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日本の俳優 ウィキペディアから
柳澤 愼一(やなぎさわ しんいち、1932年〈昭和7年〉12月19日 - 2022年〈令和4年〉3月24日)は、東京府東京市(現:東京都)出身のジャズ歌手、俳優、声優、福祉活動家、ボードビリアン、作詞家である。エム・スリー所属。NPO法人日本アビリティーズ協会会長顧問。有料老人ホーム気まま館東大和名誉館長。
旧芸名は柳沢 真一、柳澤 真一。
江上トミから「在野の料理名人」と呼ばれた柳澤愛子の息子。戦時中、東京で空襲に遭って祖父母の住む新潟県長岡市に疎開するが、長岡でも空襲に遭って東京に戻る[1]。東京都立豊多摩高等学校在学中、日本共産党の下部組織に参加するも[2]、男女交際の乱れを嫌い、青山学院高等部に転校。青山学院大学文学部英米文学科中退。
高校時代、信者ではないが教会に通っているうちヤントという宣教師に出会い、社会奉仕に目覚めると共に聖歌隊で歌い始める[2]。1950年、戦災孤児や障害者の慰問費用を捻出するために進駐軍クラブでジャズを歌い始める[3]。このことがきっかけで、1952年、学生ながらもジャズ歌手としてデビュー[4]。戦後の学生歌手第一号として人気を集め、1953年から1955年にかけて日劇に500日間出演という記録はその後も破られていない[5]。当時は押しかけた客で日劇のドアが閉まらず、外を走る都電から舞台が見えたといわれる[6]。キング・コロムビア・ビクターの3つのレコード会社から誘いを受けたが「1社選ぶのは不公平だ」と誘いを全て断ったこともある[7]。当時、エノケン・ロッパ・金語楼の喜劇御三家から可愛がられ、特に榎本健一からは「二村定一の後を継ぐのはこいつしかいない」「柳澤をオレの二代目にする」と言われたこともある[5]。
また俳優としては主演・助演併せて150本以上の映画に出演。テレビ草創期からテレビドラマにも数多く出演した。声優としては、『奥さまは魔女』のダーリン役の吹き替えなどで知られている。
1957年10月12日[8]、当時新東宝所属だった女優の池内淳子と品川プリンスホテルで挙式したが、1958年1月17日には池内が実家に戻ることとなった[9]。原因は性的不一致、姑がしっかり者すぎた、池内の暴力など諸説が噂されたが、真相は不明である[9]。
1960年5月23日、日劇ミュージックホールのヌードダンサーの瞳はるよと再婚[10]。同年春、日劇ミュージックホールのヌードショー「夜に戯れて」に柳澤が特別出演したのがきっかけであった[10]。ただし、1989年には柳澤は独身と報道されている[11]。
1962年7月17日、自宅に覆面強盗の侵入を受け、首を絞められ、10万円を奪われる[12]。
自らも腰椎と頚椎のヘルニアや股関節脱臼に苦しみつつ、長年に渡り福祉活動をしているが、1981年、国際障害者年にちなみ総理大臣表彰を受けるまで、みずからの福祉活動を秘匿しつづけていた[6]。福祉活動のために家屋敷を売却したこともある[13]。重い交通事故に遭い、その後遺症で頭痛に苦しんでいるが、故意ではないからと加害者から1円も受け取っていない[14]。
2000年に『明治・大正スクラッチノイズ』(文芸社、文庫版:2009年、ウェッジ文庫)を刊行し、健在ぶりをアピールした。
2010年にCSファミリーチャンネルで『無法松の一生』(1964年、東北新社 / フジテレビ)が再放送されるにあたり、同ドラマに警察署長役で出演していた柳澤が「雑学王」として本編放送前後に明治・大正の時代背景やドラマ草創期の裏側などを解説し、老いてもなお洒脱で元気な姿を見せていた。また、TBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』にも不定期で出演していた。
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