エース・パイロット

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エース・パイロット

エース・パイロット: Flying Ace、フライング・エース、: As、アス、: Fliegerass、フリーガーアス、日: 撃墜王〈げきついおう〉)は、多数の敵機を主に空中戦で撃墜したパイロットに与えられる称号航空機が戦闘に使用され始めた第一次世界大戦時からある名称である。単にエースとも称し、中でも撃墜機数上位者はトップ・エースと称される。

現在は5機以上撃墜した者とされ、また歴史を通じて主に戦闘機のパイロットに与えられる傾向がある。

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「最初のエース」として勲章を授与されるフランスのアドルフ・ペグー

概要

要約
視点
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6.5機のシリア軍機の撃墜とイラクの原子炉を破壊したことを示すF-16のキルマーク(イスラエル航空宇宙軍所属)

第一次世界大戦で戦闘機が誕生した当初、フランスが10機以上撃墜者をエースの資格と定義し、同じ連合国イギリスや、対戦相手(中央同盟国)のドイツも同様に10機以上撃墜者をエースとした。

しかし大戦終盤の1917年に参戦したアメリカは戦闘が短期間であったことを考慮し、5機以上撃墜者をエースの資格と定義した。戦間期を経て第二次世界大戦が開始されると、各国は各々の第一次大戦の定義で使用を再開したが、のちに連合国枢軸国ともに5機以上撃墜者をエースの資格とした。

エースの定義とは別に、第一次大戦時のフランス軍、および第二次大戦時のドイツ軍は、東部戦線西部戦線作戦方面の難易度に応じたポイント制により叙勲と昇進で表彰した。また、第二次大戦終盤に空中戦機会が乏しくなったアメリカ軍は、地上破壊機数を貢献ポイントとして別途カウントした。

日本には「多数機撃墜者」という通称があり、日本軍航空部隊が本格的に参戦した日中戦争以降は上級部隊からの感状(部隊感状/個人感状)・賞詞・叙勲・祝品授与などで表彰され、隷下の各飛行部隊は個人の功績を記録した。

陸軍では将兵の士気高揚の面からも太平洋戦争時も奨励されたが、敗戦により記録文書の多くは焼却されており、海軍では1943年後半以降軍令部の指示で多くの部隊は個人撃墜数の記録を廃止している。

そのため操縦者の日記記録などを除き戦歴の詳細が不明な部分が多く、戦後日本の戦史家達は1970年代に当時の関係者の体裁を考慮しつつ撃墜数を一定率の掛け算などで引き下げ、戦果を縮小し全体数の調整を試みたことがあったが結論は出なかった。

しかし1990年代以降、梅本弘などによって日本軍の戦果報告と連合国軍の損害報告という双方の一次資料を極力照合することにより、客観的に真の撃墜機数を検証する活動がなされている。

主に撃墜の記録はパイロット自身の自己申告によるが、基本的に空中戦の世界(とりわけ第二次大戦)では誤認が大変多く、実際の敵機撃墜数の何倍もの数を「撃墜した」と報告してしまうことは珍しくなかった。そのため、僚機や地上の目撃者の証言、被撃墜敵機の残骸確認・捕虜の尋問、敵軍の通信傍受・暗号解読、ガンカメラの記録に基づき検証されることも多い。

なお「撃墜」のほかに、敵機の墜落・空中分解・炎上などは見届けなかったが確実に撃墜に至る損害を与えたとされる「未確認撃墜」、友軍機とともに協同して敵機を撃墜した「協同撃墜」、撃墜までは至らなかったが敵機に被害(被弾)を与えたという「撃破」などが存在し、これらも戦果となった(個人撃墜機数のカウント)。

第二次世界大戦の枢軸陣営では、爆撃もしくは雷撃によって連合国の艦船を撃沈した航空機搭乗員に対し、「撃沈王」(Anti-shipping expert)と称する事もあった[1]

軍事気球を5機以上撃墜した者は「バルーンバスター(気球エース)」と呼ばれ、軍事気球が多く利用されル・プリエールロケットなどの対気球用兵器も登場した第一次世界大戦では77人の気球エースが誕生した。

各国航空部隊の慣習の別にもよるが、パイロットは撃墜した敵機の数だけの印を並べる『キルマーク』を機体に描くことがあり、これによってエース・パイロットの乗機であることが判別できる場合がある。

キルマークには撃墜した敵国の国籍マークや機体のシルエット、単純な白線などが用いられる。第二次世界大戦中のソ連空軍のように、自国の国籍マークである赤星をキルマークにも用いる例もある。記入される場所は機首、コクピット横、後部胴体、垂直尾翼など様々である。

エース・パイロットのリスト

要約
視点

以下、世界の主要なエース・パイロットを英語版項目から日本語表記に修正・転載・加筆。

第一次世界大戦

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第一次世界大戦の撃墜王
氏名出身国所属撃墜機数備考
マンフレート・フォン・リヒトホーフェンドイツドイツ陸軍80 (他に未公認2)中央同盟国軍トップ・エース。通称 「レッドバロン」。
ルネ・フォンク英語版フランスフランス空軍75 (他に未公認33)連合国軍トップ・エース。一般には未公認撃墜52と言われるが、自伝「Mes Combat」の中で語られた自己主張の数字であり、フランス陸軍航空隊による「公式な非公認撃墜」は33機である[2]。エルンスト・ウーデットの友人。
ウィリアム・ビショップカナダイギリス空軍72イギリス空軍とカナダ空軍のトップ・エース。カナダ人としてもトップ。後にカナダ空軍中将
エルンスト・ウーデットドイツドイツ空軍62後にドイツ航空省航空機総監となる。
ミック・マノックイギリスイギリス空軍61
レイモンド・コリショーカナダイギリス海軍61イギリス海軍トップ・エース。
エリッヒ・レーヴェンハルトドイツドイツ空軍54
ウィリアム・バーカーカナダイギリス空軍53
ジョルジュ・ギンヌメールフランスフランス陸軍航空隊53機体に「"Vieux Charles"(“老シャルル”)」と書き入れていた。エルンスト・ウーデットと交戦経験がある。
ヴェルナー・フォスドイツドイツ空軍48マンフレート・リヒトホーフェンのライバル。
ジョージ・マクエロイアイルランドイギリス空軍47アイルランド人のトップ。
ロバート・リトルオーストラリアイギリス海軍47オーストラリア人のトップ。
アルバート・ボールイギリスイギリス空軍44
ブルーノ・レールツァードイツドイツ空軍44乗機の観測員である ヘルマン・ゲーリングとは入隊時からの友人。
シャルル・ナンジェッセフランスフランス陸軍航空隊43
ジョルジュ・マドン フランス フランス陸軍航空隊 41 (他に非公認撃墜64) フランス第四位のエースにして、非公認撃墜数世界一の記録を持つ。機体を赤く塗っていた時期があり、「フランスのレッドバロン」「赤い悪魔」との異名がある。
オスヴァルト・ベルケドイツドイツ空軍40ベルケの空戦8箇条で有名。
ロタール・フォン・リヒトホーフェンドイツドイツ空軍40「レッドバロン」の実弟。
エドゥアルト・フォン・シュライヒドイツドイツ空軍35乗機を黒く塗装していたことから「黒騎士(Schwarzer Ritter)」の異名を持つ。
ゴドヴィン・ブルモフスキオーストリア=ハンガリー帝国オーストリア=ハンガリー帝国軍航空隊35オーストリア=ハンガリー帝国軍トップ・エース。
ウィリー・コッペンベルギーベルギー陸軍37(未公認6)ベルギー人トップ・エース。 内35は観測気球であり事実上トップ・気球エース。愛機のアンリオ HD.1を青く塗装していたため「青い悪魔」の通称で呼ばれた。
フランチェスコ・バラッカイタリアイタリア空軍34イタリア人トップ・エース。
クルト・ヴォルフドイツドイツ空軍33マンフレート・リヒトホーフェンの右腕。
テオドール・オステルカンプドイツドイツ海軍32後の第二次大戦でも6機を撃墜。生涯撃墜数38機。
ゴットハルト・ザクセンベルクドイツドイツ海軍31巡洋艦の士官からパイロットに転向。機体は黄色と黒の市松模様に塗装していた。
ヘルマン・フロンメルツドイツドイツ空軍29
ヴァルター・ブルーメドイツドイツ空軍28戦後は航空機の技師となりアラドに入社した。
ヴァルター・フォン・ビューロウ=ボートカンプドイツドイツ空軍28観測気球を2基撃墜している。
ローベルト・フォン・グライムドイツドイツ空軍28後のドイツ空軍総元帥。
エディ・リッケンバッカー英語版アメリカアメリカ陸軍26アメリカ人トップ・エース。
ヘルマン・ゲーリングドイツドイツ空軍22後のナチス・ドイツの空軍最高司令官
フリードリッヒ・クリスチャンセンドイツドイツ海軍21内1は潜水艦(航空機以外の撃墜スコアを認められた極めて珍しい例)。後のナチス航空協会総裁
ゲルハルト・フィーゼラードイツドイツ陸軍21通称「マケドニアの虎」。戦後「ゲルハルト・フィーゼラー飛行機製作所」を創立。Fi156「シュトルヒ」を開発したことで知られる。
キース・パークニュージーランドイギリス空軍20
フルコ・ルッフォ・ディ・カラブリアイタリアイタリア空軍20パーソナルマークは黒い骸骨。イタリア貴族であり娘はベルギー国王アルベール2世の王妃であるパオラ・ルッフォ・ディ・カラブリア
アレクサンドル・コザコフ英語版ロシア帝国ロシア帝国軍航空隊20ロシア人トップ・エース。戦後白軍に参加。
フランク・ルークアメリカアメリカ陸軍18通称「アリゾナの気球キラー」。気球を14機撃墜した気球エースであり飛行機も4機撃墜している。
マックス・インメルマンドイツドイツ空軍15通称「リールの鷲」。インメルマンターンに名を残す。
ジャン・ナヴァルフランスフランス陸軍12
ジェームズ・ホワイトカナダイギリス海軍12
ヴァルター・ヘーンドルフドイツドイツ空軍12
インドラ・ラル・ロイインドイギリス空軍10
クリストファー・ドレーパーイギリスイギリス海軍9
シリル・ローワイギリスイギリス空軍9
アリスティディス・モライティニスギリシャギリシャ海軍航空隊9ギリシャ人トップエース。1913年の第一次バルカン戦争において史上初の空対艦攻撃を実施
滋野清武日本フランス陸軍6-8通称「バロン滋野」。日本初のエース。
アドルフ・ペグーフランスフランス陸軍6通称「空の王者(Roi du ciel) 」。ヨーロッパで初めてパラシュート降下したパイロット。ブレリオ XIテストパイロットを務める。
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スペイン内戦

