クルト・タンツァー
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クルト・タンツァー(ドイツ語: Kurt Tanzer、1920年11月1日 - 1960年6月25日)は、ドイツの軍人。最終階級はドイツ国防軍空軍で飛行兵曹長、ドイツ連邦軍空軍で少佐。第二次世界大戦では総撃墜数128機~143機[2]を記録したエース・パイロットであり、その戦功から騎士鉄十字章を受章した。
経歴
1942年3月18日、第51戦闘航空団(JG51)補充飛行隊に所属していたタンツァーは、正式にJG51第12中隊へ配属された。1943年5月5日に35機撃墜を記録。翌5月6日、彼が駐留していた飛行場にソヴィエトの攻撃機Il-2が飛来したため、彼はフォッケウルフ Fw190でスクランブルをかけ2機を撃墜した。被弾により負傷したにもかかわらず、飛来してくるIl-2に攻撃をし続けさらに2機を撃墜した。激闘の末に激しく損傷したFw190を着陸させたとき、彼は右手に重傷を負っており、それに伴う多量の出血もあった[1]。
しばらく治療に当たっていたが、1943年11月4日に前線復帰した。12月5日、35機撃墜を称えて騎士鉄十字章が贈られた[3]。1944年6月、タンツァーはカール=ゴットフリート・ノルトマンに同行する形で第6戦闘航空兵指導官の参謀に就いた[1]。同じ月、彼の撃墜数は100機に到達したが[1][4]、これはドイツ空軍の中で81番目の事である[5]。9月1日には東プロイセン戦闘航空兵指導官の参謀に転属している。1945年2月10日にJG51第13中隊へ移り、3月12日に中隊長へ就任した[1]。大戦を通じて128機~143機の撃墜を記録した[4]。
戦後、化学工場でのボランティア活動を経て[4]、ドイツ連邦軍空軍へ入隊した[1][4]。1960年6月25日、バレアレス諸島付近をT-33で飛行中、悪天候により墜落し死亡した[1][4]。
叙勲
脚注
参考文献
外部リンク
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