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日本の戦国~安土桃山時代の女性、征夷大将軍・徳川家康の継室 ウィキペディアから
朝日姫(あさひひめ)、または旭姫は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。豊臣秀吉の異父妹[1]とされるが、同父妹とする指摘もある[2]。徳川家康の正室[1](継室)。名は旭(あさひ)といわれる。家康との結婚後は駿河御前(するがごぜん)[3]と呼ばれ、死後は法名の南明院(なんめいいん)でも呼ばれる。
天文12年(1543年)、竹阿弥と、なか(大政所)の娘として誕生[4]。
尾張国の農民に嫁いだ。織田信長に仕えた秀吉の出世とともに、この夫も武士に取り立てられ、佐治日向守を名乗った[5]。ただし、最初の夫は佐治日向守ではなく別の織田家臣・副田甚兵衛吉成であったという話もある[4][6]。天正14年以前のことについては相互に矛盾するさまざまな伝承が存在してはっきりしない[6]。
一方、徳川家康は天正7年(1579年)に正室・築山殿を失って以来、側室は多数いたが、正室はいなかった[4](近年、西郷局が正室であったとする説がある[7])。小牧・長久手の戦い(天正12年)の和睦の後、秀吉は家康の第二子の於義丸(結城秀康)を自分の養子としていたが、秀吉は家康と主従関係をとりたいと考え、家康を妹婿とすることで形式的な従属を強めようと考えた[4]。
天正14年(1586年)、秀吉は政略結婚のために妹を強制的に夫と離縁させ、夫には500石を捨扶持として与えた[6]。この時に佐治日向守は自殺した[1]とも、剃髪して隠居したとも云うが、これも定かではない[6][4]。また、近年では本能寺の変の頃には既に離縁しており、政略結婚のために強制的に離縁された訳ではないとする説も出されている[8]。
秀吉は、同年2月22日、織田信雄の家臣で、陪臣にあたる滝川雄利(羽柴下総守)・土方雄久を使者として三河吉田に派遣し、酒井忠次を介して、徳川家康を懐柔するための縁組を持ちかけた。家康はこれを了承し、榊原康政が代理として上洛して結納を取り交わした。
朝日姫は4月に大坂城を出て聚楽第に入り、5月に浅野長政・富田知信・津田四郎左衛門・滝川儀太夫等を従えて150名余の花嫁行列は京を出発し、途中、信雄の家臣・織田長益と滝川雄利がさらに加わって、11日、三河西野に達し、14日に浜松に至って、家康の正室(継室)として徳川家に嫁いだ[9]。この時、家康45歳、朝日姫44歳だった。朝日姫は駿河府中(駿府)に居を構え、駿河御前と呼ばれた。
家康は婚儀が済んでも上洛しなかったため、大政所が岡崎の駿河御前を訪ねるという形でさらに人質となり、家康は上洛して秀吉との和議が成立した。
その後、天正16年(1588年)に母・大政所の病気の見舞いを理由に上洛したが、しばらくして快方に向かったので、9月9日、駿河に帰国した。次の上洛時期は不明であるが、聚楽第に住んでいる。天正17年(1589年)11月には病気に罹っており[8]、天正18年(1590年)1月14日、死去した[1]。48歳[1]。
この頃、家康は小田原征伐への出征準備中であり、喪を秘して東福寺[1](京都府京都市東山区本町十五丁目)に葬った。駿河御前の晩年は病気がちで臨済宗に帰依した。法名は南明院殿光室宗王大禅尼(南明院殿光室総旭大姉)[注 1]。
東福寺塔頭に南明院があるが、これは家康が駿河御前の菩提を弔うために後に建立したものである。臨済宗においての徳川将軍家の菩提寺となっていて、同院に肖像画も所蔵されている。
また、駿府の泰雲山瑞龍寺(静岡県静岡市葵区井宮町)にも分骨された墓があるが、墓の建立は秀吉によるという説と家康によるという説がある[10][11]。曹洞宗の同寺での法名は瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼。
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