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スペイン内戦の撃墜王
氏名出身国所属撃墜機数備考
ホアキン・ガルシア=モラトスペインナショナリスト空軍40
セルゲイ・グリツェヴェーツソビエト連邦スペイン共和国空軍30ノモンハン事件にて12機撃墜。
ジュリオ・サルバドール・イディアス=ベンジュメアスペイン語版スペインナショナリスト空軍24
パーヴェル・ルィチャゴフソビエト連邦スペイン共和国空軍20のちソ連空軍志願隊
アーロイス・ヴァサタクチェコスロバキアスペイン共和国空軍17
アンヘル・サラス・ララサーバルスペインナショナリスト空軍16後の第二次世界大戦では7機撃墜。
マリオ・ボンザーノイタリア語版イタリアレギオー航空隊15
ヴェルナー・メルダースドイツコンドル軍団14ロッテ戦法シュヴァルム戦法を生み出した。後の第二次世界大戦では、人類初の100機撃墜を達成。エルンスト・ウーデットの葬儀に向かう途中に事故で死亡。
ブルネット・ディ・モンテグネッコイタリアレギオー航空隊14
ガイド・プレーセルイタリアレギオー航空隊13
ヴォルフガング・シェルマンドイツコンドル軍団12
ハーロー・ハルダードイツコンドル軍団11
アンドレス・ガルシア・ラ・カール英語版スペインスペイン共和国空軍11
ペーター・ボーデンドイツコンドル軍団10
ロドルフ・ド・エムリクール・ド・グリュヌベルギーナショナリスト空軍10後に第二次世界大戦でも3機を撃墜するが、1941年5月に戦死。
アベル・ガイドフランススペイン共和国空軍10
ヘルベルト・イーレフェルトドイツコンドル軍団9後の第二次世界大戦で123機撃墜。
オットー・ベルトラム英語版ドイツコンドル軍団9後の第二次世界大戦で13機撃墜。
ヴァルター・エーザウドイツコンドル軍団9後の第二次世界大戦で117機撃墜。
ラインハルト・ザイラードイツコンドル軍団9後の第二次世界大戦で100機撃墜。
ヴィルヘルム・エンスレンドイツコンドル軍団9
ヘルヴィヒ・クニュッペルドイツコンドル軍団8
ハンス=カール・マイヤー英語版ドイツコンドル軍団8
レフ・シェスタコフソビエト連邦スペイン共和国空軍8他、共同撃墜が31機ある。後の第二次世界大戦でも活躍。1944年3月に撃墜され戦死するが、このとき彼を撃墜したのはハンス・ウルリッヒ・ルーデル少佐(当時)といわれている。
ヴィルヘルム・バルタザールドイツコンドル軍団7
クラフト・エーベルハルトドイツコンドル軍団7
ヴァルター・グラープマンドイツコンドル軍団7
ホルスト・ティーツェンドイツコンドル軍団7
ボジダール・ペトロヴィッチユーゴスラビアスペイン共和国空軍7
ロルフ・ピンゲルドイツコンドル軍団6
クルト・ロシェルドイツコンドル軍団6
ヘルベルト・ショーブドイツコンドル軍団6
フランシスコ・タラゾナ・トラーンスペイン語版メキシコスペイン共和国空軍6
イワン・エレメンコロシア語版ソビエト連邦スペイン共和国空軍6
ギュンター・リュッツオウドイツコンドル軍団5後の第二次世界大戦で105機撃墜。
ゲオルグ・ブラウンシルンドイツコンドル軍団5
ゴットハルト・ハンドリックドイツコンドル軍団5ベルリンオリンピック近代五種競技金メダリスト。第二次世界大戦で10機を撃墜。
ヴォルフ=ハインリッヒ・フォン・ホウヴァルトドイツコンドル軍団5
ヴォルフガング・リッパートドイツコンドル軍団5
ヨアヒム・シュリクティングドイツコンドル軍団5
ハンネス・トラウトロフトドイツコンドル軍団5
ニコライ・シュメルコフロシア語版ソビエト連邦スペイン共和国空軍5個人撃墜4、共同2ともされる。
ジェームス・ペック英語版アメリカ合衆国スペイン共和国空軍5
ハロルド・E・ダール英語版メキシコスペイン共和国空軍5
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ノモンハン事件

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ノモンハン事件の撃墜王
氏名国名所属撃墜機数備考
グリゴリー・クラフチェンコソビエト連邦赤色空軍20
セルゲイ・グリツェヴェーツ ソビエト連邦 赤色空軍 12
ニコライ・プロコーフィイェヴィッチ ソビエト連邦 赤色空軍 11
篠原弘道 日本 日本陸軍 58
垂井光義 日本 日本陸軍 28
島田健二 日本 日本陸軍 27
花田富男 日本 日本陸軍 25
斎藤正午 日本 日本陸軍 25
加藤正治 日本 日本陸軍 23
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第二次世界大戦

日中戦争ノモンハン事変を含む。
※巡航ミサイル(V1飛行爆弾)の撃墜数は表に含まれない。V1の最多撃墜記録はイギリス空軍のジョセフ・ベリーの59機(有人機の撃墜数は3機)。
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第二次世界大戦の撃墜王
氏名出身国所属撃墜機数備考
エーリヒ・ハルトマンドイツドイツ空軍352[3]史上最多撃墜者。「黒い悪魔」「ブロンドの騎士」「ブービ(坊や)」などの通称がある。
ゲルハルト・バルクホルンドイツドイツ空軍301[3]エーリヒ・ハルトマンに次ぐ撃墜数の保持者。撃墜数300機越えは史上でもこの2人だけである。
ギュンター・ラルドイツドイツ空軍275[3]3位ではあるが、ハルトマン、バルクホルンの約半分の出撃数で達成した記録である。見越射撃を得意とした。
オットー・キッテルドイツドイツ空軍267[3]通称「シトゥルモヴィークの壊し屋」。
ヴァルター・ノヴォトニーオーストリアドイツ空軍258[3]航空戦史上初の250機撃墜達成者。 世界初のジェット戦闘機部隊指揮官。
ヴィルヘルム・バッツドイツドイツ空軍237[3]通称「ヴィリー」。 僅か1年で224機撃墜を記録。
エーリッヒ・ルドルファードイツドイツ空軍222[3]2016年時点において100機以上の撃墜記録を持つエースで最後の存命者だった。
オスカー=ハインリヒ・ベールドイツドイツ空軍220[3]通称「プリッツル」。この通称は彼の好物であるキャンディの銘柄からつけられたものといわれる。
ヘルマン・グラーフドイツドイツ空軍212[3]航空戦史上初の200機撃墜達成者。
ハインリヒ・エールラードイツドイツ空軍208[3]通称「極北のエース」。
テオドール・ワイセンベルガードイツドイツ空軍208[3]愛称「テオ」。3度の搭乗機種転換を経て200機以上の撃墜を記録した猛者。
ハンス・フィリップドイツドイツ空軍206[4]通称「フィップス」。
ヴァルター・シュックドイツドイツ空軍206[4]通称「ゾーンデル」。
アントーン・ハフナードイツドイツ空軍204[4]通称「トーニ」。
ヘルムート・リップフェルトドイツドイツ空軍203[4]15回撃墜されたが全て無傷だった。
ヴァルター・クルピンスキードイツドイツ空軍197[4]通称「グラーフ・プンスキ(プンスキ伯爵)」。
アントーン・ハックルドイツドイツ空軍192[4]JG77→JG11→JG76→JG26→JG300と、所属戦闘航空団(JG)を5度も転属した。通称「トニ」。
ヨアヒム・ブレンデルドイツドイツ空軍189[4]独ソ戦に参戦したJG51内のトップエース。
マックス・シュトッツドイツドイツ空軍189[4]第二次大戦前はオーストリア軍に所属。
ヨアヒム・キルシュナードイツドイツ空軍188[4]パラシュート脱出後、クロアチアのパルチザンに虐殺された。
クルト・ブレントルドイツドイツ空軍180[4]
ギュンター・ヨステンドイツドイツ空軍178[4]大戦中一度も撃墜されなかった。戦後、ハルトマンの跡を継ぎドイツ連邦軍JG71の司令に就任。
ヨハネス・シュタインホフドイツドイツ空軍176[4]通称「マッキ」。
エルンスト=ヴィルヘルム・ライネルトドイツドイツ空軍174[4]
ギュンター・シャックドイツドイツ空軍174[4]
エミール・ラングドイツドイツ空軍173[4]一日での最高撃墜数(18機)を記録。
ハインツ・シュミットドイツドイツ空軍173[4]僅か3週間で約50機を撃墜。
ホルスト・アデマイトドイツドイツ空軍166[4]ゼーノートディーンストに救助された経験あり。
ヴォルフ・ディートリッヒ・ヴィルケドイツドイツ空軍162[5]通称「フュルスト(侯爵)」。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユドイツドイツ空軍158[5]対英戦線でのトップ・エース。 通称「アフリカの星」、「黄色の14」、「砂漠の王子」等。ルフトヴァッフェでの最年少大尉。

