海軍は雷電、紫電改、陸軍は三式戦闘機、四式戦闘機、五式戦闘機などとなっていった。
しかし、熟練搭乗員が操縦する零戦は空戦においても依然として活躍しており、真珠湾攻撃にも参加したエースパイロット岡嶋清熊大尉が率いた戦闘三〇三飛行隊は、制空任務や特攻機護衛任務で敢闘、1945年3月18日に開始された九州沖航空戦では、3月18日から19日にかけての2日間で12機の敵機撃墜を報告している[131]。岡嶋自身も出撃しているが、機銃が故障で射撃ができなくなってしまったのにもかかわらず、2機のF4Uコルセアと空戦を行い、技量の劣る部下の安部正治一飛曹をF4Uコルセアが捉えようとするたびに、岡嶋は攻撃をするふりをして追い払い、最後はF4Uコルセアは諦めて帰還したので、岡嶋は故障した機銃で見事に自機と安部機を守りきっている[132]。後日には、鹿児島県鹿屋市笠ノ原基地上空で邀撃戦を行い、単機で侵入してきたF6Fヘルキャットを撃墜、その後に新たに現れたF6Fも巧みにかわして生還している[132]。その後は沖縄戦に参加。岡嶋は「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念の持ち主であり、最後まで空戦任務に拘り続けた。岡嶋が率いた戦闘三〇三飛行隊は連日の激戦で、沖縄戦中に89名の戦闘機搭乗員のうち38名を失ない戦死率は43 %にも上ったが、これは特攻隊として編成された第二〇五海軍航空隊の103名の特攻隊員中戦死者35名(戦死率34 %)よりも高い戦死率となっている[133]。
硫黄島が硫黄島の戦いでアメリカ軍に攻略されると、P-51マスタングやP-47サンダーボルトといったアメリカ陸軍の新鋭戦闘機も来襲するようになった。特にP-51マスタングは、最高速度が704 km/hと零戦を133 km/hも上回り、上昇力も急降下速度も比較にならないほどの高性能であり[134]、第二次世界大戦中の最優秀戦闘機とも評され[135]、もはや零戦には対抗困難な次世代の戦闘機であった[134]。日本軍は本土決戦を見据えた戦力温存策で、損害に対して戦果が少ない小型機相手の迎撃は回避するようになっており[136]、零戦とP-51の交戦記録は少ないながらも、第三〇二海軍航空隊のエースパイロット森岡寛大尉らが撃墜を記録している[137]。
零戦は終戦時まで戦い続け、1945年8月15日午前5時30分に、房総沖から来襲したアメリカ・イギリスの艦載機約250機を第三〇二海軍航空隊の零戦8機、雷電4機、第二五二海軍航空隊が零戦15機で迎撃、F6Fヘルキャット4機、シーファイア1機、TBFアベンジャー1機を撃墜したが、零戦8機を失っている[138]。終戦後の8月17日にアメリカ軍爆撃機B-32 ドミネーターを攻撃したのも零戦と言われ、B-32 ドミネーターは被弾しながらも撃墜は免れたが、第二次世界大戦におけるアメリカ兵最後の戦死者となるアンソニー・マルキオーネ軍曹を出している[139]。
終戦時に残存していた零戦は1,166機であり[140]、これは日本軍航空機では九三式中間練習機に次ぐ機数であった。残った零戦は、イギリスやアメリカ、オーストラリアなど連合国軍によりテスト用に持ち去られた分以外はすべて廃棄処分にされ、完全な形で日本に残っていた機体は少ないが、廃棄された機体や残骸から復元した機体が展示品として国内に複数存在する。
2017年時点で飛行可能な復元機は5機(二二型2機と、五二型、二一型、複座二二型、各1機)存在するが、全てアメリカにある。オリジナルの栄エンジンを搭載するのは五二型61-120号機1機だけで、これも破損やFAA(アメリカ連邦航空局)の安全基準に適合させるため、キャブレターなどはB-25のR-2600から取り出した部品を使っている。他はP&WのR-1830など、サイズが近く入手性の良いエンジンで代用している。
アメリカ国内での操縦には、飛行機の操縦士(単発ピストン)の他、FAAが定めた零式艦上戦闘機の機種限定ライセンス『MI-A6M』が必要となる[141]。ポール・アレンは個人で3機(飛行可能1機)を所有、全てフライング・ヘリテージ・コレクションで公開し、飛行可能な1機は定期的にデモ飛行を行っている。
2016年(平成28年)1月27日、ゼロエンタープライズ・ジャパンが「零戦里帰りプロジェクト」で復元し、アメリカで登録した機体(N553TT)を海上自衛隊の鹿屋航空基地で試験飛行させた[142][143]。戦後の日本国内で、日本人所有の零戦が飛行するのは初[144][145]。2017年にはレッドブル・エアレース・ワールドシリーズの千葉大会でデモ飛行を行った[146]。
出典: 野沢正 編著『日本航空機総集』1981年 [147]。
制式名称 | 零式艦上戦闘機二一型 | 零式艦上戦闘機五二型 | 零式艦上戦闘機五四型 |
---|---|---|---|
機体略号 | A6M2b | A6M5 | A6M8 |
全幅 | 12.0 m | 11.0 m | |
全長 | 9.05 m | 9.121 m | 9.237 m |
全高 | 3.53 m | 3.57 m | |
翼面積 | 22.44 m2 | 21.30 m2 | |
自重 | 1,754 kg | 1,876 kg | 2,150 kg |
全備重量 | 2,421 kg (正規) 2,757 kg (過荷) |
2,607 kg (正規) 3,007 kg (過荷) |
3,300 kg (正規) |
翼面荷重[諸元注 1] | 107.89 kg/m2 | 128.31 kg/m2 | 147.89 kg/m2 |
発動機 | 栄一二型 | 栄二一型 | 金星六二型 |
