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帆に風を受けて推進力とする船 ウィキペディアから
帆船(はんせん、ほぶね、英: sailing shipあるいはsailboatなど)とは、「帆」(ほ)に風を受けて推進力とする船のことである。
伝統的な帆装の大型船はトールシップと呼ばれ、一方、小型の帆船はセイルボート(sailboat)と呼ばれる。日本では小型セイルボート(特に縦帆のもの)を「ヨット」と呼ぶことが多いが、英語の「yacht」は「豪華な遊行船」を意味している。
水上交通のルールを定めている海上交通安全法でいう「帆船」は、帆を推力として進む水上の乗り物全てを指している。当記事では、この種の船全般について、中東、アフリカ、アジア、オセアニア、南北アメリカのものも含めて解説する。
帆船の分類法は複数あるが、よく使われるものとしては、その帆装で分類する方法がある。
「帆装」(はんそう)とは船舶工学における帆船の艤装の構成要素で、マストと帆の組み合わせを体系化したものである。多くの場合、以下の3つの構成を含む。
帆には横帆と縦帆の2種類がある。横帆は追い風を捉える効率が高く、季節風を利用して長距離を移動するのに向いている。縦帆は追い風の利用効率は劣るが、より風に向かって間切る、つまりより前方から吹く風を利用することができ、操船がしやすいという利点がある。
現在ではFRPなどでできた硬翼帆や円柱を回転させマグナス効果で揚力を生じさせるローター船などの新方式が開発されている他、船体そのものを帆として利用する研究もある[1]。
以下に挙げるのは一般的に用いられる帆装と、それに類する特徴的な帆装である。一般的な帆装はマストの本数と、そこに張られた帆の種類で分類できる。
画像 | 名称 | 帆の種類 | 注記 |
---|---|---|---|
サンフィッシュ | ラテンセイル | ||
キャットボート | ガフセイル | ||
ガンター | ガフセイルとジブ | ||
スループ | ガンターよりガフセイルが大きく、分割されている点で異なる。 戦闘用のものは砲門の数によって分類される(スループ#戦闘用のスループを参照)。 | ||
カッター | スループとはマストの位置が異なる(カッター (船)#帆走カッターを参照)。 | ||
プロア | クラブクロウセイル |
画像 | 名称 | 前檣の主帆 | 後檣の主帆 | 注記 |
---|---|---|---|---|
ブリッグ | 横帆 | 戦闘用のものは砲門の数によって分類される(スループ#戦闘用のスループを参照)。 | ||
スノー | ブリッグ型に加えて「スノーマスト」と呼ばれる小さな縦帆を船尾に持つ。 | |||
ブリガンティン | 横帆 | 縦帆 | 後方マストの帆の種類は問わないが、ブリッグと区別して縦帆の場合が多い。 | |
ハーマフロダイトブリッグ (スクーナーブリッグ) | ブリッグ型の横帆、スクーナー型の縦帆を持つ。 ブリガンティンと同一視されることが多い。 | |||
スクーナー | 縦帆 | マストが3本以上の場合でも、全て縦帆であればスクーナーと呼ばれる。 | ||
トップスルスクーナー | スクーナーのうち、前のマスト上部に横帆を持つもの。 操作が比較的容易なため、トレーニングシップにこの形が多い。 | |||
ツートップスルスクーナー (ジャッカスブリッグ) | スクーナーのうち、両方のマスト上部に横帆を持つもの。 | |||
ケッチ | 上記の帆装に比して小型のミズンマストを持つ。 ミズンマストの高さと目的で区別される(ケッチ#類似した帆装を参照)。 | |||
ヨール |
帆船の源流には、北ヨーロッパを中心に横帆[注 1]式の帆を用いた「北方船」と、地中海やペルシャ湾を中心に縦帆[注 2]式の帆を用いた「南方船」の2系統がある、と金子隆一は言う[4]。それぞれの技術が融合して15世紀に「標準型全装帆船」が誕生し、19世紀のクリッパーに至った。その後、蒸気船の登場とともに凋落していった[5]。
(紀元前4000年頃のものと推定される古代エジプトの陶器に帆走船を描いたと思われる図案が残されているものの、この絵には人物が一切描かれていないため、本当に船なのか疑問がある[6]。)古代エジプト人は紀元前3000年頃から外洋航海をするようになり、クレタ島やフェニキアに船を出しレバノン杉などを輸入していた。紀元前2700年頃のサフラー王の墳墓には2脚のマストと操舵用のオールを備えた船のレリーフが残されており、サフラー王は8隻の艦隊でフェニキアから捕虜を連れてきたとある[6]。