撃墜した158機は全て西側連合軍機である。

ハインリヒ・シュトルムドイツドイツ空軍158[6]JG52第II飛行隊第4中隊トップエース。
ゲルハルト・ティベンドイツドイツ空軍157[5]フォッケウルフ Fw190による大戦最後の戦果を上げたパイロット。通称「ゲルト」。
ハンス・バイスヴェンガードイツドイツ空軍152[5]
ペーター・デュットマンドイツドイツ空軍150[5]やたら胴体着陸を行って難を逃れたエース。通称「ボニファティウス」。
ゴードン・ゴロプドイツドイツ空軍150[5]
フリッツ・テクトマイヤードイツドイツ空軍146[5]
アルビン・ヴォルフドイツドイツ空軍144[5]
クルト・タンツァードイツドイツ空軍143[5]
フリードリヒ=カール・ミュラードイツドイツ空軍140[5]
フリードリヒ・ヴァコウィアクドイツドイツ空軍140[6]
カール・グラッツドイツドイツ空軍138[5]
ハインリヒ・ゼッツドイツドイツ空軍138[5]
ルドルフ・トレンケルドイツドイツ空軍138[5]10日間で5回も緊急脱出をしている。
フランツ・シャルドイツドイツ空軍137[5]
ヴァルター・ヴォルフルムドイツドイツ空軍137[5]ドイツ空軍には約2年ほどしかいなかったにもかかわらず100機以上を撃墜。
アドルフ・ディックフェルトドイツドイツ空軍136[5]青年時代はハンナ・ライチュから直々にグライダー操縦を学んでいる。
ホルスト=ギュンター・フォン・ファッソングドイツドイツ空軍136[7]
オットー・フェネコルトドイツドイツ空軍136[7]
カール=ハインツ・ヴェーバードイツドイツ空軍136[7]
ヨアヒム・ミュンヒェベルクドイツドイツ空軍135[7]
ハンス・ヴァルトマンドイツドイツ空軍134[7]
アルフレート・グリスラフスキドイツドイツ空軍133[7]
ヨハネス・ヴィーゼドイツドイツ空軍133[7]Il-2ばかり撃墜していたため、ソ連側から「クバーニのライオン」とあだ名された。
アドルフ・ボルヒャースドイツドイツ空軍132[7]
エルヴィン・クラウゼンドイツドイツ空軍132[7]
ヴィルヘルム・レムケドイツドイツ空軍131[7]
ハインリヒ・シュテールドイツドイツ空軍130[7]
フランツ・アイゼナハドイツドイツ空軍129[7]
ヴァルター・ダールドイツドイツ空軍128[7]通称「ラムダール(Rammdahl:突撃ダール)」。記録はダールの自伝によるもの。実際の撃墜戦果は100機以下といわれる。
フランツ・デールドイツドイツ空軍128[7]
ルドルフ・ラデマッヒャードイツドイツ空軍126[7]
ヨーゼフ・ツヴェルネマンドイツドイツ空軍126[8]エーリヒ・ハルトマンが僚機を務めたことがある。
ディートリヒ・フラバクドイツドイツ空軍125[8]通称「ディーター」。
ゲルハルト・ホフマンドイツドイツ空軍125[8]
ヴォルフ・エッテルドイツドイツ空軍124[8]
ヘルベルト・イーレフェルトドイツドイツ空軍123[7]生涯通算撃墜数は132機(スペイン内戦で9機撃墜)。
ヴォルフガング・トネドイツドイツ空軍122[8]
ハインツ・マルカルトドイツドイツ空軍121[8]
ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファードイツドイツ空軍121[9]通称「サン・トロンの幽霊」。夜戦撃墜数では史上最多。
ローベルト・ヴァイスドイツドイツ空軍121[8]
フリードリヒ・オプレーザードイツドイツ空軍120[8]
エーリヒ・ライエドイツドイツ空軍118[8]
フランツ=ヨーゼフ・ベーレンブロクドイツドイツ空軍117[8]
ハンス=ヨアヒム・ビルクナードイツドイツ空軍117[8]
ヤコプ・ノルツドイツドイツ空軍117[8]
ヴァルター・エーザウドイツドイツ空軍117[8]
ハインツ・ヴェルニッケドイツドイツ空軍117[8]
アウグスト・ランベルトドイツドイツ空軍116[8]
ヴィルヘルム・クリニウスドイツドイツ空軍114[8]
ヴェルナー・シュレーアドイツドイツ空軍114[10]
ハンス・ダンマースドイツドイツ空軍113[10]ソ連2位の撃墜数を誇るアレクサンドル・ポクルィシュキンに撃墜されるも生還。
ベルトルト・コルツドイツドイツ空軍113[10]
クルト・ビューリゲンドイツドイツ空軍112[10]
クルト・ウッベンドイツドイツ空軍111[11]
ヘルムート・レントドイツドイツ空軍110[9]夜戦撃墜数ではドイツ空軍において第2位。
フランツ・ヴォイディヒドイツドイツ空軍110[10]
エミール・ビッシュドイツドイツ空軍108[10]
ハンス・ハーンドイツドイツ空軍108[10]通称「アッシ」。
ベルンハルト・フェクテルドイツドイツ空軍108[10]
ヴィクトール・バウアードイツドイツ空軍106[10]
ヴェルナー・ルーカスドイツドイツ空軍106[10]
ギュンター・リュッツオウドイツドイツ空軍105[12]
アドルフ・ガーランドドイツドイツ空軍104[10]ドイツ空軍戦闘機隊総監。JV44「騎士鉄十字勲章部隊」の指揮官。
エーベルハルト・フォン・ボレムスキドイツドイツ空軍90[13]とも104とも[14]
ハインツ・ザクセンベルクドイツドイツ空軍104[10]
ハルトマン・グラッサードイツドイツ空軍103[10]
ジークフリート・フライタークドイツドイツ空軍102[15]
フリードリヒ・ガイスハルトドイツドイツ空軍102[15]
エゴン・マイヤードイツドイツ空軍102[15]
マックス=ヘルムート・オステルマンドイツドイツ空軍102[15]
ヨーゼフ・ヴュルムヘラードイツドイツ空軍102[15]通称「ゼップ」。
ルドルフ・ミーティクドイツドイツ空軍101[15]
ヴェルナー・メルダースドイツドイツ空軍101[8]生涯通算撃墜数は115機(スペイン内戦で14機撃墜[16])。
ヨーゼフ・プリラードイツドイツ空軍101[15]ノルマンディー上陸作戦当日に上陸阻止に出た戦闘機(2機)の隊長機を操縦。
ウルリヒ・ヴェルニッツドイツドイツ空軍101[15]
ラインハルト・ザイラードイツドイツ空軍100[10]スペイン内戦で9機撃墜[16]
パウル=ハインリヒ・デーネドイツドイツ空軍100[17]通称「ザロッティ」。
ハインリヒ・バーテルスドイツドイツ空軍99[15]
レオポルト・シュツィンバッツドイツドイツ空軍99[15]
ヴォルフガング・シュペーテドイツドイツ空軍99[15]世界初にして唯一のロケット戦闘機実戦部隊司令を務めた。
ハンス・シュレーフドイツドイツ空軍98[18]
ホルスト・ハンニクドイツドイツ空軍98[15]
グスタフ・レーデルドイツドイツ空軍98[15]
ヘルムート・レフラードイツドイツ空軍98[15]
ヘルムート・メルテンスドイツドイツ空軍97[18]
ヘルマン・シュラインヘーゲドイツドイツ空軍97[19]
ハインリヒ・ホフェメイアードイツドイツ空軍96[18][19]
ジークフリート・レムケドイツドイツ空軍96[18]
ディートヘルム・フォン・アイフェル=ストライバードイツドイツ空軍96[18][19]
レオポルト・ミュンスタードイツドイツ空軍95[18][19]
アントーン・デーベレドイツドイツ空軍94[18][19]
ハインリヒ・クレッペルドイツドイツ空軍94[18][19]
ルドルフ・ミュラードイツドイツ空軍94[18][19]101機撃墜の可能性あり[20]
ルドルフ・レッシュドイツドイツ空軍93[18][19]スペイン内戦で1機撃墜。
エドムント・ロスマンドイツドイツ空軍93[18][19]エーリヒ・ハルトマンの最初の編隊長機。
ジークフリート・シュネルドイツドイツ空軍93[18][19]
ヘルムート・ベンネマンドイツドイツ空軍93[19]
オスカー・ロムドイツドイツ空軍92[18]
ゲルハルト・ルースドイツドイツ空軍92[18]
アントーン・レッシュドイツドイツ空軍91[18]
ゲオルグ・シェントケドイツドイツ空軍90[19]87機撃墜とも[13]
ハインツ・ケメスミュラードイツドイツ空軍89[13][19]
ヨーゼフ・イェンネヴァインドイツドイツ空軍86[13][19]1939年アルペンスキー世界選手権アルペン複合金メダリスト。
アントーン・マダードイツドイツ空軍86[13][19]
ウルリヒ・ヴェーネルトドイツドイツ空軍86[13]
ゲルハルト・ケッペンドイツドイツ空軍85[13][19]
ヴァルター・ツェロットドイツドイツ空軍85[13][19]
ヴェルナー・クァストドイツドイツ空軍84[13][19]
ハインツ・エヴァルトドイツドイツ空軍84[13][19]
ペーター・カルデンドイツドイツ空軍84[13]
ハインリヒ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインドイツドイツ空軍83[9]夜間戦闘における撃墜記録はドイツ空軍で第3位。
オットー・ヴェスリンクドイツドイツ空軍83[13][19]
フランツ・ベイエルドイツドイツ空軍83[19]
ヴァルター・オーロッゲドイツドイツ空軍83[13]
ハンス・ゲッツドイツドイツ空軍82[13]
ハンス・グリューンベルグドイツドイツ空軍82[13]
ヘルムート・ミスナードイツドイツ空軍82[13]
エミール・ダーイェスドイツドイツ空軍82[19]
フーゴ・ブロッホドイツドイツ空軍81[21]2020年現在存命。
ヴィリー・ネーミッツドイツドイツ空軍81[21]
ヴィルヘルム・フィリップドイツドイツ空軍81[21]
ルドルフ・ヴァグナードイツドイツ空軍81[21]
マックス=ヘルマン・レッケドイツドイツ空軍81[21]
ヘルベルト・バフニックドイツドイツ空軍80[21]
オットー・ヴェーフェルドイツドイツ空軍79[21]
ゲオルグ=ペーター・エーダードイツドイツ空軍78[21]通称「ショルシュ」。
ハインリヒ・クラフトドイツドイツ空軍78[21]通称「ガウディ」。
カール=ゴットフリート・ノルトマンドイツドイツ空軍78[21]
ヴォルフガング・エヴァルトドイツドイツ空軍78[21]
アレクサンダー・プラインファルクドイツドイツ空軍78[21]
ヨハン=ヘルマン・マイアードイツドイツ空軍78[21]
フーベルタス・フォン・ボニンドイツドイツ空軍77[21]内4機がスペイン内戦
ヨーゼフ・ハイベックドイツドイツ空軍77[21]
ハンス=ヨアヒム・クロシンスキドイツドイツ空軍76[21]
マキシミリアン・マイエールドイツドイツ空軍76[21]
アルフレット・トイメルドイツドイツ空軍76[22]
エドヴィン・ティールドイツドイツ空軍76[22]
ヘルムート・グロールムスドイツドイツ空軍75[22]
ハンス・レーリクドイツドイツ空軍75[22]
ヨアヒム・ヴァンデルドイツドイツ空軍75[22]
ヨハネス・ブンツェクドイツドイツ空軍75[22]
グスタフ・フリーリンガウスドイツドイツ空軍74[22]
フリードリヒ・ハースドイツドイツ空軍74[22]
アントーン・リンドナードイツドイツ空軍73[22]
オットー・シュルツドイツドイツ空軍73[22]
ゲルハルト・ミヒャルスキドイツドイツ空軍73[22]
ヴィルヘルム・ハージェットドイツドイツ空軍72[9]
クラウス・ミーテュシュドイツドイツ空軍72[22]
ヴィルヘルム・ミンクドイツドイツ空軍72[22][23]
カール・ハインツ・シュネルドイツドイツ空軍72[22][23]
アドルフ・グルンツドイツドイツ空軍71[22][23]
ハンス・フースドイツドイツ空軍71[24][23]
アルフレット・ヘックマンドイツドイツ空軍71[24]
ギュンター・シェールドイツドイツ空軍71[24]
ヘルベルト・ロールヴェイジドイツドイツ空軍71[25]
ヘルマン=フリードリヒ・ヨッピーンドイツドイツ空軍70[24]通称「ユップ」。
ハインツ・ランゲドイツドイツ空軍70[24]
ルーディ・リンツドイツドイツ空軍70[24]
エミール・オーメルトドイツドイツ空軍70[24]
エルンスト・ヴァイズマンドイツドイツ空軍69[24]
オイゲン=ルートヴィヒ・ツヴァイガルトドイツドイツ空軍69[24]
クルト・ドンバファードイツドイツ空軍68[24]
ヘルベルト・フッペルツドイツドイツ空軍68[24]
ヴァルター・ヘックナードイツドイツ空軍68[24]
エルンスト・ズッスドイツドイツ空軍68[26]
ハインリヒ・ユンクドイツドイツ空軍68[24]
ヘルベルト・カイザードイツドイツ空軍68[26]
リヒャルト・レップラドイツドイツ空軍68[26]
フリッツ・ロージヒカイトドイツドイツ空軍68[26]
ギュンター・フォン・マルツァーンドイツドイツ空軍68[24]
ハンス・シュトレロヴドイツドイツ空軍68[24]ドイツ最年少、19歳にして柏葉付騎士鉄十字章を受章している。
オットー・タンゲドイツドイツ空軍68[26]
クルト・ダンバッハドイツドイツ空軍68[24]
カール・ハンメールドイツドイツ空軍68[27]
グスタフ・デンクドイツドイツ空軍67[26]
フリッツ・ディンガードイツドイツ空軍67[26]
ヘルベルト・フィンダイゼンドイツドイツ空軍67[26]
ラインホルト・ホフマンドイツドイツ空軍67[28]
エルボ・グラーフ・フォン・カーゲネックドイツドイツ空軍67[26]
フランツ・シースドイツドイツ空軍67[26][29]
フランツ・シュヴァイガードイツドイツ空軍67[26][29]
フーベルト・シュトラスルドイツドイツ空軍67[30][29]
ヴェルナー・シュトライプドイツドイツ空軍66[9][29]
ヴァルデマー・ゼメルカドイツドイツ空軍65[31]
ハインリヒ・フュルグラーベドイツドイツ空軍65[31]
ギュンター・ラドゥシュドイツドイツ空軍64通称「フィップス」。
ハインツ・レッカードイツドイツ空軍64[32]
カール・フッフスドイツドイツ空軍64[33]
エイノ・コルドドイツドイツ空軍62[29]
ゲルハルト・ベウティンドイツドイツ空軍60[34][29]
ホルスト・ガルガニコドイツドイツ空軍60[35][29]
フランツ・チェクドイツドイツ空軍60[29]
ハンス=エッケハルト・ボプドイツドイツ空軍60[36][29]
フランツ・フルドリッカドイツドイツ空軍6096機撃墜の可能性あり[37][19]
ハンス=アーノルド・スタールシュミットドイツドイツ空軍59[38]
パウル・ツォルナードイツドイツ空軍59[32]
ハーマン・ブフナードイツドイツ空軍58[39]
マーチン・ベッカードイツドイツ空軍58[32]
ヘルベルト・ブロンヌドイツドイツ空軍58[40]
ルッツ・ヴィルヘルム・ブルクハルトドイツドイツ空軍57機以上?[41]
ハインリヒ=ヴィルヘルム・アーネルトドイツドイツ空軍57[42]
コンラート・バウアードイツドイツ空軍57[43]
ヘルムート・ヴィックドイツドイツ空軍56[44]戦死時にはドイツ空軍のトップ・エースで最年少の戦闘航空団司令
ヴィルヘルム=フェルディナント・ガーランドドイツドイツ空軍55[45]アドルフ・ガーランドの弟。
ヘルベルト・バロイテアドイツドイツ空軍55[46]
ハンス・エーラスドイツドイツ空軍55[47]
ヨハン・バダムドイツドイツ空軍54[48]
ジークフリート・ジムシュドイツドイツ空軍54[49]
ハンネス・トラウトロフトドイツドイツ空軍53[50]スペイン内戦で5機撃墜。
アルベルト・ブルンナードイツドイツ空軍53[51]
フランツ・バルテンドイツドイツ空軍52[43]
マルティン・ドレーヴェスドイツドイツ空軍52[32]
ハインツ・エドガー・バーレスドイツドイツ空軍52[52]
エグモント・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルトドイツドイツ空軍51[32]通称「エギ」。
ハンス=ヨアヒム・ヤープスドイツドイツ空軍50[53]
クルト・ヴェルタードイツドイツ空軍50[53]