最大出力 | 940hp (離昇) 950hp (高度4,200m) |
1,130hp (離昇) 1,100hp (高度2,850m) 980hp (高度6,000m) |
1,500hp (離昇) 1,350hp (高度2,000m) 1,250hp (高度6,000m) |
最高速度 | 288 kn (533.4 km/h)[諸元注 2] @高度 4,700 m | 305 kn (564.9 km/h) @高度 6,000 m | 309 kn (572.3 km/h) @高度 6,000 m[諸元注 3] |
巡航速度 | 260~333km/h | 333~370km/h | 370km/h |
上昇力 | 6,000mまで7分27秒 | 6,000mまで7分1秒 | 6,000mまで6分50秒 |
降下制限速度 | 340 kn (629.7 km/h) | 360 kn (666.7 km/h) | 400 kn (740.8 km/h) |
燃料搭載量 | 胴体62L+翼内380L (正規) 胴体145L+翼内380L (過荷1) 胴体145L+翼内380L+増槽330L (過荷2) |
胴体60L+翼内430L (正規) 胴体内60L+翼内520L+増槽320L (過荷) |
胴体140L+翼内510L+増槽300L (過荷) |
航続距離 | 1,874km (正規) 2,222km または 全速30分+巡航1,433km (過荷1) 3,230km または 全速30分+巡航2,530km (過荷2) |
1,921km (正規) 3,360km または 全速30分+巡航2,560km (過荷) |
850km (正規) 全速30分+巡航1200km (過荷)[諸元注 4] |
武装 | 翼内九九式二〇ミリ機銃2挺(携行弾数各60発)[諸元注 5] 機首九七式七粍七固定機銃2挺(携行弾数各700発) |
翼内九九式二〇ミリ機銃2挺(携行弾数各100発)[諸元注 6] 機首九七式七粍七固定機銃2挺(携行弾数各700発) |
翼内九九式二〇ミリ機銃2挺(携行弾数各125発) 翼内三式十三粍固定機銃2挺(携行弾数各240発) |
爆装 | 30 kg爆弾×2発 または 60 kg爆弾×2発 |
以上いずれかより選択 | |
試作機完成 | 1940年7月 | 1943年4月 | 1945年4月 |
発動機 | 型式 | 主翼 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
栄一二 | 一一 | 翼端折り畳みなし | ||||||||||
└→ | 二一 | → | 四一(計画のみ) | 翼端折り畳みあり | ||||||||
栄二一 | └→ | 三二 | 翼端切落し(角型) | |||||||||
└→ | 二二 | 二二甲 | 翼端折り畳みあり | |||||||||
栄二一 栄三一甲 栄三一乙 |
└→ | 五二 | 五二甲 | 五二乙 | 五二丙 | → | 六二 | 翼端切り落とし(丸型) | ||||
栄三一 | ├→ | 五三丙 | 六三 | |||||||||
金星六二 | └→ | 五四 | 六四 | |||||||||
装備 | 九九式一号機銃 | 九九式二号機銃 | 20ミリ機銃の形式 | |||||||||
60発 | 100発 | 125発ベルト給弾 | 20ミリ機銃の弾数 | |||||||||
九七式7.7ミリ機銃 | 三式13.2ミリ機銃 | 副兵装 | ||||||||||
防弾装備なし | 防弾装備あり | 防弾装備 | ||||||||||
小型爆弾のみ | 250 kg | 500 kg | 爆装 |
この他、引き込み式主脚の代わりにフロートを付けた水上戦闘機型の「二式水上戦闘機」や複座練習機型の「零式練習戦闘機」、胴体に20ミリ斜銃1挺を追加した夜間戦闘機型(通称「零夜戦」)がある。また、陸上基地での運用を前提に、二二型の翼端折り畳み機構と着艦フックを廃止した「零戦一二型」と呼ばれる型が存在していたとする説が雑誌「丸」において発表されている。その他にも、翼内の九九式20ミリ機銃を二式30ミリ機銃に換装した試験機が数機試作され、ラバウルにおいて実戦テストに投入されている。
年月 | 三菱重工業 | 中島飛行機 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
一一型 | 二一型 | 三二型 | 二二型 | 五二型 | 五二甲/乙型 | 五二丙型 | 六二型 | 五四丙型 | 二一型 | 五二型 | 五二丙型/六二型 | |
1940.5 | 5機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.6 | 3機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.7 | 9機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.8 | 8機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.9 | 9機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.10 | 19機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.11 | 7機 | 16機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1940.12 | - | 