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日本のアイヌの女性 (1903-1922) ウィキペディアから
知里 幸恵(幸惠)(ちり ゆきえ、1903年〈明治36年〉6月8日 - 1922年〈大正11年〉9月18日)は、北海道幌別郡登別村(現:登別市登別本町)出身のアイヌ女性[1]。19年という短い生涯ではあったが、その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。
生誕100年を迎える2003年頃から、マスコミや各地のセミナー等でその再評価の声が高まり、また幸恵への感謝から「知里幸恵」記念館の建設運動が活発化した[2]。2008年10月には、NHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が詳細に取り上げられ[3]、インターネット書店「アマゾン」の「本のベストセラー」トップ10に『アイヌ神謡集』が入った[注釈 1]。また、『アイヌ神謡集』は、英語・フランス語・ロシア語・エスペラントにも翻訳されており[4]、2006年1月には、フランス人作家ル・クレジオが、そのフランス語版(ガリマール社)の出版報告に幸恵の墓を訪れている[5][6]。
なお、末弟に言語学者で東京大学を卒業後アイヌ初の北海道大学教授となった知里真志保がおり[7]、幸恵の『アイヌ神謡集』の出版以降、大正末期から昭和にかけて、新聞・雑誌などはこの姉弟を世俗的表現ながらも「アイヌの天才姉弟」と評した[8]。長弟の知里高央(1907年 - 1965年)(ちり たかなか、真志保の兄)も、教師をつとめながらアイヌ語の語彙研究に従事した。
1903年(明治36年)6月8日、北海道幌別郡登別村(現:登別市登別本町)で父・高吉(1884年 - 1961年)と母・ナミ(1879年 - 1964年)の間に生まれた。6歳で近文コタン(現:旭川市内)の伯母・金成マツのもとに引き取られて、尋常小学校に通学した。最初は和人の子どもと同じ学校だったが、アイヌのみの学校設置がされて、学業優等でアイヌの尋常小学校を卒業した[9][8]。
旭川で実業学校(旭川区立女子職業学校)にまで進学している。アイヌ語も日本語も堪能で、アイヌの子女で初めて北海道庁立の女学校に受験するが不合格になった。『優秀なのになぜ』『クリスチャンだから不合格となったのでは』という噂が町中に飛び交った[10]。幸恵の祖母・モナシノウク(和名:金成茂奈之)はユーカラクル、すなわちアイヌの口承の叙事詩“カムイユカラ”の謡い手であった。カムイユカラは、文字を持たなかったアイヌにとって、その価値観・道徳観・伝統文化等を子孫に継承していく上で重要なものであり、幸恵はこのカムイユカラを身近に聞くことができる環境で育った。
幸恵の生まれた頃は、ロシアによる領土侵略を防ぐため、明治政府が北海道を開拓し始めてから30年以上がたっていた。この幸恵の家を言語学者の金田一京助が訪れたのは、幸恵が15歳の時であった。金田一の目的はアイヌの伝統文化を記録することであった。幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取る姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念、カムイユカラ研究への熱意を感じた。幸恵はカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。やがて、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京・本郷の金田一宅に身を寄せて翻訳作業を続けた。
幸恵は重度の心臓病を患っていた(当時は慢性の気管支カタルと診断されていた)が、翻訳・編集・推敲作業を続けた。『アイヌ神謡集』は1922年(大正11年)9月18日に完成した。しかしその日の夜、心臓発作(僧帽弁狭窄症)のため金田一宅で死去。19歳没[11][8]。
幸恵が完成させた『アイヌ神謡集』は翌1923年(大正12年)8月10日に、柳田國男の編集による『炉辺叢書』の一冊として、郷土研究社から出版された[12]。
明治時代以前、アイヌ民族は農業・狩猟・漁業で、自然と共存した平和で穏やかな生活を享受してきた、とされる[注釈 2]。また、川でとったサケなど“アイヌの特産物”で、北は、樺太を通じてロシアと、東は、千島列島を通ってカムチャツカ半島の先住民イテリメン人と、広範囲に交易も行っていた。アイヌ民族は文字を持たない民族ながら、樺太・北海道・千島列島を中心に一大文化圏を築いていた。