50機以上撃墜の可能性あり[53]

ヴァルター・ボチャーズドイツドイツ空軍59機撃墜の可能性あり[14]|
ハインツ・アーノルドドイツドイツ空軍48[42]
フリードリヒ・ベックードイツドイツ空軍48[43]
ハンス・ハインツ・アウゲンシュタインドイツドイツ空軍46[53]
ルートヴィヒ・ベッカードイツドイツ空軍46[53]
ウォルフガング・ボイング・トレウディングドイツドイツ空軍46
カール・シューネラードイツドイツ空軍45[54]ヴァルター・ノヴォトニーの僚機を務めていたことでも知られる。
ヒューゴ・ダーマードイツドイツ空軍45[55]
ゲルハルト・シュプフェルドイツドイツ空軍45[56]
ヴァルター・ヴェーファードイツドイツ空軍44[57]
カール・ボリスドイツドイツ空軍43[58]
ルードヴィヒ・フランチスケトドイツドイツ空軍43[59]
ノルベルト・ハンニックドイツドイツ空軍42[27]
ユルゲン・ブロッケドイツドイツ空軍42[40]
ヴァルター・ブラントドイツドイツ空軍42[51]
ローベルト・オレイニクドイツドイツ空軍42[60]
エムンスト・ベルンゲンドイツドイツ空軍41[36]
ヴェルナー・バアクドイツドイツ空軍41[53]
ヴィルヘルム・バルタザールドイツドイツ空軍40スペイン内戦で7機撃墜。
エッカート・ヴィルヘルム・フォン・ボニンドイツドイツ空軍39[61]フーベルタス・フォン・ボニンの弟。
エデュアルト・トラットドイツドイツ空軍38[62]
ペーター・ブレマードイツドイツ空軍38[51]
ハインツ・ブレタナッツドイツドイツ空軍37[63]
クラウス・ノイマンドイツドイツ空軍37[64]
ハインツ・クノーケドイツドイツ空軍33[65]
ギュンター・ヴェグマンドイツドイツ空軍33[34]
フリードリヒ=カール・ミュラードイツドイツ空軍30[66]
ハンス=カール・マイヤードイツドイツ空軍31[67]スペイン内戦で8機撃墜。
エリック・バルツドイツドイツ空軍30[68]
パウル・ブラントドイツドイツ空軍30[58]
フランツ・ブラジーコドイツドイツ空軍30[34]
カール=ハインツ・ランガードイツドイツ空軍30[69]
ギュンター・ベルトラムドイツドイツ空軍29[34]
アントン・ベニングドイツドイツ空軍28[70][66]通称「トニ」。
ハンス・ハインリヒ・ケーニヒドイツドイツ空軍28[71]
エルンスト・アンドレスドイツドイツ空軍28
アルフレート・バルクドイツドイツ空軍28
ホルスト・リッパートドイツドイツ空軍28星の王子さま』作者としても知られる自由フランス空軍少佐アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリを撃墜したと証言、但し戦後引き上げられた偵察機に弾痕はなかった。
マックス・ブッフホルツドイツドイツ空軍28[41]
ヴィリ・レシュケドイツドイツ空軍28[72]2017年7月5日没。
ルドルフ・ブッシュドイツドイツ空軍27機以上撃墜の可能性あり
ハインツ・バイエルドイツドイツ空軍27[34]
フランツ・スティグラードイツドイツ空軍26[30]チャーリー・ブラウンとフランツ・スティグラー事件のドイツ側当事者。
エミール・クレイドドイツドイツ空軍26[41]
ヴォルフガング・リッパートドイツドイツ空軍25[73]スペイン内戦で5機撃墜。
エゴン・アルブレヒトドイツドイツ空軍25[74]
ルートヴィヒ・ベロフドイツドイツ空軍25
ハリー・フォン・ビューロウ=ボートカンプドイツドイツ空軍24第一次大戦にも従軍。生涯撃墜数30機。
ヴァルター・アドルフドイツドイツ空軍24[74]スペイン内戦で1機撃墜。4機も未公認。
ロルフ・カルトラックドイツドイツ空軍24[75]内、スペイン内戦 3機撃墜
フリッツ・ミュラードイツドイツ空軍23[76]
ロルフ・ピンゲルドイツドイツ空軍22[77]スペイン内戦で6機撃墜。
アルトュル・ベーゼドイツドイツ空軍22[78]
フランツ・フォン・ヴェラドイツドイツ空軍21[79]カナダの捕虜収容所を脱走してドイツ本国へ無事帰還したことで知られる。
ヘルムート・フェリクス・ボルツドイツドイツ空軍20スペイン内戦で3機撃墜。
ハンス・バルシュヴィンガードイツドイツ空軍20
ハインツ・ヘルムート・バウダッハドイツドイツ空軍20
パウル・ベッカードイツドイツ空軍19[78]
テオドール・ロジヴァルオーストリアドイツ空軍17[80]スペイン内戦で2機撃墜。
パウル・ガーランドドイツドイツ空軍17[33]アドルフ・ガーランドの弟。
ヨハン・シャルクオーストリアドイツ空軍15最初のドイツ空軍名誉杯受章者
ソーフス・バーグドイツドイツ空軍14
ギュンター・ヴェークマンドイツドイツ空軍14[81]
ヴォルフガング・シェルマンドイツドイツ空軍13スペイン内戦で12機撃墜。
ヴァルター・グラブマンドイツドイツ空軍13スペイン内戦で7機撃墜。
エーリヒ・グロートドイツドイツ空軍13
ヨーゼフ・カイルドイツドイツ空軍12フォッケウルフ Ta152で5機を撃墜。本機種では唯一のエース。
ハインツ・ナッケドイツドイツ空軍12
ピーター・ホーンデンマークドイツ空軍10〜11ドイツ空軍に所属したデンマーク人としてはトップエース。
イロ・イルクドイツドイツ空軍10
ハンス・ウルリッヒ・ルーデルドイツドイツ空軍9騎士鉄十字章の最高位勲章「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」の唯一の受賞者。通称「ソ連人民最大の敵」「スツーカ大佐」。本来は急降下爆撃機のパイロットである。撃墜戦果はFw190と、スツーカG型に搭載されていた37mm砲によるもの。また、対空砲による被撃墜も30回記録されている。なお、本人は戦果贈与・過小報告、無断出撃を繰り返していた為、実際には9機以上撃墜している可能性がある。
ヴィクトル・メルダースドイツドイツ空軍9ヴェルナー・メルダースの3つ違いの弟
エーリヒ・ビュットナードイツドイツ空軍8
エーリヒ・ミックスドイツドイツ空軍8戦後、ヴィースバーデン市長に就任(1954年2月25日 - 1960年2月25日)。
ハンス・ディーター・ヴァイスドイツドイツ空軍8
ローレンツ・アンダーソンドイツドイツ空軍8
ヘルムート・レンナルツドイツドイツ空軍8[82]8機以上撃墜の可能性あり
ヴォルフガング・ファルクドイツドイツ空軍7「夜間戦闘機隊の父」
アルフレート・アンブスドイツドイツ空軍7[83]
カール・ハインツ・ベッカードイツドイツ空軍7
ヘルムート・エバスペヒャードイツドイツ空軍7
フランツ・コスタードイツドイツ空軍7
テオドール・オステルカンプドイツドイツ空軍6第一次世界大戦で32機撃墜。
ペーター・アンデルドイツドイツ空軍6
ヨーゼフ・ハイムドイツドイツ空軍5
アルフレート・シュライバードイツドイツ空軍5
ウルリヒ・シュタインヒルパードイツドイツ空軍5
上坊良太郎日本大日本帝国陸軍76日本陸軍のトップ・エース。うち12機はB-29
篠原弘道日本大日本帝国陸軍58通称「東洋のリヒトホーフェン」。ノモンハン事変における最多撃墜者
穴吹智日本大日本帝国陸軍51通称「白色電光戦闘穴吹」「運の穴吹」「ビルマの桃太郎」。飛行第50戦隊三羽烏の一人。
坂川敏雄日本大日本帝国陸軍49+
仲田義彦日本大日本帝国陸軍45+
尾崎中和日本大日本帝国陸軍40+通称「B-24撃墜王」。
神戸登日本大日本帝国陸軍40+
島田健二日本大日本帝国陸軍40通称「紅脚の荒鷲」。
佐々木勇日本大日本帝国陸軍38+通称「腕の佐々木」。飛行第50戦隊三羽烏の一人。陸軍航空審査部のテスト・パイロットとしても活躍。
垂井光義日本大日本帝国陸軍38
黒木為義日本大日本帝国陸軍33
安間克己日本大日本帝国陸軍32
金井守告日本大日本帝国陸軍32ノモンハン航空戦当時は篠原弘道の僚機を多く務めた。
樫出勇日本大日本帝国陸軍32B-29最多撃墜者(26機)。愛機は二式複座戦闘機。所属部隊は「屠龍部隊」の通称で知られる飛行第4戦隊
古賀貞日本大日本帝国陸軍31
黒江保彦日本大日本帝国陸軍30+通称「魔のクロエ」。陸軍航空審査部テスト・パイロットとしても活躍。
安田義人日本大日本帝国陸軍30+
竹内正吾日本大日本帝国陸軍30+ニューギニア戦線トップ・エース。愛機の三式戦闘機「飛燕」に、パーソナルマーク・撃墜マークとして「赤鷲・赤鷲の片翼(飛行第64戦隊附時代のもの)」を描いていたことでも有名。
小野崎凞日本大日本帝国陸軍28
青柳豊日本大日本帝国陸軍28
隅野五市日本大日本帝国陸軍27
木村孝二日本大日本帝国陸軍26
宮本五郎日本大日本帝国陸軍26
吉良勝秋日本大日本帝国陸軍25
原口吉五郎日本大日本帝国陸軍24
花田富男日本大日本帝国陸軍23
大塚善三郎日本大日本帝国陸軍23
加藤正治日本大日本帝国陸軍23
石塚徳康日本大日本帝国陸軍23
青木根晳韓国大日本帝国陸軍23本名李根晳。日中戦線で18機、南方戦線で5機撃墜。後の韓国空軍創設メンバーの一人。
梶並進日本大日本帝国陸軍22
木村定光日本大日本帝国陸軍22樫出勇と並び称されるB-29撃墜王。
岩橋譲三日本大日本帝国陸軍21愛称「ガンちゃん」。開発当初から四式戦闘機「疾風」のテスト・パイロットを務め、同機を装備し「菊水紋」を部隊マークとした飛行第22戦隊長となった。
東郷三郎日本大日本帝国陸軍21
南郷茂男日本大日本帝国陸軍20+ニューギニアは南郷で保つ」と謳われた。日中戦争で戦死した海軍の南郷茂章を兄にもつ、兄弟エース・パイロット。
斎藤千代治日本大日本帝国陸軍20+
斎藤正吾日本大日本帝国陸軍20+
石川貫之日本大日本帝国陸軍19飛行第246戦隊長を務め、戦後は第10代航空幕僚長
大房養次郎日本大日本帝国陸軍19
山口文一日本大日本帝国陸軍19
加藤建夫日本大日本帝国陸軍18+通称「軍神加藤少将」「隼戦闘隊長」。一式戦闘機「隼」を装備した飛行第64戦隊「加藤隼戦闘隊戦隊長として、太平洋戦時当時の日本国内において最も有名なエース・パイロット。
若松幸禧日本大日本帝国陸軍18+通称「赤鼻のエース」「赤ダルマ隊長」「マスタング・キラー」。一兵卒から佐官にまで昇進した。
下川幸雄日本大日本帝国陸軍16通称「度胸の下川」。飛行第50戦隊三羽烏の一人。
中村三郎日本大日本帝国陸軍15
広畑富男日本大日本帝国陸軍14愛機の一式戦「隼」の胴体横に、パーソナルマークとして大きく「飛翔する鳥」を描いていたことでも有名。
伊藤藤太郎日本大日本帝国陸軍13+撃墜スコアの全てが四発爆撃機(B-24およびB-29)。二式複座戦闘機を愛機とした。
白井長雄日本大日本帝国陸軍13飛行第244戦隊のトップ・エース。
宮辺英夫日本大日本帝国陸軍12+飛行第64戦隊最後の戦隊長。
池沢十四三日本大日本帝国陸軍12
小林照彦日本大日本帝国陸軍12[84]
小林初優日本大日本帝国陸軍12撃墜記録の全てがB-29のエース。
檜與平日本大日本帝国陸軍12通称「鉄脚のエース」「隻脚のエース」「義足のエース」。右足義足のエース。
四至本広之烝日本大日本帝国陸軍11飛行第1戦隊最後の戦隊長。
市川忠一日本大日本帝国陸軍10
小川誠日本大日本帝国陸軍9「翼を広げた鷲」の撃墜マークで有名。
小田喜一日本大日本帝国陸軍9
坂井菴日本大日本帝国陸軍915機説あり。
広瀬吉雄日本大日本帝国陸軍9
金丸貞三日本大日本帝国陸軍8
池田赳夫日本大日本帝国陸軍7+異例の陸海軍航空科。特務試作機パイロット。
吉田好雄日本大日本帝国陸軍6+「翼を生やしたB29の文字(官姓名と撃墜日付を併記)」の撃墜マークでも有名。
鷲見忠夫日本大日本帝国陸軍6うち5機はB29
佐伯虎吉日本大日本帝国陸軍5二式複座戦闘機搭乗員。後部機銃座の所澤龍之介は個人撃墜2機。
岩本徹三日本大日本帝国海軍202(単独80機以上)「零戦虎徹」。202機は本人の手記による。この他中国戦線で14機を撃墜。戦果の大半はラバウルで、4発重爆を含む確実141機を報告している。
西沢広義日本大日本帝国海軍143 (単独87機とも36機とも)数字は公認記録。通称「ラバウルの魔王」。
福本繁夫日本大日本帝国海軍72
杉田庄一日本大日本帝国海軍70通称「闘魂の塊」。 「海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のひとり。
奥村武雄日本大日本帝国海軍54
大原亮治日本大日本帝国海軍48
藤田怡与蔵日本大日本帝国海軍39ミッドウェイ海戦において一日で10機を撃墜した記録を持つ。
太田敏夫日本大日本帝国海軍34
杉野計雄日本大日本帝国海軍32
武藤金義日本大日本帝国海軍30通称「空の宮本武蔵」。愛称は「ムトキンさん」。
坂井三郎日本大日本帝国海軍28数字は公認記録。アメリカで出版された「SAMURAI」の共同著者が宮本武蔵の故事から創作した64の撃墜数も知られている。坂井自身は20機から80機ぐらいと答えている。
笹井醇一日本大日本帝国海軍27数字は公認記録。共同撃墜は187機。通称「軍鶏」「ラバウルの貴公子」「ラバウルのリヒトホーフェン」。戦死直前に実家に宛てて送った手紙の中では54機撃墜と記す。
赤松貞明日本大日本帝国海軍27愛称「松ちゃん」。酒に酔った際には「350機墜とした」、素面の時は「260機墜とした」と言い続けた。
荻谷信男日本大日本帝国海軍26
菅野直日本大日本帝国海軍25通称「ブルドッグ」。協同戦果や撃破を含めた数は72機。
伊藤清日本大日本帝国海軍23
岩井勉日本大日本帝国海軍22重慶での零戦初空戦に参加。通称「ゼロファイターゴッド」。
日高義巳日本大日本帝国海軍20海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のひとり。
羽藤一志日本大日本帝国海軍19通称「ポッポ」。
松場秋夫日本大日本帝国海軍18
小町定日本大日本帝国海軍1832機撃墜説あり。
谷水竹雄日本大日本帝国海軍18「アメリカ軍機の国籍標識に矢」という撃墜マークで戦後有名に。実際の撃墜数は32機ともいわれる。
塩川照成日本大日本帝国海軍18被撃墜2回、生還。
本田稔日本大日本帝国海軍172021年没
増山正男日本大日本帝国海軍17
甲木清実日本大日本帝国海軍16水上機で体当たり1機を含む5機~7機を撃墜。零観、二式水戦など多くの機種を乗りこなした。
宮野善治郎日本大日本帝国海軍16
渡辺秀夫日本大日本帝国海軍16
南義美日本大日本帝国海軍15
遠藤桝秋日本大日本帝国海軍14
羽切松雄日本大日本帝国海軍13通称「ヒゲの羽切」。
古賀清澄日本大日本帝国海軍13海軍航空隊最初のエース・パイロット。
樫村寛一日本大日本帝国海軍13「片翼帰還の樫村」の二つ名で有名。公認記録は10機。
小高登貫日本大日本帝国海軍13通称「トッカン兵曹」。協同撃墜を含めた総合戦果は105機といわれる。
半田亘理日本大日本帝国海軍13
宮崎勇日本大日本帝国海軍13
近藤政市日本大日本帝国海軍13
磯崎千利日本大日本帝国海軍12
角田和男日本大日本帝国海軍12他に日中戦争で1機。
佐々木原正夫日本大日本帝国海軍12
日高初男日本大日本帝国海軍11
山下小四郎日本大日本帝国海軍11重慶における零戦初空戦において一挙5機を撃墜。
山本一郎日本大日本帝国海軍11
相生高秀日本大日本帝国海軍10
笠井智一日本大日本帝国海軍10杉田庄一の僚機を務めていたことでも知られる。2021年没
望月勇日本大日本帝国海軍10空中戦における「ひねりこみ戦法」の開発者。
森貢日本大日本帝国海軍9+
白根斐夫日本大日本帝国海軍9白根竹介の息子。
小田喜一日本大日本帝国海軍9
原田要日本大日本帝国海軍9
福井義男日本大日本帝国海軍9日中戦争では2機撃墜。
柳谷謙治日本大日本帝国海軍8海軍甲事件」における6機の護衛戦闘機搭乗員のうち、唯一終戦まで生き残った。
蝶野仁郎日本大日本帝国海軍7
鴛淵孝日本大日本帝国海軍6
黒鳥四朗日本大日本帝国海軍6撃墜は全てB-29である。昭和20年5月25日、一夜にしてB-29を5機撃墜。
柿本円次日本大日本帝国海軍5開戦後豪州軍の捕虜となり、カウラ事件指導者の一人となる。
兼子正日本大日本帝国海軍5日中戦争での撃墜数を含めれば生涯撃墜数14機。
鈴木實日本大日本帝国海軍5日中戦争でも3機を撃墜。
森岡寛日本大日本帝国海軍5「義手の撃墜王」 。本土防空戦で左手を失うも義手を装着し戦闘に復帰。1945年8月15日に5機目の撃墜戦果を挙げ、海軍最後の撃墜王となった。
林喜重日本大日本帝国海軍5
イルマリ・ユーティライネンフィンランドフィンランド空軍94通称「無傷の撃墜王」。
ハンス・ウィンドフィンランドフィンランド空軍75
エイノ・アンテロ・ルーッカネンフィンランドフィンランド空軍56