19機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.01 | - | 23機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.02 | - | 23機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.03 | - | 30機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.04 | - | 27機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.05 | - | 30機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.06 | - | 25機 | 1機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.07 | - | 24機 | 1機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.08 | - | 30機 | 1機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.09 | - | 33機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.10 | - | 43機 | - | - | - | - | - | - | - | - | - | - |
1941.11 | - | 52機 | - | - | - | - | - | - | - | 1機 | - | - |
1941.12 | - | 60機 | - | - | - | - | - | - | - | 5機 | - | - |
1942.01 | - | 60機 | - | - | - | - | - | - | - | 19機 | - | - |
1942.02 | - | 58機 | 4機 | - | - | - | - | - | - | 21機 | - | - |
1942.03 | - | 55機 | - | - | - | - | - | - | - | 25機 | - | - |
1942.04 | - | 54機 | - | - | - | - | - | - | - | 22機 | - | - |
1942.05 | - | 58機 | - | - | - | - | - | - | - | 28機 | - | - |
1942.06 | - | 21機 | 24機 | - | - | - | - | - | - | 29機 | - | - |
1942.07 | - | - | 46機 | - | - | - | - | - | - | 41機 | - | - |
1942.08 | - | - | 51機 | - | - | - | - | - | - | 52機 | - | - |
1942.09 | - | - | 64機 | - | - | - | - | - | - | 62機 | - | - |
1942.10 | - | - | 65機 | - | - | - | - | - | - | 72機 | - | - |
1942.11 | - | - | 67機 | - | - | - | - | - | - | 80機 | - | - |
1942.12 | - | - | 19機 | 50機 | - | - | - | - | - | 96機 | - | - |
1943.01 | - | - | - | 68機 | - | - | - | - | - | 89機 | - | - |
1943.02 | - | - | - | 69機 | - | - | - | - | - | 100機 | - | - |
1943.03 | - | - | - | 73機 | - | - | - | - | - | 114機 | - | - |
1943.04 | - | - | - | 73機 | - | - | - | - | - | 120機 | - | - |
1943.05 | - | - | - | 73機 | - | - | - | - | - | 126機 | - | - |
1943.06 | - | - | - | 73機 | - | - | - | - | - | 132機 | - | - |
1943.07 | - | - | - | 77機 | - | - | - | - | - | 146機 | - | - |
1943.08 | - | - | - | 4機 | 75機 | - | - | - | - | 156機 | - | - |
1943.09 | - | - | - | - | 79機 | - | - | - | - | 170機 | - | - |
1943.10 | - | - | - | - | 105機 | - | - | - | - | 182機 | - | - |
1943.11 | - | - | - | - | 110機 | - | - | - | - | 202機 | - | - |
1943.12 | - | - | - | - | 130機 | - | - | - | - | 223機 | 2機 | - |
1944.01 | - | - | - | - | 125機 | - | - | - | - | 230機 | 8機 | - |
1944.02 | - | - | - | - | 115機 | - | - | - | - | 79機 | 30機 | - |
