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昭和戦前時代の日本を舞台とした映画作品 ウィキペディアから
『花と竜』(はなとりゅう)は、1952年(昭和27年)4月から1953年(昭和28年)5月まで『読売新聞』に連載された火野葦平の長編小説である。
明治中期から太平洋戦争後の北九州を舞台に、著者の父である玉井金五郎(若松の仲士・玉井組組長)と妻のマンの夫婦が、裏切りやすれ違いを経験しながら家族の歴史を積み重ねていく大河小説である。ほとんど実名であり、「ごんぞ」(沖仲仕)の生活向上のために小頭聯合組合を結成しようと運動して、吉田磯吉の四天王と呼ばれた岡部亭蔵の一派に狙われ三十数か所の刃傷をうけたのも、どてら婆さんなる女侠客の乾児から襲撃され危篤となったのも事実である。
タイトルの「竜」は、金五郎が青年の客気で五体に入れた刺青であり、男としての虚栄心と詰まらない意地が、人生に拭えない影を落とすという自戒の徴である。周囲の誤解や無理解に挫けず、ひたむきに信念を貫く金五郎とそれを支えつづけるマンは、戦後に全てを失った日本において、裏切りや屈辱の境遇にあっても人としての品位を守ろうとする、玉井自身の理想を「花」としたものである。やや通俗的であるが、米国の占領から独立する日本への火野の願いを物語っている。
連載終了直後の1954年に藤田進主演で『花と龍 第一部 洞海湾の乱斗』と『花と龍 第二部 愛憎流転』の2部作として、東映で最初の映画化がされている。その後、1962年に日活で、1965年・1966年に東映で、1973年に松竹で映画化された。また、1963年・1970年にNET(現・テレビ朝日)で、1964年に日本テレビで、1992年にTBSでドラマ化されている。
なお、上述の1973年版では田宮二郎が栗田の銀五役で出演しているが、奇しくも田宮の自殺情報がマスコミに入ったのは日本テレビ(関東ローカル)でこの1973年版(第一部)を放送している最中であった。そして、日本テレビでもこの1973年版の放送中にニュース速報で田宮の自殺を報じることとなった。
1954年3月3日に『第一部 洞海湾の乱斗』、同年3月24日に『第二部 愛憎流転』が公開された。製作は東映。
1962年12月26日に公開。製作は日活。配給収入は3億6040万円[1]。
1965年11月20日公開。製作は東映京都撮影所。『花と龍』三度目の映画化[2]。タイトルは『花と龍』。その後、1966年1月13日に続編として『続花と龍 洞海湾の決闘』が公開された。1965年版は2009年11月21日にDVDが発売された。
一作目『花と龍』は、主人公・玉井金五郎がマンと結婚し、独立して玉井組を作るまでを描き[3]、続編『続花と龍 洞海湾の決闘』では、九州戸畑で玉井組のカンバンを上げた金五郎が若松港の荷役改善の乗り込み、自刃の中で男を上げるまでを描く[4]。『続花と龍 洞海湾の決闘』は公開時の文献に"続"が記載にない『花と龍 洞海湾の決闘』と書かれたものがある[4]。
1965年に中村錦之助ら東映京都撮影所(以下、東映京都)の役者が30数人で労働組合を結成し会社と揉めた[5][6][7][8]。委員長だった錦之助は責任を取り[9]、また岡田茂東映京都所長が打ち出した任侠路線の転換により[5][6][7][10]、時代劇映画が作られなくなった製作方針もあり[6][11]、当時他社の人気スターが独立プロを興すブームもあって[6]、岡田茂京都所長を介して、大川博東映社長に東映退社を告げた[6][12]。五社協定が俄然強い時代で[9]、アカ嫌いの大川は、役者が独立プロを作るからと勝手に辞めたらしめしが付かないと反対した[6][12]。岡田は錦之助がまた東映に戻って来れるようにと四本だけ出演してくれと条件を錦之助に飲ませて大川社長を説得し[6][12][13]、1966年8月末[14]、錦之助を円満退社させた[6][12][14][15]。四本のうちの二本が本作『花と龍』の二本[12]。残りの二本は『沓掛時次郎 遊侠一匹』と『丹下左膳 飛燕居合斬り』[6][12]。
岡田所長はオリジナル脚本のヤクザ映画では、鶴田浩二への対抗意識からヤクザものが嫌いな[16]錦之助を説得できないと判断し、原作ものの『花と龍』の名を借りて錦之助に沖仲士の刺青をさせようと企画した[17]。