ウルホ・サカリ・レヘトヴァーラフィンランドフィンランド空軍44+12記録によっては下記のオイヴァ・トゥオミネンと順位が前後する。
オイヴァ・トゥオミネンフィンランドフィンランド空軍44
オリ・ブハーカフィンランドフィンランド空軍41
ニルス・カタヤイネンフィンランドフィンランド空軍35+12通称「ついてないカタヤイネン」。
ラウリ・ニッシネンフィンランドフィンランド空軍28+12
ラウリ・ペクリフィンランドフィンランド空軍18+12
ヨルマ・サルヴァントフィンランドフィンランド空軍174分間で6機の爆撃機を撃墜。
イヴァーン・コジェドゥーブソビエト連邦赤色空軍62
アレクサンドル・ポクルィシュキンソビエト連邦赤色空軍59
ニコライ・グライエフソビエト連邦赤色空軍57射撃の名手。砲術士として乗り組んだ時の撃墜数は14機。
グリゴーリー・レチカロフソビエト連邦赤色空軍56
キリル・イェフスティグニェフソビエト連邦赤色空軍53
アルセニー・ヴォロジェーイキンソビエト連邦赤色空軍52
ディミトリー・グリンカソビエト連邦赤色空軍50
アレクサンドル・コルドゥノーフソビエト連邦赤色空軍46
ニコライ・スコモローホフソビエト連邦赤色空軍46
ウラジーミル・ボブロフソビエト連邦赤色空軍43
ゲオルギー・コストゥイレフソビエト連邦赤色空軍43
ヴィタリー・ポプコフソビエト連邦赤色空軍41
アレクセイ・アレリューヒンソビエト連邦赤色空軍40
ウラジーミル・セロフソビエト連邦赤色空軍39
ワシーリー・ゴルベフソビエト連邦赤色空軍39
ピョートル・ポクルィシェフソビエト連邦赤色空軍38
イヴァン・ババークソビエト連邦赤色空軍37
セルゲイ・ルガンスキーソビエト連邦赤色空軍37
アナトリー・ドルギフソビエト連邦赤色空軍36
イヴァン・フョードロフソビエト連邦赤色空軍36
パーヴェル・カモジンソビエト連邦赤色空軍35
ウラジーミル・ラヴリネンコフソビエト連邦赤色空軍35
アレクセイ・レシェトフソビエト連邦赤色空軍35
フョードル・チュブコフソビエト連邦赤色空軍34
ピョートル・グニドソビエト連邦赤色空軍34
アレクサンドル・コチェトフソビエト連邦赤色空軍34
イヴァン・スィトフソビエト連邦赤色空軍34
アレクセイ・スミルノフソビエト連邦赤色空軍34
ワシーリー・ザイツェフソビエト連邦赤色空軍34
ミハイル・コメルコフソビエト連邦赤色空軍33
イヴァン・ステパネンコソビエト連邦赤色空軍33
アンドレイ・ボロヴィフソビエト連邦赤色空軍32
ニコライ・クラスノフソビエト連邦赤色空軍32
アンドレイ・クラーギンソビエト連邦赤色空軍32
アレクセイ・リャザーノフソビエト連邦赤色空軍32
ミハイル・バラノフソビエト連邦赤色空軍31
パーヴェル・ゴロヴァチョフソビエト連邦赤色空軍31
アレクサンドル・クルボフソビエト連邦赤色空軍31
ワシーリー・マルコフソビエト連邦赤色空軍31
アレクサンドル・シトコフスキーソビエト連邦赤色空軍31
アレクサンドル・クマニチキンソビエト連邦赤色空軍31
アメト=ハン・スルタンソビエト連邦赤色空軍30
フョードル・アルキペンコソビエト連邦赤色空軍30
アレクセイ・チュリーリンソビエト連邦赤色空軍30
ウラジーミル・デニセンコソビエト連邦赤色空軍30
ニコライ・ドゥナエフソビエト連邦赤色空軍30
パーヴェル・タラソフソビエト連邦赤色空軍30
ボリス・サフォーノフソビエト連邦赤色空軍25
セルゲイ・グリツェヴェーツソビエト連邦赤色空軍24スペイン内戦での戦果も合わせると単独・共同合わせ42機。
レフ・シェスタコフソビエト連邦赤色空軍23ルーデルが撃墜したとされるパイロット。第二次大戦では単独撃墜15機、共同撃墜11機の戦果を挙げ、スペイン内戦での戦果を合わせると単独撃墜23機、共同撃墜42機となる。
アレクセイ・リャザンツェフソビエト連邦赤色空軍15単独撃墜15機・共同撃墜1機。
コンスタンティン・コキナキソビエト連邦赤色空軍14日中戦争で個人3・共同4機、第二次大戦で個人4、共同3機。テストパイロットとしても著名。
リディア・リトヴァクソビエト連邦赤色空軍12女性のエース。通称「リーリャ(白ユリ)」「スターリングラードの白薔薇」。
エカテリーナ・ブダノワソビエト連邦赤色空軍11女性のエース。
ニコライ・ヴラソフソビエト連邦赤色空軍10ドイツ軍の捕虜になり、マウトハウゼン強制収容所にて死亡
フランコ・ルッキーニイタリアイタリア空軍26
アドリアーノ・ヴィスコンティイタリアイタリア空軍26
テレシオ・マルティノーリイタリアイタリア空軍23
レオナルド・フェルリイタリアイタリア空軍20
フランコ・ボルドーリ=ビスレッリイタリアイタリア空軍19
フェルナンド・マルヴェッツィイタリアイタリア空軍10
コンスタンティン・カンタクジノルーマニアルーマニア空軍53+1ルーマニア空軍のトップ・エース。
アレクサンドル・シェルバネスクルーマニアルーマニア空軍52連合軍機に対するトップ・エース。
イオアン・ミルルーマニアルーマニア空軍37+1
マト・デュコヴァククロアチアクロアチア独立国空軍44クロアチア人のトップ・エース。
シヴィタン・ガリククロアチアクロアチア独立国空軍38
フランジョ・ディザルクロアチアクロアチア独立国空軍16
アルビン・スターククロアチアクロアチア独立国空軍11
リチャード・ボングアメリカアメリカ陸軍航空軍40第二次世界大戦におけるアメリカ軍のトップ・エース。
トーマス・マクガイアアメリカアメリカ陸軍航空軍38
フランシス・スタンリー・ガブレスキーアメリカアメリカ陸軍航空軍28ポーランド系アメリカ人。ヨーロッパ戦線でのアメリカ軍トップエース。朝鮮戦争ではさらにジェット戦闘機6.5機の撃墜公認がある。
ロバート・サミュエル・ジョンソンアメリカアメリカ陸軍航空軍27近年まで28機撃墜とされていたが、算定方式の違いで27機となった。わずか91回の出撃での記録であり、出撃回数に対する撃墜数はハルトマンよりも上で、世界でもトップクラスである。
ニール・カービィアメリカアメリカ陸軍航空軍22
ジェラルド・R・ジョンソンアメリカアメリカ陸軍航空軍22日本の降伏の翌月、公務移動中の事故により殉職。入間基地の旧称「ジョンソン基地」に名を残す。
デビッド・リー・ヒルアメリカアメリカ合衆国義勇軍/アメリカ陸軍航空軍18アメリカ合衆国義勇軍からアメリカ陸軍航空軍へ移籍。撃墜数のうち6機は陸軍時代のもの
バド・アンダーソンアメリカアメリカ陸軍航空軍16+12
ジョージ・S・ウェルチアメリカアメリカ陸軍航空軍16真珠湾攻撃時に日本軍機を迎撃。後にF-86のテスト・パイロットを務めた。
ロバート・ニールアメリカアメリカ合衆国義勇軍13アメリカ合衆国義勇軍トップエース
チャック・イェーガーアメリカアメリカ陸軍航空軍11+12水平飛行で音速を超えた世界初の人間。ジェット戦闘機初撃墜者。
フレッド・オアメリカアメリカ陸軍航空軍6韓国系アメリカ人。アジア系アメリカ人エースパイロット。
アーサー・チンアメリカ中華民国空軍8+12中国系アメリカ人。第二次世界大戦初のアメリカ人エースパイロット。
デヴィッド・マッキャンベルアメリカアメリカ海軍34アメリカ海軍のトップエース。1944年6月19日のマリアナ沖航空戦においてF6Fで一挙13機を撃墜した。
セシル・E・ハリスアメリカアメリカ海軍24アメリカ海軍第2位。通称「Cece」「Speedbal」。イントレピッド第18戦闘隊に所属し1日に4機撃墜を3回達成している。終戦後は前職である学校教師に戻ったが朝鮮戦争に伴い管理職として復帰している。
ユジン・A・バレンシア Jr.アメリカアメリカ海軍23アメリカ海軍第3位。
アレキサンダー・ブラシウアメリカアメリカ海軍19
コーネリアス・N・ヌーイアメリカアメリカ海軍19通称「Connie」。入隊前はニューヨーク州立農業研究所で園芸を学んでいた。
パトリック・D・フレミングアメリカアメリカ海軍19通称「Pat」。終戦後は空軍に移りテストパイロットを務めた。B-52の最初の事故で死亡している。
エドワード・オヘアアメリカアメリカ海軍7アメリカ海軍初のエース。
ジェームズ・パグ・サザーランドアメリカアメリカ海軍5ガダルカナルにおいてF4Fで坂井三郎の零戦と交戦し撃墜されるも生還、後にエースパイロットとなった。
ジョセフ・フォースアメリカアメリカ海兵隊26公認記録ではアメリカ海兵隊のトップエース。
ロバート・ハンソンアメリカアメリカ海兵隊25
グレゴリー・ボイントンアメリカアメリカ海兵隊22(28)アメリカ海兵隊の公認記録は22機。
ケネス・ウォルシュアメリカアメリカ海兵隊21
ドナルド・N・アルドリッチアメリカアメリカ海兵隊20
ジョン・L・スミスアメリカアメリカ海兵隊19
マリオン・カールアメリカアメリカ海兵隊18+12日本軍のエース笹井醇一中尉の撃墜で知られる。
ジョニー・ジョンソンイギリスイギリス空軍38公認記録では英空軍トップエース。
ロバート・ローランド・スタンフォード・タックイギリスイギリス空軍29通称「不死身のタック」。
ネヴィル・デュークイギリスイギリス空軍29
ジェームズ・ヘンリー・レイシーイギリスイギリス空軍28
ジョージ・ギルロイイギリスイギリス空軍25
ダグラス・バーダーイギリスイギリス空軍23通称「足無しバーダー」。両足義足のエース。
ジェイムズ・ランキンイギリスイギリス空軍22
ジョン・カニンガムイギリスイギリス空軍20
ロバート・ドウイギリスイギリス空軍16
ジョン・チャールズ・ダンダスイギリスイギリス空軍16当時ドイツ空軍トップエースであったヘルムート・ヴィックを撃墜したことで有名。直後にヴィックの僚機に撃墜され戦死した。
ジョージ・アンウィンイギリスイギリス空軍15
テッド・ソーンイギリスイギリス空軍12戦果は全てデファイアントによるもので、後部機銃手のF・J・バーカーとの共同戦果。
ピーター・タウンゼントイギリスイギリス空軍11戦後マーガレット王女とのスキャンダルで有名に。
ヒュー・スペンサー・ライル・ダンダスイギリスイギリス空軍10愛称「コッキー」。ジョン・チャールズ・ダンダスの弟で、兄弟でエース。
ゴードン・コンウェイイギリスイギリス空軍7愛称「コニー」。
ロアルド・ダールイギリスイギリス空軍5戦後は小説家として「チョコレート工場の秘密」(「チャーリーとチョコレート工場」原作)などを著し、また映画「007は二度死ぬ」「チキ・チキ・バン・バン」の脚本を手掛けた。
ブレンダン・エイモン・ファーガス・フィヌケーンアイルランドイギリス空軍32
ピエール・クロステルマンフランスイギリス空軍33自由フランス政府軍所属・フランス人としてはトップ・エース。
マルセル・アルベールフランスイギリス空軍23東部戦線でソ連側に義勇兵として参戦。
ジャン=フランソワ・ドモゼーフランスイギリス空軍21
ピエール・ル・グローンフランスフランス空軍18
マーマデューク・パトル南アフリカイギリス空軍51+第二次大戦中のイギリス空軍トップ・エース。
アドルフ・マラン南アフリカイギリス空軍32入隊前は船乗りだったことから「セイラー・マラン」の通称がある。空戦の十則で知られる。
ペトルス・フーゴ南アフリカイギリス空軍17
ジョージ・F・バーリングカナダイギリス空軍31通称「スクリューボール」。
ヘンリー・ウォーレス・マクラウドカナダカナダ空軍21
クリブ・コールドウェルオーストラリアオーストラリア空軍28+12オーストラリア人トップ・エース。
ケイス・トレスコットオーストラリアオーストラリア空軍17
エイドリアン・ゴールドスミスオーストラリアオーストラリア空軍17
ジョン・ヤラオーストラリアオーストラリア空軍12
コリン・フォークランド・グレイニュージーランドイギリス空軍27+12ニュージーランド人トップ・エース。
エヴァン・マッキーニュージーランドイギリス空軍20
レイモンド・ヘスリンニュージーランドニュージーランド空軍21+12
アラン・クリストファー・ディーアニュージーランドイギリス空軍22
ブライアン・ジョン・カーベリーニュージーランドイギリス空軍17
ヤン・レジュニャークスロバキアスロバキア空軍32スロバキア人トップ・エース。
イジドル・コヴァーリクスロバキアスロバキア空軍28
ヤーン・ゲルトホフェルスロバキアスロバキア空軍26
セントジェルジ・デジェーハンガリーハンガリー空軍30+12ハンガリー空軍トップ・エース。
デブレーディ・ジェルジハンガリーハンガリー空軍26
トート・ラヨシュハンガリーハンガリー空軍26ハンガリー空軍第3位のエース。通称「ドラム」。158回の出撃で多くの勲章を得、叙勲の高さでは2位。戦後共産主義政権下で投獄、処刑された。
モルナール・ラースローハンガリーハンガリー空軍25+121944年1月8日の一日で4機を撃墜。
ケニェレシュ・ミクローシュハンガリーハンガリー空軍18
ファービアーン・イシュトヴァーンハンガリーハンガリー空軍16+12通称「コポニャ(頭蓋骨)」。他に不確実6機。
ポッチョンディ・ラースローハンガリーハンガリー空軍13一時エーリヒ・ハルトマンの僚機を務めた。
カールマーン・イシュトヴァーンハンガリーハンガリー空軍12
マールナーッシ・フェレンツハンガリーハンガリー空軍11
マーリク・ヨージェフハンガリーハンガリー空軍10+12
ヘッペシュ・アラダールハンガリーハンガリー空軍8通称「老ピューマ」。ハンガリー戦闘機隊の指揮官。
ウーイサースィ・ジェルジハンガリーハンガリー空軍8
スタニスワフ・スカルスキポーランドポーランド空軍22+1112
ヴィトルト・ウルバノヴィチポーランドポーランド空軍18
ボレスワフ・グワディッホポーランドポーランド空軍17
エウゲニウシュ・ホルバチェフスキポーランドポーランド空軍16+12通称「ジュベック」、「ホービー」。
ヤン・ズムバッハポーランドポーランド空軍13
カレル・クテルヴァシェルチェコスロバキアイギリス空軍18 (20?)チェコスロバキア人トップ・エース。
ヨゼフ・フランチシェクチェコスロバキアポーランド空軍17
アロイス・ヴァシャートコチェコスロバキアイギリス空軍17
フランチシェク・ペジナチェコスロバキアチェコスロバキア空軍12後に自由フランス空軍、イギリス空軍にも所属。
イヴァン・デュ・モンソー・ド・ベルジャンダルベルギーベルギー空軍8ベルギー人トップ・エース。
ジャン・オフェンベールベルギーベルギー空軍7通称「パイカー」。他に不確実5、撃破6+12
レミ・ヴァン・リールデベルギーベルギー空軍7他にV-1撃墜40機(第2位)。
ストヤン・ストヤノフブルガリアブルガリア空軍5ブルガリア空軍トップ・エース。
劉粋剛中華民国中華民国空軍13通称「空の趙雲子龍」「紅武士」。自己申告2を含むトップエース。
柳哲生中華民国]中華民国空軍11+13中国空軍公認のトップエース。
王光復中華民国中華民国空軍8+12劉少奇の妻・王光美の兄。
高又新中華民国中華民国空軍8
譚鯤中華民国中華民国空軍8
袁保康中華民国中華民国空軍8
董明徳中華民国中華民国空軍7実際は10機程度にのぼる可能性もある。
周志開中華民国中華民国空軍6中国空軍で最初のP-40エース。
周庭芳中華民国中華民国空軍6
黄新瑞中華民国中華民国空軍6米国籍の華人エース。
楽以琴中華民国中華民国空軍6通称「飛将軍」。中国南宋の武将・岳飛の末裔。
高志航中華民国中華民国空軍5+12通称「空軍戦魂」「東北飛鷹」。空軍第四大隊長。日中戦争において日本軍機を初めて撃墜した。
陳其偉中華民国中華民国空軍5
臧錫蘭中華民国中華民国空軍5
羅英徳中華民国中華民国空軍5
アンドレアス・アントニオウギリシャ王国ギリシャ空軍6ギリシャ空軍トップエース。
ブラム・ヴァン・デル・ストックオランダ王国オランダ空軍6オランダ空軍トップエース。1944年に撃墜され捕虜としてスタラグ・ルフト III収容所に収容されるも集団脱走に参加。脱走者76名の内脱走に成功した3名のうちの1人。
カルロス・ファウスティノスメキシコ合衆国メキシコ空軍6メキシコ空軍トップエース。
ゴンサロ・ヘヴィア・アルバレス・キニョネススペイン王国青戦隊スペイン語版12スペイン空軍トップエース。
マリアノ・クアドラ・メディナスペイン王国青戦隊スペイン語版10後にスペインの空軍大臣
ミリサフ・セミズユーゴスラビアユーゴスラビア王国空軍4第二次世界大戦におけるユーゴスラビア王国空軍のトップエース。エースパイロットの条件をギリギリで満たしていないが、ユーゴスラビア侵攻の12日間に4機を撃墜したことから便宜上、エースとして扱われることもある。
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朝鮮戦争