1944.03 | - | - | - | - | 8機 | 97機 | - | - | - | 88機 | 109機 | - |
1944.04 | - | - | - | - | - | 109機 | - | - | - | 111機 | 238機 | - |
1944.05 | - | - | - | - | - | 95機 | - | - | - | - | 232機 | - |
1944.06 | - | - | - | - | - | 100機 | - | - | - | - | 200機 | - |
1944.07 | - | - | - | - | - | 115機 | - | - | - | - | 163機 | - |
1944.08 | - | - | - | - | - | 135機 | - | - | - | - | 232機 | - |
1944.09 | - | - | - | - | - | 135機 | - | - | - | - | 245機 | - |
1944.10 | - | - | - | - | - | 74機 | 71機 | - | - | - | 141機 | 53機 |
1944.11 | - | - | - | - | - | - | 115機 | - | - | - | - | 109機 |
1944.12 | - | - | - | - | - | - | 62機 | - | - | - | - | 206機 |
1945.01 | - | - | - | - | - | - | 35機 | - | - | - | - | 216機 |
1945.02 | - | - | - | - | - | - | 58機 | 1機 | - | - | - | 108機 |
1945.03 | - | - | - | - | - | - | - | 40機 | - | - | - | 207機 |
1945.04 | - | - | - | - | - | - | - | 36機 | 1機 | - | - | 230機 |
1945.05 | - | - | - | - | - | - | - | 37機 | 1機 | - | - | 247機 |
1945.06 | - | - | - | - | - | - | - | 23機 | - | - | - | 185機 |
1945.07 | - | - | - | - | - | - | - | 15機 | - | - | - | 137機 |
1945.08 | - | - | - | - | - | - | - | 6機 | - | - | - | 87機 |
注1:中島製五二型には五二甲型も含む(生産数不明)
注2:1942年2月の三菱製三二型4機は同年2 - 4月の合計数
注3:1944年4月の中島製二一型111機は同年4 - 5月の合計数
注4:1945年4月 - 5月の三菱製五四丙型2機は試作機
帝国海軍において塗装は「塗粧」と呼称されていたが、本項ではより一般的な「塗装」として表記する。
十二試艦上戦闘機に関しては、M2灰緑色と呼ばれる塗料で塗装を施されたと言われており、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館に展示されているレプリカはこれに従ったものである[要出典]。制式採用時には当時の標準塗装であったP1銀色による塗装を改め、防錆のためA3赤褐色の下塗りの上に中塗りとしてM2灰緑色を2回[要出典]、その上から全面をJ3灰色で塗装し、カウリングはQ1黒色で塗装している。機体内側は軽金属用特殊塗料であるE4淡青色透明という透明なブルーで塗装され、操縦席内部などの一部はその上から淡緑色で塗装[要出典][信頼性要検証]された。
後に1942年10月5日から実施された「軍用機味方識別に関する海陸軍中央協定」に従い、翼前縁の内側約半分を橙色または黄色に塗装し、これを敵味方識別帯としている。また、協定に従って日の丸には白縁がつくようになった。
1942年末頃には、D1現地で暗緑色と思われる塗色による現地応急迷彩が実施されていたことが複数の写真で確認できる[要出典]。これは戦局悪化に対応し、地上撃破を防ぐための処置である。
1943年の2〜3月頃の工場完成機では中島・三菱共に上面をD2暗緑色に塗装した機体が確認でき、以降は上面暗緑色、下面灰色が標準となっている。
三菱と中島では塗装の塗り分けが異なる。三菱製は胴体側面から見た時に胴体後部に灰色はほとんど見えないが、中島製は主翼後部より水平尾翼前縁をつなぐように塗り分けのラインが続く。塗料についても三菱製機体の暗緑色は青色がかっており、中島製は黄緑がかっている[149][信頼性要検証] 。
しばしば論じられる灰色の色味は、海軍の文書では「灰色」「灰白色」、三菱社では「灰鼠色」「鼠色」と表現される[要出典]。J3灰色は主にジンカイトとアタナーゼの白色顔料とカーボンブラックの黒色顔料を混ぜたベンジルセルロース塗料であり、この塗料は黄変しやすい性質をもつ軽金属用特殊塗料である。
したがって、時間経過によって黄変したものが「飴色」として誤認された経歴があり、空技報0266に見られる「現用零式艦戦用塗色J3(灰色)のわずか飴色がかりたるもの」という記載から、白色飴色[要出典]や飴色と呼ばれる色とする説も多い[誰によって?]。
E4淡青色透明も同様のベンジルセルロース塗料であり、現存機でブルーがグリーンに変色している様子が確認できる[要出典]。
例外的に日の丸の白縁を緑色や黒色で塗りつぶしたり、個人で自機に撃墜マークなどの塗装をする者もいた。