一作目の『花と龍』は北九州市若松港などでロケが行われた[2]。『続花と龍 洞海湾の決闘』は、東映京都撮影所のマンモス第11スタジオに洞海湾を望む波止場のセットが作られた[4]。
任侠路線の大成功で意気上がる東映を叩こうと、日活は石原裕次郎主演で大ヒットした1962年版の続編を『続花と龍 洞海湾の決闘』にぶつけようと画策したが[18]、裕次郎も錦之助同様、会社と契約で揉めており、製作されなかった[18]。
錦之助は男気から組合の委員長を引き受けただけだったが[8]、結局、他の役者に裏切られる形となり[18]、さらに1965年は有馬稲子との離婚問題もあって踏んだり蹴ったり[18][19]。岡田京都所長は1965年末に「わたしも組合騒ぎのときには、錦ちゃんと揉めましたけど、今はもう落ち着いています。親睦クラブになってからは何もやってないようです。10日ほど前に正月興行の『続花と龍』(『続花と龍 洞海湾の決闘』)の撮影が済み、本人は来年(1966年)こそ、張り切ると言ってました。幸い『花と龍』の成績(興行収入)もいいので来年に期待しています」と話していることから[18]、岡田としては錦之助が東映に残ってくれるのではないかと期待していたのかも知れない。錦之助の東映退社は契約切れの1966年8月末[14]。
一作目『流れ者仁義』
二作目 『昭和残侠伝 唐獅子牡丹』
「日本侠客伝シリーズ」として、1969年5月31日公開。製作は東映。タイトルは『日本侠客伝 花と龍』。配給収入は1億8000万円[20]。
「日本侠客伝シリーズ」の一本として、1970年12月3日公開。製作は東映。タイトルは『日本侠客伝 昇り龍』。同シリーズとしては『日本侠客伝 花と龍』の次作であり、玉井金五郎やお京のキャストも同じだが、ストーリーに繋がりはなく、それぞれ独立している。
1973年3月17日公開。製作は松竹。タイトルは『花と龍 青雲篇 愛憎篇 怒濤篇』。
1959年11月17日から同年12月29日まで、フジテレビの『鶴田浩二文芸名作シリーズ』(火曜20:00 - 20:30)で放送。
フジテレビ 鶴田浩二文芸名作シリーズ | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
昨日と明日の間
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花と竜
(1959年版) |
華やかな饗宴
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1963年12月1日、NET系の『日本映画名作ドラマ』で放送。
『村田英雄の花と龍』。1964年10月25日から1965年1月17日まで日本テレビ系で放送。全13回。放送時間は日曜21:30 - 22:00で、7年続いた『ダイヤル110番』の次番組として開始。
主題歌は村田の持ち歌としてよく聞かれた。
日本テレビ系 日曜21時台後半枠 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
村田英雄の花と龍
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1970年3月19日から5月14日までNET系の『ナショナルゴールデン劇場』で放送。全9回。1962年公開の映画版を監督の舛田利雄がリメイクした作品である。
NET(現:テレビ朝日)系 ナショナルゴールデン劇場 | ||
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前番組 | 番組名 | 次番組 |
亭主の好きな柿8年
女房太閤記 |
花と竜
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二人の妻を持つ男
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1992年1月4日、TBS系で放送。放送時間は21:00 - 23:48(JST)。
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