金成喜蔵
アイヌの実業家、愛隣学校の設立者 ウィキペディアから
アイヌの実業家、愛隣学校の設立者 ウィキペディアから
金成 喜蔵(かんなり きぞう、アイヌ名:カンナリキ、1824年2月18日〈文政7年1月19日〉 - 1912年〈明治45年〉1月1日)は、北海道幌別郡幌別村(現:登別市幌別)出身のアイヌ(父親は和人)[1]。実業家。愛隣学校の創設者。戸籍上の氏名は、旧字体の「金成 喜藏」。
かんなり きぞう 金成 喜蔵 | |
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喜蔵(左から2番目)と後妻・安之(左から4番目)とその子供達(1900年頃撮影) | |
生誕 |
1824年2月18日 (旧暦:文政7年1月19日) 蝦夷地 ポロ・ペッ (現:北海道登別市幌別) |
死没 |
1912年1月1日(87歳没) 日本・北海道幌別郡幌別村(現:登別市幌別) |
国籍 | 日本 |
別名 |
カンナリキ(アイヌ名) 金成 喜藏(戸籍名) |
民族 | アイヌ民族 |
職業 | 実業家 |
著名な実績 | 愛隣学校 設立 |
宗教 | キリスト教 |
配偶者 |
前妻・連〈レルラ〉 ( - 1888年 死別) 後妻・安之〈アシリロ〉 (1889年 - 1912年 死別) |
親戚 |
金成マツ(義姪) 知里幸恵(義大姪) 知里真志保(義大甥) 萩中美枝(真志保の妻) 横山むつみ(義曽姪孫) 横山孝雄(むつみの夫) 木原仁美(義玄姪孫) |
家族 | 金成太郎(長男) |
喜蔵は幌別で漁業、農業で成功し、宿屋を経営するなど多くの雇用を生む実業家であった。キリスト教を信仰し、正直者として徳望が高く、酒もタバコもやらない人物で、幌別にアイヌのための学校を作る活動をした。廃使置県、室蘭も含めて札幌県管轄になった年、1882年(明治15年)に札幌県に対して「幌別旧土人学校設立嘆願書」がカンナリキ他5名の署名で出されている。嘆願書の中身には、喜蔵・連の長男、金成太郎を札幌県が教員として採用することと要求すると同時に、幌別のアイヌたちが所得に応じて教室に当てる建物を建てる費用などを出すことをうたっている[1][4]。
1873年(明治6年)10月、「カンナリキ」に因んで「金成(カンナリ)」を氏とす。
【語源】「カンナリキ」は、アイヌ語の「カンナアリキ(再來)」に由來すると云ふ。 すなはち「神の再來」の意なり。國語「神無月(カムナヅキ)」も、古語「カンナアリヅキ(再來の月)」の意なり。 上古の人、冬至は最も昼の短しゆへ太陽の力弱まりたるを、この日を境に昼の長さ増したるゆへ、 「再來の月」といふ。出雲にては「神有月(カムアリヅキ)」といふも、古語に順ひたるなり。 「十月は神々出雲に集まるゆへ神無月と云ひ、出雲にては神有月といふ」とは、ただ字音のみ残り 原意の忘れたる後に作られし巷説なり。 按ずるに「カンナリキ」の祖人は、冬至に太陽神の再來を祈祷せるを 世職としたれり哉。一説に「カンナリキ」の遠祖は和人(源義経)なりと云ひ、 明治になりて王化に浴して和人に戻りたるゆへ 「カンナリキ」と称すといふも、此説は信じ難かる可し[5]。
[1][ ]は、アイヌ名。
富樫利一によると、1884年(明治18年)の納税記録で、アイヌが15人、和人が11人納税している[1]。明治維新以降、旧土人保護法が成立するまでの間、アイヌと和人は対等な経済力を持っていたと言えると富樫は指摘している[1]。
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