独立派ゲリラが少数を鹵獲し、1945-1949年のインドネシア独立戦争でオランダ軍に対して使用した。
中国国民党は1941年に2機の二一型を鹵獲してフライング・タイガースに引き渡し、終戦後は台湾でも1機の五二型を鹵獲して1948年から福建省で練習機として使用した[151]。中国共産党も1945年10月に東北民主連軍が3機の三二型を接収して修理し、日本軍人による東北民主連軍航空学校で練習機として使用した[152]。
型名 | 機体写真 | 保存施設 または管理者 | 公開状況 | 状態 | 尾翼番号 | 製造番号 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
二一型 | 科博廣澤航空博物館 | 公開 | 静態展示 | 53-122 | 中島 31870 (主要部品) |
1943年5月ごろより、ラバウル航空隊に属する航空隊が順次撤退していたが、そのうち最後まで残り撤退した航空隊の武器や人員を受け入れていた二五三空がラバウル工廠で偵察用に改造した複座機。吉澤徳重上飛曹の乗機だったが、1945年1月9日、ラバウル北西ニューブリテン島ランバート岬沖 約250 m地点で撃墜され、水深 8 mの海底に沈んでいた。1972年に引き上げられ、復元された後に国立科学博物館へ寄贈された[153](日大教授による)。2020年7月まで国立科学博物館で展示されていたが、科博廣澤航空博物館に移設され、2024年2月11日より公開[154]。 | |
二一型 | 河口湖自動車博物館・飛行舘 (所蔵リスト(機体)) | 8月のみ | 静態展示 | オヒ-101 (現在はAI-101) |
中島 91518 (主要部品) |
左記施設により東南アジア各地の戦跡で集められた零戦のパーツから復元。90 %以上がオリジナル部材で、栄一二型発動機を搭載している。岩本徹三中尉搭乗機であるオヒ-101の塗装とマーキングが施されていた。2001年より毎年8月だけの期間限定で、原田館長の個人収蔵品の一部として公開が行われている[155][156]。 | |
二一型 | 写真 | 河口湖自動車博物館・飛行舘 | 8月のみ | 静態展示 | 311-190 | 中島 92717 | 1944年4月ごろ製造された最終期の21型。この機体は内部構造がわかる貴重な資料として残すため、できる限りのオリジナル部品を装着し外板を張らずにスケルトン状態で保存されている[155][156]。 |
二一型 | ガダルカナル時の写真 上 : 主翼 中 : 胴体後部 下 : 報国号の表記 |
報国515資料館[注釈 30][157] | 月一度公開 | 静態展示 | (不明) [報國-515] |
三菱 2666 (廣嶋縣産報呉支部號) |
報国515資料館の機体入手後の調査と2008年に発見時の写真資料から、不時着ではなく墜落の可能性が高いことが判明した。朝日新聞デジタルの記事[158]などでの空母翔鶴所属機「EI-108」との推測は、後部胴体の線が「白線と誤判定」され、機体の一部にあった「8」という数字からの誤認の結果と考えられており、この機体の所属などは未確定となっている。 |
三二型 | 筑前町立大刀洗平和記念館 | 公開 | 静態展示 | Y2-128 | 三菱 3318 | マーシャル諸島タロア島で残骸が発見され、現地所有者より買い取った福岡航空宇宙協会が中日本航空で修復して2004年まで名古屋空港航空宇宙館に展示していた機体。
福岡航空宇宙協会の所有物であったが現在は筑前町に寄贈され左記施設に展示されている。 | |
五二型 | 河口湖自動車博物館・飛行舘(所蔵リスト(機体)) | 8月のみ | 静態展示 | 豹187 | 中島 1493 | 1944年5月ごろの中島飛行機にて製造の機体。栄三一型エンジン、四式射爆照準機などを装備した後期の機体。2001年から毎年8月だけの期間限定で原田館長の個人収蔵品の一部として公開が行われている[155][156]。 | |
五二型 | 靖国神社遊就館 | 公開 | 静態展示 | 81-161 | 三菱 4240 | 1943年11月に製造された初期の五二型。戦後ラバウルで連合軍の連絡機として使用されていた。1975年にラバウルから回収され河口湖自動車博物館・飛行舘館長の原田信夫によって修復が進められた。[156]三菱重工の協力で、あいち航空ミュージアムの五二甲型と2機同時に復元作業が行われた[要出典]。2002年、靖国神社創立130年記念のため遊就館に奉納され、永久に靖国神社で保存されることとなった。 | |
五二型 | (同上) | 公開 | 静態展示 | (不明) | 三菱 4241[注釈 31] | ||
五二型 | 航空自衛隊浜松基地浜松広報館 | 公開 | 静態展示 | 43-188 | 三菱 4685 | 1944年3月に三菱名古屋工場にて製造。同年グアムのアガナ (Agana) 飛行場において不時着・破損。そのまま放置されていた機体が1963年に発見され日本へ搬送し復元されたもの[159]。 | |
五二甲型 | 大江時計台航空史料室 | 公開 | 静態展示 | (不明) | 三菱 4708 | 1975年にミクロネシアのヤップ島から回収され、河口湖自動車博物館・飛行舘館長の原田信夫が三菱の協力のもとに復元した機体[160]。かつては三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所史料室で一般公開されていた。史料室の閉室に伴いあいち航空ミュージアムで展示していたが、左記史料室が新設したときに移設した。 | |