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朝鮮戦争の撃墜王
氏名国名所属撃墜機数備考
ジョセフ・M・マコーネルアメリカアメリカ空軍16
ジェームズ・ジャバラアメリカアメリカ空軍15第二次世界大戦では1.5機撃墜。
マニョエル・J・フェルナンデスアメリカアメリカ空軍14.5
ジョージ・A・デイビスアメリカアメリカ空軍14第二次世界大戦では7機撃墜。
アイヴン・キンチェローアメリカアメリカ空軍5センチュリーシリーズのテストパイロット。初めて高度10万フィートを超えたことから「"America's No. 1 Spaceman"」との渾名が付けられた。
ガイ・ボーデロンアメリカアメリカ海軍5
ニコライ・スチャウギンソビエトソビエト空軍21第二次世界大戦後では最多撃墜者
エフゲニー・ペペリャエフソビエトソビエト空軍19
レフ・シチェーキンソビエトソビエト空軍13
セルゲイ・クロマレンコソビエトソビエト空軍13第二次世界大戦では3機撃墜。
趙宝桐中華人民共和国人民解放軍空軍9
王海中華人民共和国人民解放軍空軍9
李漢中華人民共和国人民解放軍空軍8
魯珉[中華人民共和国人民解放軍空軍8
范万章中華人民共和国人民解放軍空軍8
孫生禄中華人民共和国人民解放軍空軍6
劉玉堤中華人民共和国人民解放軍空軍6
張积慧中国語版中華人民共和国人民解放軍空軍4
カム・デンオク北朝鮮朝鮮人民軍空軍8[85]
キム・ディサン北朝鮮朝鮮人民軍空軍6[85]
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ベトナム戦争