紀元前2200年頃からエーゲ海で栄えたミノア文明で、貿易船を守るため戦闘専門の軍艦で編成された世界初の海軍が作られた。ギリシャ人の使うガレー船はその後も地中海東部の軍船の主流となった[7]。ガレー船には船首に小さい帆、中央に大きな帆が付いており、巡航時には帆を使い、戦闘時には帆をたたんで漕走した。細身で高速なガレー船は「長い船」と呼ばれ、連絡用や重要人物の輸送に使われたが、物資の輸送には速度は出ないが頑丈で容積のある「丸い船」と呼ばれる商用船を作り、用途に応じて使い分けた[8]。この種の船はローマ人にも利用され、マストを2本備えた船や、アンフォラを1万個運べる「一万船」と呼ばれる大型船も作られた。
紀元前の北ヨーロッパの帆走船に関してユリウス・カエサルが紀元前56年に遺した記録では、ブリトン人は獣皮と薄いなめし革で作られた帆を備えた木造船を使っていたという[注 3]。
紀元前2500年頃から、アウストロネシアの太平洋、インド洋への移民が始まり、紀元前1000年頃にはポリネシア人がサモア、トンガなどに達している。当時使われた船を示す直接の証拠はないが、風の弱い時期を選んで風上に向かって帆走していたと考えられている[9]。 ミクロネシア文化人やポリネシア人は天測や生物相の観察、うねりの観察などを用いた独自の航法技術(スター・ナヴィゲーション)を発達させ、時に数千キロにも及ぶ大航海を行っていた。
オセアニアでは、逆三角帆(クラブクロウ・セイル)を用いた帆船が盛んに建造され、人や物の交流に使用されていた。これらを総称して「セイリング・カヌー(帆走カヌー)」と呼ぶ。セイリング・カヌーには単胴のもの(アウトリガーカヌー)と双胴のもの(ダブルカヌー)がある。
アラブ人は、イスラムの共同体や信用制度を基礎として、インド洋を中心として、東アフリカから果ては中国にまで及ぶ、帆船による海上貿易ネットワークを構築し、インド洋は「イスラムの海」の様相を呈していた(勢力図が変化したのは16世紀にポルトガルなどヨーロッパ諸国が進出してからである)。アラブ人は独特な海図と航海術を発展させ、夜間の航海も可能にした。『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』の「船乗りシンドバッド」は、10世紀ごろのアラブ人船乗りの世界を描いている、といわれている。
また同海上貿易ネットワークは、インド化したアラブ人を出現させ、また同時に、アラブ化したインド人船乗りも出現させた。多くのインド商人が帆船でソファーラ(モザンビーク)周辺に行き、銑鉄を高額で買い付け回り、インドに輸出していた模様なども、アラブ人イブン・アル・ワルディの旅行記に記されている。
三角帆を特徴としたアラブ独特の帆船は、今でもザンジバル島(アフリカ)、パキスタン、モルディブ、インドネシアなど広範囲で使用されており、「ドーニー」(ドーニィ)や「ダウ」などと呼ばれている。
6世紀の中頃、聖ブレンダンがカラッハ(柳の枝に革を張ったボート)で大西洋を航海したという伝説があるが、鉄具とタールで補強し、取舵オールと帆を装備していたと伝えられる。
625年頃にイースト・アングリアの王レドウォルドを葬ったものと考えられる サクソン人の船葬墓が、1939年にサフォーク州サットン・フーで発見された。クリンカー・ビルド(鎧張り)工法で作られるなど、後のロングシップとの類似点が多く見られる[10]。
8世紀半ばから11世紀の半ばまでの300年間、北ヨーロッパではヴァイキングが勢力を拡大した。ロングシップと呼ばれる深い竜骨と取り外しのできる横帆を取り入れた船首尾同型船でイングランドを襲撃、征服し、地中海やカスピ海、北アメリカにまで至った。いくつかのロングシップが船葬墓として発見されているが、それらはオールの数が15対と少なく戦闘用のロングシップではないと見られる[11]。北欧のサガの記述には多くのオールを装備した船がしばしば見られることから、戦闘用のロングシップは更に武骨で大型だったと考えられている[11]。また、ヴァイキングは貨物用のクナールという帆走ボートを使用していた。クナールはロングシップと比べて喫水が深く、前後は短いが幅が広く、オールは少なくマストは完全に固定されていた。