明治政府は、ロシアの領土拡張(南下)の脅威だけでなく鉱物資源なども求めて、本格的に日本人(軍人・開拓民)を北海道に進出させて、日本の領土拡張を積極的に行った。このことが、アイヌ人の平和で穏やかな生活を一変させた。
19世紀から20世紀前半に植民による領土拡大を目指す列強の国々が、しばしば対象地域(アメリカ、カナダ、オーストラリア、極東ロシア)で自国本土出身住民の増加や浸透強化の際に先住民族に対してとった政策、すなわち、先住民の“自然消滅”という手法を、明治政府も強力に実行に移していった。
明治政府は、1899年(明治32年)に制定した『北海道旧土人保護法』(土人とは土着民の意であり、新たに北海道に移住した人と区別するために元々の住民を旧土人と呼んだ)により、アイヌ人保護を行った。しかし、この事は口実であって、日本人に同化させること、すなわちアイヌ民族の“自然消滅”を進めたと解釈する者もある[注釈 3]。この法律に記されている内容は、農業に従事したいアイヌに対する土地の無償附与、貧困者への農具の給付や薬価の給付、また貧困者の子弟への授業料の給付等である。
これにより、アイヌ民族の生活は、明治時代以前の平和でおだやかな生活から一変して悲惨のものへと変わった。とりわけ、アイヌの人々にとって、外からやって来た「明治政府」に土地を没収され、その没収された土地が、外からやって来た「開拓民」に安価で払い下げられる様子は、精神的にアイヌの人々を絶望させた。
また、明治政府に土地や漁業権・狩猟権など「生活基盤」を政策的に収奪された[14]ことで、アイヌ人は経済的にとどめを刺され極貧へと追い込まれた。当時、「座して死を待つばかり」とまで形容されたアイヌ民族、アイヌ伝統文化は消滅の危機に瀕していた。
明治時代に入り絶滅の危機に瀕していたアイヌ文化とアイヌ民族に自信と光を与え、重大な復権・復活の転機となった幸恵の『アイヌ神謡集』の出版は、当時の新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。また幸恵が以前、金田一京助から諭され目覚めたように多くのアイヌ人に自信と誇りを与えた。幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となった。また歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになった。幸恵はまさに事態を改善する重要なきっかけをもたらした。
幸恵の『アイヌ神謡集』により、アイヌ人にとって身近な“動物の神々”が、アイヌ人の日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に残された。文字を持たないアイヌ民族にとって画期的な業績であった。かつて幸恵が祖母から謡ってもらったように、母親が読み聞かせ子供が容易に理解できる程に平易な文章でつづられた13編からなる物語。アイヌ語から日本語に翻訳されたその文章には、幸恵のアイヌ語・日本語双方を深く自在に操る非凡な才能が遺憾なく発揮されている。また、文字を持たないアイヌ語の原文を、日本人が誰でも気軽に口にだして読めるようにその音をローマ字で表し、日本語訳と併記している。
1990年(平成2年)6月には、知里幸恵記念文学碑が、幸恵が伯母の金成マツ、祖母のモナシノウクとともに過ごした旭川・チカプニ(近文)の旭川市立北門中学校の構内に市民の募金により建てられ[15]、毎年、幸恵の戸籍上の誕生日である6月8日にチカプニのアイヌの人々の主催で生誕祭がおこなわれている[16]。また、生誕地の登別では2000年(平成12年)より毎年、幸恵の命日である9月18日の前の連休ごろに、NPO法人「知里森舎」によって、幸恵や幸恵が命をかけて残した「カムイユカラ」を中心とするアイヌ文化などについて考えるイベントが開かれている。 2002年(平成14年)には池澤夏樹が代表となり、記念館の建設募金委員会が発足。募金運動が行われた結果、2010年(平成22年)9月に「知里幸恵 銀のしずく記念館」が開館した[17]。開館に伴い、館長を幸恵の姪・横山むつみが2016年9月の逝去まで就任した。また理事長をむつみの夫・横山孝雄が2019年8月の逝去まで就任した。現在は、むつみの長女で幸恵の大姪・木原仁美が3代目館長を務めている。
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