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ベトナム戦争の撃墜王
氏名国名所属撃墜機数
グエン・バン・コク北ベトナムベトナム人民空軍9(米軍の記録と合致するもの7機)。

何れも機関砲を搭載していないMiG-21PFによる戦果で、空対空ミサイルによる撃墜数では世界最高。

マイ・バン・クオン北ベトナムベトナム人民空軍]8
グエン・ドゥク・ソアト北ベトナムベトナム人民空軍5
チャールズ・B・デベリーヴアメリカアメリカ空軍6
スティーブ・リッチーアメリカアメリカ空軍5
ジェフ・ファインスタインアメリカアメリカ空軍5
ランドル・カニンガムアメリカアメリカ海軍5
ウィリアム・ドリスコルアメリカアメリカ海軍5
ヴァディム・ペトロヴィチ・シチェルバコフソビエトソビエト防空軍6
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中東戦争

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中東戦争の撃墜王
氏名国名所属撃墜機数備考
ギオラ・エプスタインイスラエルイスラエル空軍17[86]イスラエル空軍のトップエース。第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで8機、ネシェルで9機撃墜。機関砲による撃墜が13機。
アブラハム・サルモンイスラエルイスラエル空軍14.5[86]第119飛行隊第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで13.5機、ネシェルで1機撃墜。他に未公認3機があり、これらを含めるとギオラ・エプスタインと同等の記録となる[87]
アミル・ナフミイスラエルイスラエル空軍14第107飛行隊第110飛行隊に所属。F-4で7機、F-16で7機撃墜。F-16での世界初の敵戦闘機撃墜記録も持つ。イラク原子炉爆撃作戦に参加。
アシュエル・スニールイスラエルイスラエル空軍13.5[86][88]第119飛行隊に所属。ミラージュIIIで12機、F-4で1.5機[89]
イスラエル・バハラヴイスラエルイスラエル空軍12[86]第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで10機、ネシェルで2機撃墜[90]
イフタク・スペクター英語版イスラエルイスラエル空軍12[86][88]第101飛行隊第107飛行隊に所属。ミラージュIIIで8機、F-4で4機撃墜。[91]
オデッド・マロムイスラエルイスラエル空軍11[92]第101飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜。未公認記録が多く、全て含めると18機ないし17.5機の記録となり、ギオラ・エプスタインと同等あるいは超える記録となる[93]
ヤアコヴ・リヒターイスラエルイスラエル空軍10.5[86]第117飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[94]
イェフダ・コレンイスラエルイスラエル空軍10.5[86]第117飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[95]
シュロモ・レビイスラエルイスラエル空軍10[86]第113飛行隊に所属。全てネシェルでの撃墜[96]
ドロール・ハリッシュ英語版イスラエルイスラエル空軍9[86]第119飛行隊第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで6機、ネシェルで3機撃墜。他に未公認3機。[97]
エイタン・カルミイスラエルイスラエル空軍9[86]第119飛行隊第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで7機、ネシェルで2機撃墜[98]
モシェ・メルニクイスラエルイスラエル空軍8.5[88]or 9.5[99]第119飛行隊第133飛行隊に所属。F-4で5.5機、F-15で4機撃墜。他に未公認1機[99]
Shlomo Egoziイスラエルイスラエル空軍8[88]第107飛行隊に所属。全てF-4での撃墜。8機中5機はエジプト軍のMi-8で、Roy Manoffとの同乗機で第四次中東戦争の初日(1973年10月6日)に撃墜[100]
Ilan Gonenイスラエルイスラエル空軍8[86]第101飛行隊第113飛行隊に所属。ミラージュIIIで3機、ネシェルで5機撃墜[101]
Amos Barイスラエルイスラエル空軍8[86]or 7[102]第117飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[102]
Ran Ronen (Pecker)イスラエルイスラエル空軍8[92]or 7[103]第119飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[103]
ウリ・ギル英語版イスラエルイスラエル空軍7.5[86]1982年までにミラージュIIIで5機撃墜[104]。18歳から60歳まで現役の戦闘機パイロットを続け、ギネス世界記録の『世界で最も長く飛行した戦闘機パイロット』に認定された。
Menachem Enianイスラエルイスラエル空軍7.5 or 8[105]所属、搭乗機は不明。1967年~1982年にかけて8機撃墜[105]
Michael Tsukイスラエルイスラエル空軍7[86]第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで5機、ネシェルで2機撃墜[106]
Yirmiahu Kadarイスラエルイスラエル空軍7[86]
アモス・アミルイスラエルイスラエル空軍7[86]第101飛行隊第119飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜。他に未公認1機[107]
Roy Manoffイスラエルイスラエル空軍7[88]第107飛行隊に所属。全てF-4での撃墜。7機中5機はエジプト軍のMi-8で、Shlomo Egoziとの同乗機で第四次中東戦争の初日(1973年10月6日)に撃墜[108]
アヴニール・ナヴィイスラエルイスラエル空軍7[109]第133飛行隊に所属。全てF-15での撃墜[110]
Moshe Hertzイスラエルイスラエル空軍6.5[86]or 5[111]第101飛行隊第113飛行隊に所属。ミラージュIIIで1機、ネシェルで4機撃墜。他に未公認3機[111]
Ehud Hankinイスラエルイスラエル空軍6[112]or 3.5[113]第117飛行隊第69飛行隊に所属。ミラージュIIIで2.5機、F-4で1機。他に未公認2機があり、これを含めるとエース(5機以上撃墜)となる[113]
ルドルフ・アウガルテンイスラエルイスラエル空軍6第2次世界大戦中はドイツ軍に所属。Bf 109で2機のP-47Dを撃墜。第一次中東戦争当時の第101飛行隊に所属し、S-199で1機、P-51Dで1機、スピットファイアで2機撃墜。他に大戦中の未公認1機(Fw 190での記録)、第101飛行隊での未公認1機[114]
ヨラム・アグモンイスラエルイスラエル空軍6[86][88]第101飛行隊第69飛行隊に所属。ミラージュIIIで3機、F-4で3機撃墜。第69飛行隊では飛行隊長を務めた[115]
Uri Even-Nirイスラエルイスラエル空軍6[86]第117飛行隊第144飛行隊に所属。ミラージュIIIで4機、ネシェルで2機撃墜。他に未公認2機[116]
メナヘム・シャロンイスラエルイスラエル空軍6[86]第101飛行隊第144飛行隊に所属。ミラージュIIIで2機、ネシェルで4機撃墜。他に未公認2機[117]
Eli Menachemイスラエルイスラエル空軍6[86]
Eitan Peledイスラエルイスラエル空軍6[88]第201飛行隊に所属。全てF-4での撃墜[118]
Yossi Yavinイスラエルイスラエル空軍6[88]
Gideon Livniイスラエルイスラエル空軍5.5[86]第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで1機、ネシェルで4.5機撃墜[119]
エズラ・ドタンイスラエルイスラエル空軍5[86]第109飛行隊の飛行隊長。A-4攻撃機で2機撃墜し、"ミスター・スカイホーク"と呼ばれた。
Reuven Rozenイスラエルイスラエル空軍5[86]or 6[120]第119飛行隊第113飛行隊に所属。ミラージュIIIで5機、ネシェルで1機撃墜[120]
Gideon Drorイスラエルイスラエル空軍5[86]第117飛行隊第113飛行隊に所属。ミラージュIIIで1機、ネシェルで4機撃墜[121]
Shlomo Navotイスラエルイスラエル空軍5[86]第117飛行隊に所属。全てミラージュIIIでの撃墜[122]
Itzchak Amitayイスラエルイスラエル空軍5[88]第201飛行隊に所属。全てF-4での撃墜。5機中3機はエジプト軍のMi-8で、Ben-Ami Periとの同乗機で第四次中東戦争の初日(1973年10月6日)に撃墜[123]
Ben-Ami Periイスラエルイスラエル空軍5[88]第201飛行隊第105飛行隊に所属。全てF-4での撃墜。5機中3機はエジプト軍のMi-8で、Itzchak Amitayとの同乗機で第四次中東戦争の初日(1973年10月6日)に撃墜[124]
Itamar Neunerイスラエルイスラエル空軍5[86]
Avraham Giladイスラエルイスラエル空軍5[86]
Yoram Gevaイスラエルイスラエル空軍5[86]第101飛行隊に所属。ミラージュIIIで2機、ネシェルで3機撃墜[125]
ヨラム・ペレドイスラエルイスラエル空軍5[109]第133飛行隊に所属。全てF-15での撃墜。他に未公認2機[126]
アリエル・コーエンイスラエルイスラエル空軍5[86]第144飛行隊に所属。全てネシェルでの撃墜。他に未公認2機[127]
アサフ・ベン=ヌンイスラエルイスラエル空軍5[86]第109飛行隊第144飛行隊に所属。ミステール IV Aで1機、ネシェルで4機撃墜。他に未公認1機[128]
ギオラ・ロム英語版イスラエルイスラエル空軍5[86]第119飛行隊に所属。1967年の第三次中東戦争においてミラージュIIIで5機を撃墜し、イスラエル空軍初のエースパイロットとなった。1987年にはイスラエル空軍の副司令官に就いた。
Menachem Shmulイスラエルイスラエル空軍5[86][88]第119飛行隊第144飛行隊に所属。ミラージュIIIで4機、ネシェルで1機撃墜。他に未公認2機[129]
Fayez Mansourシリアシリア空軍15[130][131]シリア空軍のトップエース。15機中1機はイギリス空軍機の撃墜(他はイスラエル空軍)。1953年~1970年まではMiG-17、これ以降はMiG-21に搭乗。1982年に戦死。
Bassam Hamshuシリアシリア空軍7[132]
Adeeb Al-Jarfシリアシリア空軍7[133]
Majid Zugbiシリアシリア空軍7[134]
Majad Halabiシリアシリア空軍6[135]
Dzhur Abid Adibシリアシリア空軍5[136]
Muhammad Mansourシリアシリア空軍5[137]
Ali Wajaiエジプトエジプト空軍6[138]エジプト空軍のトップエース。1970年に2機、1973年に4機撃墜。
Ahmed Atefエジプトエジプト空軍5[138]
Sami Mareiエジプトエジプト空軍5[138]1970年に戦死。
Samir Aziz Mikhailエジプトエジプト空軍5[138]
Hussein Samyエジプトエジプト空軍5[138]
Saiful Azamパキスタンパキスタン空軍4印パ戦争においてもインド空軍機1機を撃墜、そのキャリアにおいて合計5機を撃墜
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印パ戦争