ヴァイキングの退潮後も、1本マストの船首尾同型船は北ヨーロッパ諸国で使われた。11世紀のノルマン人によるイングランド侵攻を描いたバイユーのタペストリーでは、その建造から出撃の様子を見ることができる。基本的デザインはヴァイキング船と変わらないが、盾の配置や馬の輸送船など騎兵戦術への移行への対応が見て取れる[12]。また、他のロングシップの後裔としてスコットランドのウエスト・ハイランド・ガレーがある。ウエスト・ハイランド・ガレーは舷側舵ではなく船尾舵を持ち、15世紀まで使われた。
12世紀になるとバウスプリットと舵を備えた北方船が出現する。バウスプリットによって風上への帆走が可能になり、船体が傾斜した状態では役に立たない舷側舵は船尾舵へと切り替えられた[13]。13-14世紀にはこの種の大型船はコグ船と呼ばれ、ハンザ同盟の標準船舶となった。北ヨーロッパでは海戦はあまり起きなかったが、コグ船は戦時には船首楼、船尾楼を設け戦闘用に改装される場合があった[14]。時とともに船首楼、船尾楼は大型化、常態化され、居住スペースの拡張として商船にも採用された。
コグ船は基本的にクリンカー・ビルド工法だが、船体上部はカーヴェル・ビルト(平張り)工法で作られた。北ヨーロッパにはもう一種、ハルク船といわれる大型船があり、こちらは完全にクリンカー・ビルド工法で作られた[14]。
北宋時代に高麗へ派遣する使節用として造られた帆船は全長約110メートル積載量1100トン以上で、見た事のない大船だと記される。一般の貿易船としては、積載量275トン程度の大船から万斛船と呼ばれる600-900トン程度の巨大帆船まで様々な種類の船が用いられた。戦闘船は速度が重視され、一日千里を航行すると記録されている。
ヴェネツィアの旅行家マルコ・ポーロ(Marco Polo,1254年 -1324年)は20年近く元朝のクビライ・ハーンに仕えた。そのときのことを口述した『東方見聞録』において、元朝の南方交易用の帆船は、4本のマストを持ち乗員は60名程度であること、竜骨(キール)によって船体は高い強度を保っていること、浸水しても沈没を免れる隔壁構造の船体を採用していること、羅針盤によって正確な遠洋航行が可能であることを報告している。
中国の明朝では鄭和が1405年から1433年にかけて7回の大航海を行った。航海した範囲は東南アジア、インド、アラビア半島、アフリカ東岸にまでわたった。これらの航海には長さ173m、幅56mにも及ぶ巨大な帆船が用いられた(詳細は項目「鄭和」を参照のこと)。
ポルトガルのエンリケ航海王子(1395年 - 1460年)は、アフリカ大陸の金山・東方のキリスト教国プレスター・ジョンとの接触・インド航路を再開拓するために、船乗りの援助や帆船の改良に力を注いだ。
コンスタンティノープルの陥落以後、東方との交易はイスラム商人が高い関税をかけていたため、直接、中国やインドなどから陶磁器、鉄製品、綿織物、香料、香辛料、絹などを入手するルートを開拓する必要があり、帆船には様々な改良が加えられた。それまでの帆船は1本マストであったが、この頃から3本マストの帆船が現れる。キャラベル船の誕生はそれまでの西欧の貧弱な帆船と比べ活動範囲を大幅に拡大した。キャラベル船は3本のマストに三角帆(ラテン帆)を採用することで、逆風でも前進できることが特徴である。
クリストファー・コロンブスの第一回目の航海におけるサンタ・マリア号の僚艦、ニーニャ号とピンタ号がキャラベル船である。15世紀、キャラベル船とほぼ同時期に開発されたキャラック船は、遠洋航海においてそれまでの西欧の旧型帆船と比べ多量の輸送を可能にし、大西洋やインド洋を越えインドや中国との南海交易に参加することを可能とした。
コロンブスによるアメリカ大陸の発見(1492年)、ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰を経由するインド航路の再利用(1498年)がなされた。1519年から1522年にかけてフェルディナンド・マゼランによる世界一周航海がなされている。
16世紀に入ると帆船の主流はキャラベル船、キャラック船から海賊から身を守るため大砲を大量に積載できるガレオン船に代わっていった。軍船も同様に、ガレー船からガレオン船に代わっていった。ガレオン船は船首楼より高い船尾楼を持つことが特徴である。従来、竜骨の長さは船幅の2.5倍程度だったが、3倍まで船体の全長が長くなったことも特徴に挙げられる。ガレオン船は商船としても用いられたが、大量の大砲を搭載できたことから主に軍艦として用いられた。大航海時代の主役はポルトガルとスペインであったが、1588年、フランシス・ドレークらが率いるイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破り、状況は一変する。スペインは大西洋の制海権を失い、イギリスが一大海運国として台頭するきっかけとなった。