五二甲型 | 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館 | 公開 | 静態展示 | (不明) | (複数機体) | 1992年(平成4年)に鹿児島県の錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた二一型の末期生産型[注釈 32]と五二丙型[注釈 33]の2機を使用し、1機の五二甲型として復元した機体[161][162]。 | |
五二丙型 | 知覧特攻平和会館 | 公開 | 静態展示 | ヨD-127 | 中島 62343 | 大戦末期の1945年5月に鹿児島県甑島の手打港近海に没した機体。1980年に知覧町(当時)によって引き上げられた。ほぼ海底から引き上げられたままの状態で主翼を含めた機体前部が展示されている。損傷が大きいためか六二型とされることもある[163]。 | |
六二型 | 呉市海事歴史科学館 | 公開 | 静態展示 | 210-118B | 中島 82729 | 終戦間際の1945年6月に琵琶湖へ不時着水し湖底に沈んでいた機体を1978年に引き上げ、京都嵐山美術館で展示するために外観が修復された[164][165]後、和歌山市の白浜零パーク[166][167]で展示されていた。現在は呉市海事歴史科学館で展示されている[168]。 | |
航空自衛隊浜松基地浜松広報館にて保存されている零戦52型の修復に際しては、タイヤの復元が困難を極めたため、スクラップについていたタイヤを関係者がブリヂストンに持参したところ、戦中の同社製品と判明し、無料で複製のタイヤを製作、提供した[169]。
型名 | 機体写真 | 所在国 | 保存施設 または管理者 | 公開状況 | 状態 | 尾翼番号 | 製造番号 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
二一型 | アメリカ (ハワイ) | 真珠湾太平洋航空博物館(コレクションへのリンク(本文のみ英語)) | 公開 | 静態展示 | EII-102 → BII-120[注釈 34] |
中島 5356[170]および中島 5451[注釈 35] | 1943年のソロモン諸島の戦いに出撃した機体。 カナダ マニトバ州カーマン在住の大戦機復元家[172][173]のボブ・ディマート (Robert Edward “Bob” Diemert[172]) がバラレ島ほかで収集した8機から復元した3機のうちの1機目で、エンジンにP&W R-1830を搭載した飛行可能な機体であった。もともと 記念空軍 (CAF) が所有していたが、修理が必要な状態になったので左記施設に売却され、再度の修復ののちに展示されて機体である[170]。なお展示機には真珠湾攻撃後にハワイ諸島のニイハウ島に不時着した西開地重徳一飛曹搭乗機の塗装とマーキングとが施されている[170]。 | |
二一型 | アメリカ | 国立海軍航空博物館 (2014年7月13日時点のアーカイブ) | 公開 | 静態展示 | EII-140 | 中島 5450[注釈 36] | ボブ・ディマート がバラレ島ほかで収集した8機のパーツより復元された3機のうちの2機目(3機目は墜落事故で喪失)。
修復後塗り直されたが、後に2回塗替えされ現在の姿となった[176]。 | |
二一型 | アメリカ | Ellenville, LLC[177] | 不明 | 飛行可能 (機体記号 N8280K[177]) | (複数[注釈 37]) | (複数[注釈 38]) | Blayd Zero および Dakota Blayd Zero の通称を持つ[178]。ボブ・ディマートがバラレ島ほかで収集した8機から復元した3機を製造した際に使用されなかった残骸数機と新製・復元した部品とをカナダの航空機部品製造業の Blayd Corporation の手により組み立てて完成させた機体で1機のみの製造[178]。この復元プロジェクトに際し三菱商事よりオリジナルの設計図面提供および翻訳のための工学部の学生の協力を得た[178]。後にアメリカ・ノースダコタ州およびミネソタ州に拠点を置くコンソーシアムの手にわたり、エンジンをP&W R-1830に載せ替えられ、2004年7月28日に N8280K として機体登録された[178][177]。主な部材はアメリカ最大手のアルミメーカー・アルコア社の協力[要出典]のもとで新造し、流用部品は再生加工を施された。 | |
二一型 | アメリカ | 国立アメリカ空軍博物館 (コレクションへのリンク) | 公開 | 静態展示 | AI-3-102 | 中島 5553 | ニューアイルランド島のカビエン市の周辺で発見・回収された機体。ラバウルに送られカビエンの第六航空隊のちに第二五三航空隊によって運用されたうちの1機でソロモン海戦中に撃墜されたとみられる。 1943年3月のビスマルク海海戦に参戦した際の空母瑞鳳所属の隊長機仕様で復元されている[179]。 | |
二一型 | 現在の様子 撃墜直後の様子 |
オーストラリア | ダーウィン航空博物館(コレクションへのリンク) | 公開 | 静態展示 | BII-124 | 三菱 5349 | 1942年にメルヴィル島上空で撃墜された機体[180]。搭乗者は後にカウラ事件を起こす豊島一・一飛兵であった[181][182]。 |
二一型 | オーストラリア | オーストラリア戦争記念館(コレクションへのリンク) | 公開 | 静態展示 | V-173 | 三菱 5784 | ニューブリテン島のガスマタ飛行場に放置されていた機体が回収され、1976年にオーストラリアに送られた後に左記施設が取得し復元したもの。 坂井三郎一飛曹(当時)がラバウルの台南航空隊で1942年の6月から7月にかけて搭乗した機体とされている[183]。 | |