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第二次印パ戦争の撃墜王
氏名国名所属撃墜機数備考
ムハンマド・マフムード・アラム英語版パキスタンパキスタン空軍7 (他に未公認2)[139][140][141][142]パキスタン空軍第11飛行隊の飛行隊長としてF-86 セイバーに搭乗。撃墜機は全てインド空軍のホーカー ハンター。1965年9月7日の空中戦では1度の出撃で5機のハンターを撃墜した[143]
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サッカー戦争

サッカー戦争は100時間戦争とも呼ばれるほど戦闘が短かったほか、航空機同士の戦いが主になる戦争ではなかったため、撃墜を挙げたのはフェルナンド・ソト・エンリケスの3機のみで、エースパイロットは存在しない。 ただし、一回の会敵で3機撃墜の戦果を挙げたこと、現時点で最後のレシプロ戦闘機同士の空中戦だったことから、フェルナンド・ソト・エンリケスはホンジュラスの英雄称号を授けられている。

オガデン戦争

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オガデン戦争の撃墜王
氏名国名所属撃墜機数備考
Legesse Teferaエチオピアエチオピア空軍6F-5に搭乗。撃墜数については7機とも[144][145][146][147]
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イラン・イラク戦争

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イラン・イラク戦争の撃墜王
氏名国名所属撃墜機数備考
ファズロラ・ハヴィドニア英語版イランイラン空軍11不確実を含むと13機撃墜
ジャリル・ザンディ英語版イランイラン空軍8F-14Aに搭乗し8機撃墜[148][149][150]。他に未公認3機。撃墜機の内訳はMiG-23を4機、Su-22を2機、MiG-21を2機、ミラージュF1を3機。
シャフラム・ロスタミ英語版イランイラン空軍6F-14Aに搭乗し6機撃墜。撃墜機の内訳はMiG-21を1機、MiG-25を2機、ミラージュF1を3機。世界で初めて空中戦でMiG-25を撃墜した人物である[151][152][153][154]
モハメド・ラヤン英語版イラクイラク空軍5MiG-25に搭乗し5機撃墜[155]
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湾岸戦争

湾岸戦争において撃墜を記録したパイロットは複数存在するが、最高記録がひとりにつき3機であるため、湾岸戦争におけるエースは存在しない。

ロシア・ウクライナ戦争

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ロシア・ウクライナ戦争の撃墜王
氏名国名所属撃墜機数備考
ワジム・ヴォロシロフウクライナウクライナ空軍5MiG-29に搭乗。シャヘド136を5機撃墜。撃墜時破片が直撃し墜落するも脱出し生還[156][157]
アンドリー・ピルシチコウウクライナウクライナ空軍6キーウ攻勢 (2022年)で戦果を挙げ「キーウの幽霊」と恐れられた。2023年8月、訓練飛行中に機体が僚機と接触・墜落し死亡。
イリヤ・シゾフ ロシア ロシア航空宇宙軍 12 Su-24, Su-27, MiG-29をそれぞれ3機ずつとヘリコプター3機。
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個人撃墜機数のカウント

要約
視点

エースのリストでは個人撃墜機数(撃墜数。score,スコア)も主要構成要素の一つになっている。各時代、各国軍で異なる個人撃墜機数カウント方法が存在していた。のちの時代に新規導入・変更・施行された基準は、その国での施行時点以前の時期に遡っては適用されず、戦歴も修正されることはない(基準の適用による見直しは無いが、調査の結果修正されることはある)。

  • 部隊総合撃墜機数は個人撃墜機数の累計とは異なる。
  • 第一次大戦でエースが登場した当時、部隊の撃墜機記録とは別に、個人撃墜機数記録が生まれた。
  • 第一次大戦終戦時の欧州空戦では所属する各国軍によって相違する個人スコアの数え方が数種類存在した。
  • 第二次大戦開戦時には各国はその基準を再び適用した。
  • 第二次大戦中にアメリカ軍は、編隊空戦での協同撃墜に対する基準を変更し分割公認戦果を導入した。
  • 第二次大戦終戦以降、現在までの戦果には戦勝国である旧連合国軍の標準が採用されている。

第一次大戦時、疲弊した国民の戦意を鼓舞するための過剰な英雄報道への要領よい対応とは別に、エースには実際の戦場で、冷静な判断で味方の最小リスク・損害で敵戦力に最大効率で損害を与え続ける役割が期待された。多くのトップ・エースのスコアには、上空から不意をつき反撃できない状態の戦闘機や、爆撃機を確実に撃墜した機数が多数ふくまれる[158][159]

第一次大戦参戦各国の個人撃墜機数カウント

第一次大戦終戦時の各国の個人撃墜機数のカウント方法の違い

  • イギリス空軍はパイロットの撃墜認定で「確実撃墜(moral victory)」は個人撃墜機数にカウントされた。[160] イギリス空軍は協同撃墜(shared victory)では各機に1機の撃墜認定(fully credit)が与えられた。
例として、複数機のイギリス機が1機のドイツ機を撃墜した場合は各機はともに1機の撃墜が認定された。[161]
  • フランス空軍ではイギリス式の確実撃墜(moral victory)は個人撃墜機数として認められなかったが、協同撃墜に対するイギリス式の個人撃墜機数カウント方法は採用した。
  • アメリカ陸軍航空部はフランス軍、イギリス軍の指揮下で戦ったので、それぞれ対応するルールをあてはめた。[162]
  • ドイツ空軍はイギリス式の撃墜確実(moral victory)は個人撃墜機数にカウントしなかった。
敵機が破壊(destroy)されたか、ドイツの勢力圏内に不時着させられ敵機の乗員が捕虜となる必要があった。敵機を撃墜し不時着してもそれが敵勢力圏内で救助された場合はスコアとして認められなかった。[163]
またドイツは協同撃墜に対するイギリス式の個人撃墜機数カウント方法も採用しなかった。複数機で1機を協同撃墜した場合もそのなかの一人だけが個人撃墜機数スコアに加えることを認められ、それはエースだけが、エース同士の場合ならばより多数機撃墜スコアの上位エースだけが、その1機撃墜を自分のものとしてスコアに加えていた傾向が強かった[164][165]
ドイツでは10機撃墜した者は「ユーバーカノーネ(Überkanone、大口径砲)」と呼ばれた。

なお、撃墜公認の基準が国によって違うため、国の違うパイロットの撃墜数をそのまま比べても意味はない。フランスとドイツの撃墜公認基準は極めて厳しい一方、イギリスは第三者の証言が無くても良い緩いものだった。

編隊戦闘への移行とアメリカ軍の協同撃墜判定・被撃墜認定システム

スペイン内戦ではドイツ空軍のヴェルナー・メルダースにより、3機編隊を最小単位としたケッテから2機編隊を最小単位とするロッテ(Rotte)と、そのロッテを2組とする4機編隊のシュヴァルム(Schwarm)という編隊戦法が編み出され、第二次大戦中の欧州戦線ではそのロッテ戦法が形を変えながらもイギリス空軍を筆頭に各国に普及した[166]

  • 日本陸軍航空部隊は欧州戦線を注目しており、1942年春に研究機として購入したBf 109Eとともに来日したドイツ空軍のエース、フリッツ・ロージヒカイト大尉(後にドイツ帰国、最終撃墜数68機)と、メッサーシュミットテスト・パイロットであるヴィリー・シュテーアから伝えられたこのシュヴァルム戦法を明野陸軍飛行学校で研究し、2機x2の4機編隊を「ロッテ戦法」と総称して採用。2機のロッテを分隊、4機のシュヴァルムを小隊と定義し、従来の3機編隊(ケッテ)から移行する形で1942年末から順次実戦投入された。
  • アメリカ海軍は応用編隊戦法として、2機が数100m離れた戦闘隊形に展開した隊形で相互掩護する戦法を研究提唱しサッチ・ウィーブと命名、ソロモン戦線で本格的に実戦導入され有効な成果を上げた。
太平洋戦線で余裕なく苦戦だったガダルカナル攻防戦をしのいだ翌年1943年に、編隊空戦での協同撃墜の戦果認定基準を変更し、陸海軍海兵隊の航空部隊に分割公認戦果システムを新規導入した。協同撃墜の場合は戦闘後、上官の協議により戦果判定され、撃墜1機に有効打撃を与えた複数機の各パイロットに1機を頭数で割算した値を個人撃墜数(score)として平等に割り振るシステムを制定した(分数値で追加)[167]
また、陸軍航空軍では戦闘空域で撃墜されたと認定した機を被撃墜(loss)とカウントし、帰途に不時着と認定された機や修復不能大破機であっても帰着すれば被撃墜数にカウントしなかった。海兵隊では、行方不明機乗員は終戦後に相手国へ赴いて6ヶ月間現地調査した後で戦死と認定された[168]

日本における空中戦闘方法推移と撃墜・被撃墜判断

第一次大戦後、日本は当時最先端の欧州空軍のシステムを導入した。日本陸海軍戦闘機パイロットの個人撃墜機数のカウントの仕方も欧州先進各国に準じた。

  • 日本陸軍はフランス式空軍のシステムを導入した。
  • 日本海軍はイギリス式空軍のシステムを導入した。
日本海軍最初の空戦撃墜は亀井大尉がイギリスで学び伝えた3機編隊空戦による戦果だった(1932年2月22日午後4時、空母加賀戦闘機隊生田乃木次大尉、黒岩利雄3飛曹、武雄一夫1空兵、上海公大飛行場発進、蘇州上空戦)。
  • 日中戦争初期から第1次ノモンハン戦線(1939年5月)までの小型機撃墜については、単機空戦がほとんどだった。
  • 第2次ノモンハン戦線(1939年6月-9月)から太平洋戦線のソロモン戦線、ニューギニア戦線以降(1942年11月~)は、小型機空戦も中隊同士の激戦になり編隊空戦に移行した。[169] ノモンハン事件末期の9月には日本陸軍戦闘隊の全てが中隊ごとの編隊空戦に移行しており、各中隊が一丸で行動し糸を結び合ったように各機が相互に掩護連携して戦っていた[170]
  • 太平洋戦線ではソロモン戦線前期すでに、攻撃機・爆撃機、船団上空の掩護を担当する戦闘隊は空戦戦闘に入ることは許可されず牽制し蹴散らすまでで、空戦戦闘に入って離れたため攻撃隊や船団が被害を受けた際の行動評価は低く評点された。
  • 日本軍はパイロットの視認により、炸裂弾により敵翼飛散・爆発・炎上した機、空域離脱後を捕捉攻撃し不時着させた機は撃墜数にカウントした。
  • 各戦闘機パイロットは戦闘直後のブリーフィングで中隊ごとに集合し、空中指揮官たる中隊長に個人撃墜数など戦果報告を行い、空中指揮官(中隊長、分隊士)は戦果を確認し重複など整理したうえで部隊長に報告した。その後戦闘詳報、戦闘行動図などが製作され上級部隊に提出した。
  • B-29本土爆撃の夜間迎撃戦では、二式複座戦闘機「屠龍」ホ203・37mm機関砲に代表される大口径砲弾を命中させ、大破させたらその後暗闇で見失っても帰途墜落・洋上不時着後に行方不明になった喪失機数を敵無線の傍受や、暗号解読で確認できた場合には撃墜数にカウントした。
被撃墜では、空中指揮官(陸軍では中隊長以上、海軍で中隊を率いる分隊士以上)が被撃墜を確認した機を自爆戦死とし、それ以外を未帰還機とした。未帰還機パイロットは約1ヶ月あとまで待ってから戦死と認定された[171]

脚注

参考文献

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