17世紀後半から18世紀にかけて、軍艦は艦隊を組み、大火力による艦隊決戦をしばしば行うようになる。この時期に行われた有名な海戦としてトラファルガーの海戦(1805年)が挙げられる。艦隊の主力は「戦列艦」と呼ばれる2-3層の砲列甲板に合計50-130門の大砲をもつ艦種であった。戦列艦は20世紀の軍艦における戦艦や巡洋艦に相当する。戦列艦に比べ軽快な、1-2層の砲列甲板に合計20-50門の大砲をもつ「フリゲート」と呼ばれる艦種も登場してきた。18世紀初頭には従来の「舵取り棒」に代わって操舵輪が用いられるようになり、より効率のよい操船が可能になった(詳細は帆船時代の海戦戦術も参照のこと)。
19世紀は帆船史上もっとも多くの帆船が建造された時代であり、そのピークは1891年のアメリカで、年間に14万4000トンの帆船が建造された[15]。とくに1880年代は歴史上もっとも多くの帆走商船が貨物輸送を行っていた[15]。
19世紀の科学的進歩は帆船の建造技術にも及んだ[15]。18世紀末にジョセフ・ハダードによって従来より2倍の強度となるロープの編み方が考案され、1850年代には鉄製のワイヤーが導入されるようになり索具の設計に大幅な自由度がもたらされた。1827年には初めての鉄製マストを持つHMS「フェートン」が建造された。マストの鉄製化は船体上部の重量軽減と省スペースとなり、強度も向上した。また1850年に鉄の肋材に木の外板を貼り付けた木鉄船体をもつ「エクセルシオール号」がリヴァプールで建造された。これらの木鉄船は、巨木の入手が困難な地域で普及した。蒸気船との競争に対して帆船の劣る点の一つに人件費問題があった。そのため、より少ない人数で船を操作できるように縮帆法や帆の構成などに工夫が加えられ、1890年代にウインチが導入された。
19世紀には、紅茶を運ぶための快速船「ティークリッパー」が中国からイギリスまで新茶を届ける速さを競い合った。最初に届けられた新茶は高値で取引されるため、船主に莫大な利益をもたらした。この競争は「ティーレース」と呼ばれ、「カティーサーク」、「サーモピレー」などのティークリッパーがしのぎを削りあった。ティークリッパーは外洋を高速で帆走できるよう、標準よりも細長い船型をしている。例えば「カティーサーク」では縦の長さは横幅の6倍に達している。微妙な操船が困難になる細長い船型が可能になった背景には、蒸気機関によるタグボートが普及し、曳航によって出入港ができるようになったことが挙げられる。
19世紀は軍艦の主力が帆船から蒸気船に交代した時代でもあった。19世紀前半あたりでは、石炭の補給の問題から蒸気船は比較的短距離の航路での運用に限られていたが、給炭地が整備され、蒸気機関の性能が向上するにつれ蒸気船の優位性が明らかになってきた。 しかし、初期の動力船は船体に対して機関部と石炭庫の容積が大きすぎ、遠距離の商用航海には不向きだった[16]。 蒸気船の優位を決定的にしたのは、1869年のスエズ運河の開通である。スエズ運河一帯はほとんど無風であるため、蒸気船の独擅場だった。帆船はその恩恵に与ることができず、上述の「ティークリッパー」の多くは中国航路から、オーストラリアからの羊毛輸送に転向を余儀なくされ、やがて姿を消していった。
クリッパーの時代が終わった1880年代には、ヨーロッパでは積載量を重視した鋼鉄製の大型帆船が作られるようになっていった[15]。帆船は荒海として知られるホーン岬を回る航路では蒸気船よりも上手く乗りきれるとされ、オーストラリア航路やチリの硝酸の輸送に活躍した。
20世紀初頭にはアメリカの「トマス・W・ローソン」や、ヨーロッパ-チリ間の硝石輸送で大規模な帆走商船隊を編成したドイツのF・ライツ社が所有した「プロイセン」など、鉄・鋼鉄製の船体で大型・多マストの帆船が建造されたが、もはや帆船は海運の主役ではなくなっていた。イギリスに於いては19世紀末から帆船の建造が行われなくなっていたが、[要出典]フランスでは1881年より帆船に対する補助金制度があったため、帆船時代の末期においても多くのフランス籍の大型商用帆船が就航していた。当時、フランス帆船は空荷で世界一周をしても、補助金によって十分な利益を挙げることができるといわれていた。
