Loading AI tools
東京都板橋区の町名 ウィキペディアから
板橋区の北部に位置する。北端で新河岸川に接する。西で高島平、北で新河岸川を隔てて舟渡、東で坂下、南で相生町、南西で西台と隣接する。東辺および北部に都営地下鉄三田線、北部に高島通りが通じている。南北に長い町域を持ち、南側から一丁目・二丁目・三丁目に分かれ、一丁目・二丁目は主に住宅地、三丁目は小学校、商業施設のほか、新河岸川沿いに工場地帯が作られている。かつて三丁目地域で操業していた大規模工場の撤退後に建築されたマンションも見られる。二丁目の北部一帯はUR新蓮根団地(旧・日本住宅公団蓮根団地)である。
住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、蓮根2-25-7の地点で41万9000円/m2、 蓮根3-4-14の地点で43万3000円/m2となっている[7]。
域内に原始時代の遺跡は発見されていない。 縄文海進期には、全域が水没していたため、志村、蓮沼、西台などの住民の漁撈の漁域となっていたと思われる。 その後、荒川沿いの沼沢地となり、中世から開拓が徐々に進み、降雨による荒川の水害を受ける地域でもあった。中世末期、氏神、稲荷などと水神を合祀した鎮守として、氷川神社を荒川近くに勧請した。 廃藩置県実施前は武蔵国豊島郡蓮沼村(後に分村により上蓮沼村)および根葉村。近隣の農地、原野を含め、将軍の御鷹場とされた[8]。近世では、寛永寺寺領となってからは助郷役や鷹狩り運営は免除されていた。
志村の原(下の原、戸田の原)や、根原と呼ばれる葦や萱の生い茂る低湿地の原野も多く残されており、中山道の荒川近辺にあった志村の原は、蓮沼村と根葉村の入会地であり、根原は根葉村域内の西側、徳丸が原と隣接した地域である。これらの原野は草刈場として利用されており、収穫される秣は住民の現金収入の源であり、幕府直轄地となって収入から野銭、草銭を幕府に上納していた。幕末、西方に隣接した徳丸が原が、幕府などの銃砲用兵演習場として重用されたため、原野が踏み固められ秣場として利用できなくなった事により当地の需要が増した。
生産物はおもに米、野菜であり、物流は荒川渡船場までの地上路から、水路で江戸市中へと運ばれた。中山道の戸田の渡しの南岸渡船場も域内にあった。渡船場と周辺地域は幕府が経営し、荒川北岸の下戸田村が渡船業務を運営していた。このため、渡船場を使っての江戸運上のつど、下戸田村に利用料を支払っていた。また域内には荒川降雨氾濫に対する小規模の水除堤が設けられていたとされるが、近代まで本格的な川堤は築かれなかった。
2024年(令和6年)3月31日現在(板橋区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2021年8月時点)[18]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
蓮根一丁目 | 全域 | 板橋区立志村坂下小学校 | 板橋区立志村第三中学校 |
蓮根二丁目 | 1~27番 31番 | 板橋区立志村第六小学校 | |
28~30番 | 板橋区立蓮根小学校 | ||
蓮根三丁目 | 1~13番 | ||
14~28番 | 板橋区立蓮根第二小学校 |
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[19]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
蓮根一丁目 | 71事業所 | 328人 |
蓮根二丁目 | 248事業所 | 1,504人 |
蓮根三丁目 | 203事業所 | 2,570人 |
計 | 522事業所 | 4,402人 |
経済センサスによる事業所数の推移。
経済センサスによる従業員数の推移。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.