二一型 | 事件直後に撮影された同機 |
アメリカ (ハワイ) | 真珠湾太平洋航空博物館 | 公開 | 静態展示 | BII-120 | 三菱 2266 | ニイハウ島事件時の、西開地重徳一飛曹乗機の実物[184]。ジオラマの一部として展示[184]。 |
二二型 | アメリカ | 記念空軍 (CAF) | 公開 | 飛行可能 | X-133 | 三菱 3869 | 1970年代にパプアニューギニアでサンタモニカ航空博物館によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代後半にロシアのストレラ・プロダクション・アソシエイツ社で新造して復元された、飛行可能な3機の零戦二二型の内の1機目。エンジンはP&W R-1830。飛行登録ナンバー:NX712Z。 所有者はアメリカ国内を中心に歴史的航空機を保存・再生し航空祭でそのデモフライトを行っているNPOである、記念空軍(略称CAF)である。同団体は他にも、T-6 テキサンを改造して二一型に模したレプリカ機(『トラ・トラ・トラ!』などの映画やドラマに出演している)など保存している。 | |
二二型 | アメリカ | フライング・ヘリテージ・空中戦・兵器博物館 (コレクション一覧) | 公開 | 飛行可能 | UI-161 | 三菱 3852(レプリカ[185]) | 1970年代にパプアニューギニアでサンタモニカ航空博物館によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代初めにロシアで新造して復元された飛行可能な3機のうちの2機目。複座仕様へ改造の後、2011年にフライング・ヘリテージ・コレクションにより二度目の飛行を行った[186][信頼性要検証]。ポール・アレンが購入後、2004年に開館した私設博物館のフライング・ヘリテージ・空中戦・兵器博物館で常設展示した機体 (N385HF[187]) であり、その後機体番号が N3852 に変更され[188]、所有者の入れ替わりが複数あった後[187]、再びフライング・ヘリテージ・空中戦・兵器博物館の手に戻った[187]。フライング・ヘリテージ・空中戦・兵器博物館は2020年3月にCOVID-19の世界的流行のためやむなく閉館し、施設・コレクションとも売却されたが[189]、Wartime History Museum Inc. の手により同一場所での再開館にこぎつけた[189]。 | |
二二型 | ニュージーランド | オークランド研究所・博物館 (コレクションへのリンク) | 公開 | 静態展示 | 2-152 | 三菱 3844 | 戦後にブーゲンヴィル島に残されていた、故障した後に残存していた部品を使って修復し飛べる状態にしてから特攻に使用予定だったとされる故障機を回収・修復した機体[190]。この機体は修復された当時、やっと飛べるような酷い状態であったが、それでもラバウルへ運んだあと特攻に使う予定だったとされている。ラバウルへ飛び立つ日に終戦となったため、連合軍が来た際にも良い状態で残っていたようだ。博物館へ移動されてからはまだら模様に塗装されていた[要出典]が、前の塗装に戻された。 | |
二二型 | ソロモン諸島 (ブーゲンヴィル島) | キエタ記念公園 (Pacific Wreck による説明) | 公開 | 静態展示 | ( 3-112 ) | (不明) 三菱製 | 鉄の支柱二本の上に展示されている。被弾して墜落した機体であり、展示後も尾翼が落ちたりなどしたため2005年に修理がされたが、状態はあまり良いとは言えない[191]。 | |
二二型 | アメリカ | プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館 | 公開[要検証] | 静態展示 | (不明) | (不明) | 主翼が展示されている。 | |
二二型 | 分割した状態
|
アメリカ | N553TT LLC[192] | 非公開 | 飛行可能 | ( AI-112 ) | 三菱 3858 (レプリカ) | 1970年代にパプアニューギニア・ラバウル近郊でサンタモニカ航空博物館によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代初めにロシア・ヤコヴレフ社で新造して復元された飛行可能な3機のうちの3つ目。エンジンはP&W R-1830。米映画『パール・ハーバー』などに使用され、アメリカ人パイロットが所有していたが、後にTHE FEWを経営する石塚政秀が購入した。2010年に日本への「零戦里帰りプロジェクト」を設立したものの、日米両国「武器輸入」の通関問題や、それまでの維持費の資金難などで紆余曲折した末、100人以上の協力と資金援助を受けて、2014年11月に帰国が実現し、同月21日から24日の4日間、埼玉スーパーアリーナにて分解状態のままで一般公開された後2015年内までに組立が完了し、翌年1月27日に本機の国内初飛行を実施[193]。2017年に千葉県で開催されたエアレース世界選手権にてデモフライトも行われた(このとき、機体記号(N553TT)は米国籍のままである[194][195])。日本国内での保存を計画していたが維持費の捻出が厳しくなり[196]、2020年6月に米国内の財団(詳細不明)に売却した[197]。 |
