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日本の北海道亀田郡にあった町 ウィキペディアから
湯川町(ゆのかわちょう)は、かつて北海道亀田郡にあった町。1939年(昭和14年)、函館市に編入された。現在の函館市役所湯川支所管内にあたる。
松倉川水系流域の一部と汐泊川水系の中・上流流域に当たる地域。中心部は松倉川下流に位置し、海底火山銭亀火山由来と推定されている湯の川温泉がある。この温泉は元々治療用に細々と使われていた。1863年(文久3年)に100℃近い高温の湯が出て、温泉宿があった時期もある。
函館市への編入合併理由は飲料水確保の問題解決などである。松倉川は当時上流に鉱山があり、鮫川は流量が少ないから水源を確保できない問題があった。
松倉川流域側の村の成立時期は不明であるが、文明年間(1469年-1486年)に南部の田名部(たなぶ)より農民の浜道安兵衛、同じく南部の横浜より漁民の小林権兵衛が移住したといわれる。その後1654年(承応3年)に改築された湯倉神社の薬師堂の付近の集落を湯川村といった。村名の由来は明治時代の教育者、永田方正が北海道蝦夷語地名解(永田地名解)にてアイヌ語由来の地名でユ・ペツ(湯の・川)が語源と紹介している。主に下北半島より渡ってきた漁師が次第に定着し、昆布と鰯(いわし)などの漁業とその合間に薪や炭を作っていた。のちに松倉川を挟んで個別に集落ができた経緯から西岸を下湯川村、東岸を上湯川村と分村した。分村時期は不明であるが函館市史通説では1875年(天明5年)3月の「蝦夷拾遺(勘定奉行の松平秀持が青島俊蔵、佐藤行信らに蝦夷地調査を命じた。その調査記録)」には上下湯川村が記載されていることからその頃と考えられている(明治時代に合併して上下分村で無くなっている)。
かつては鮫川の上流域に当たる鍛冶村の村域とみなされたこともある[1]。
1883年(明治16年)に下湯川村より松倉川河口域を分離させて根崎村が分村した(下湯川村字根崎、字弥右衛門川、字寒坂、字土場、字高松にあたる地域)。「函館支庁管内町村誌」によるとこの地域の住民は志苔村(現在の函館市役所銭亀沢支所管内の一部)の分家が多い[2]。1902年(明治35年)4月1日に北海道二級町村制施行により銭亀沢村大字根崎村となった[3]。なおこの地域で温泉「根崎温泉」が発見されるのは、1902年(明治35年)のことで[4]、湯倉神社付近の「下湯川村の湯の川温泉(1453年(享徳2年))」からみるとかなり最近のことである。
明治時代、函館区からの交通は大森浜の砂地の細道をたどるか鍛冶村を通り松倉川の支流鮫川に架かる鮫川橋に至るルートがあったが、1887年(明治20年)、亀田村から鮫川橋に向かう道路が開通し、その後この道路の悪路対策で馬車鉄道、函館市電の前身となる函館馬車鉄道が敷設され利便性が高まった。
地形は西側が、函館市街地高台からなる函館段丘(大淵は松柏台と呼んでいる)がある。前面の段丘崖は現在の駒場町から湯川町に下る坂で表されている。現在の日吉町・花園町・高丘町・高松町・瀬戸川町・函館空港等は日吉町段丘の上である。その間は低湿地で鮫川が流れる。
汐泊川流域側は亀尾村の頁を参照。
1902年3村合併時
1936年(昭和11年)10月現在の湯川町の大字名・字名は下記の通り[13]。
アイヌ語地名についての詳細はアイヌ語および北海道の地名・駅名の頁も参照されたい。
元々は銭亀沢村字目名。亀尾村の頁も併せて参照。旧字名は「亀尾歴史物語」小宮鶴吉編より。
1939年合併時、高等尋常小学校2校、尋常小学校3校あった。合併後函館市に引き継がれている。
地域には亀田鉱山などの小規模鉱山が存在していた[24]。
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