三二型 | アメリカ | プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館 | 公開[要検証] | 静態展示 | V-190[注釈 39] | 三菱 3032 | 機体の主翼より後ろ側と垂直尾翼だけが現存し、尾輪は失われている。壁にかけるように展示されている[要検証] | |
三二型 | イギリス | 帝国戦争博物館 (コレクションへのリンク) | 公開 | 静態展示 | Y2-176 | 三菱 3685 | コックピット周辺から尾翼までの胴体を中心とした残骸で、1991年にマーシャル諸島のタロア島より回収された[198]。一部修復の上、2014年より展示されている。 | |
五二型 | アメリカ | プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館(コレクションへのリンク) | 公開 | 飛行可能 | 61-120 | 中島 5357[199]
1995年には竜ヶ崎飛行場をはじめ国内数か所でデモフライトをおこなった。2012年12月1日から2013年8月まで埼玉県の所沢航空発祥記念館の特別展にて展示。エンジンの起動とタキシングを披露した[200][201]。 |
オリジナルの栄三一甲型エンジンを搭載して飛行可能な唯一の零戦。アメリカで登録され(機体登録: N46770[202])毎年5月開催の博物館航空祭ではデモフライトが行われている[203]。かつては迷彩塗装[204]であったが、1978年に三菱製のような塗装へ変わり、少々の変更を経て現在の塗装となった。
→詳細は「零式艦上戦闘機五二型61-120号機」を参照 | |
五二型 | アメリカ | Suraair Holdings Inc. | 非公開 | — | 61-121 | 中島 1303 | 1944年にサイパン島で鹵獲され戦利品として米国に渡った。Vulcan Warbirds, Inc. の手により2001年8月27日に N1303として登録され[205]、ポール・アレンの私設博物館 フライング・ヘリテージ・空中戦・兵器博物館にて[186]展示に供されたが、その後フライング・ヘリテージ・空中戦・兵器博物館が取得するもコレクションの手を離れ[206]、2024年現在、機体登録を残したまま Suraair Holdings Inc. の手にある[206]。 | |
五二型 | アメリカ | 国立航空宇宙博物館 (コレクションへのリンク) | 公開 | 静態展示 | 61-131(61ー108) | 中島 4340 | 1944年6月18日に米軍がサイパン島で鹵獲した12機の日本軍機のうちの1機。米海軍は7月に本機を含む複数の零戦を性能評価のために米本国に送った[207][208]。 同博物館が1974年8月から1975年7月におこなった修復作業の際に、胴体後方内部の金属表面に必勝を祈願する日本語のメッセージが刻まれていることが発見された。二六一航空隊の塗装とマーキングが施されている。[リンク切れ] | |
五二型 | アメリカ | (不明) | 非公開 | — | HK-102 | 三菱 4400 | 1945年9月にトラック島で米軍により鹵獲され1947年に戦利品として米国に渡った。1950年代にエドワード・マロニーの手に渡り、プレインズ・オブ・フェイムにて展示されていたが、2001年にフライング・ヘリテージ・空中戦・兵器博物館が取得[186]し、2001年10月30日に Vulcan Warbrids, Inc.の手により N652Z として機体登録されるも、その後機体登録も抹消され消息は不明である[209][210]。 | |
五二型 | 戦後イギリス領マラヤで 試験飛行をする零戦 二一型(手前)と五二型。 奥の五二型がこの機体。 |
イギリス | ロンドン帝国戦争博物館 またはダックスフォード帝国戦争博物館(コレクションへのリンク) |
公開 | 静態展示 | BI-05 | 三菱 196 | 終戦時に連合国の調査機関 (Allied Technical Air Intelligence Unit,ATAIU) に鹵獲され試験飛行をされた機体だが、現存し展示されているのはコックピットと主翼付け根および脚を含む胴体中央部と栄21エンジンだけで、それ以外は紛失または廃棄された。なお同機の栄21エンジンはイギリス空軍博物館コスフォード館にて展示されている[211] |
五二型 | インドネシア | ディルガンタラ マンダラ博物館(インドネシア空軍中央博物館)(公式サイト不明) | 公開[要検証] | 静態展示 | ヨD-1153 | (不明) | 終戦後にインドネシアのバボ飛行場に残されていた機体を修復したもの。現在でも自由に触れることのできる唯一の零戦[212]。 | |
五二甲型 | アメリカ | ファンタジー・オブ・フライト | 公開 | 修復中 | 3-108 | 中島 4043 | オーストラリア戦争記念館職員が1970年代にラバウルや南太平洋で発見し復元した機体の内の1機で、一部は三菱 5784の修復に使用されたという[213]。墜落を再現した状態で展示されていたが、現在は修復中となっている。航空機収集家カーミット・ウィークス(Kermit Weeks)のコレクションの一つ[214]。 | |
六二型 | アメリカ | サンディエゴ航空宇宙博物館() | 公開 | 静態展示 | ヨ-143 | 三菱 23186 | 1945年の5月 - 8月の間に製造され横須賀航空隊に配備された機体。戦後に横須賀で鹵獲された。レストアのためワシントン DC の国立航空宇宙博物館が左記施設に貸与したもので、3年以上(12,000時間)をかけて修復した[215]。 | |
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