第一次世界大戦でドイツ潜水艦による商船無差別攻撃(無制限潜水艦作戦)などにより数多くの商用帆船が失われ、またフランスの補助金制度も打ち切られたため、所有していた英米仏の船会社は貨物運航を汽船に切り替えた。ドイツのライツ社は戦後賠償で失った船の一部を買い戻して再建を図ったが、結局1930年代前半迄に船員養成用の数隻を残して売却し汽船に置き換えた。両大戦間の時代はフィンランドの船主グスタフ・エリクソンが世界中で放棄された高性能の大型帆船を買い集めて大規模な帆走商船隊を編成し、ヨーロッパ-オーストラリア間で穀物輸送に当たっていた。当時は汽船の時代になってもなお航海士の免許に帆船の乗船経験を必要とした国が少なくなかったため、エリクソンの船団にはそのような実習生が多数乗船し、人的な面での需要もまだ残っていた。
しかし、エリクソンの帆走商船隊も第二次世界大戦で大半の船を失い、1947年の彼の死と共に終わりを告げた。最後まで残っていたのは南米のチリ沿岸で運航されていた1隻と、西ドイツの船主が練習船兼穀物輸送の貨物船として使用していた2隻だったが、1957年9月22日に西ドイツの「パミール」が南大西洋上で台風の直撃を受けて遭難沈没し、大半の乗員と実習生が犠牲となる惨事が起き、姉妹船の「パサート」も運航継続を断念、翌1958年6月18日にチリ沖で肥料輸送に就いていた「オメガ」が沈没し、ここに大型商用帆船は海上から姿を消した。
その後オイルショックの時代、航空力学を応用したハイテク商用帆船の建造が真剣に検討され[注 4]設計も行われたが、多くは建造前にオイルショックが終わったため実際に就航した例は新愛徳丸やポテト丸など少数である。
この時代を最後に、大型帆船の活躍の場は海軍の士官や民間の船員養成の練習船、競技用、クルーズ船など限定されたものになった。
21世紀に入ってスタークリッパー社が、前述のプロイセン号をモデルにした5本マスト・シップ型の大型帆船「ロイヤル・クリッパー」を初めとする3隻の帆走クルーズ客船をカリブ海域に投入している。
現代でも帆船の特性に由来するルール『スターボード艇優先の原則』が国際法として継承されている。
貨物船としては、オイルショック以降燃料節約を目的にした半帆走商船の研究が進み、1980年代には新愛徳丸や初代ポテト丸など複数の半帆走貨物船が就役したが、初期投資や維持コストの高さ、積載量が減り運用効率が低いことなどから短命に終わった。1999年に新造された2代目ポテト丸には帆が採用されなかった。
その後も原油高騰のあおりを受けた2007年以降、コンピュータで制御する大きな凧を装備したタンカーが運航されるようになった。このような機帆船は、第一次オイルショックの際にも検討されていたが、帆を操作する熟練した船員が多数必要であり、これが人件費を抑えようとする船主との思惑と一致しないという問題点が存在した。現在は風向風速計からえられたデータをコンピュータで解析、帆を電動モータで正確に制御することにより船員を最小限にして、最大で燃費を15-30%程度改善する効果があるとされる。これらの省エネルギーを目的とした帆船は、補助動力として風を利用しており、予定航海日数を厳守するべくヨットレースのように向かい風を利用してジグザグ航行を行ってまで燃料節約を行わない。
2008年にはフランスの海運業者Compagnie de transport maritime à la voile社(CTMV)によって、ワインの商用輸送が再開された。CTMVは108隻の古い帆走船を所有しており、その速度は8ノット程度ではあるが、環境問題に関するアピールや燃料代の節約になっている。
その後も帆走を推進力の一部とした、帆船と汽船のハイブリッド船の開発は続いている。2009年には、東京大学と海運会社による硬翼帆を使った省エネルギー帆船の研究「ウインドチャレンジャー計画」が始まった[17]。2018年には商船三井と大島造船所に継承され、2020年12月10日に東北電力と商船三井による硬翼帆の石炭運搬船を大島造船所で建造することが発表された[18]。硬翼帆式風力推進装置を搭載した船は、2022年10月までに竣工して『松風丸』として運用開始。オーストラリアなどと日本との間で性能検証が行われた結果、1日最大17%、1航海平均では5-8%の燃料節減効果が確認された[19]。
実用船としては一般的ではなくなったが、欧米ではセーリングは文化として根付いており、現代風のセーリングクルーザーを用いたセーリングだけでなく、かつて活躍した(中型程度の)商用帆船やセーリング・フィッシング・ボート(漁業用帆船)などがいくつも(微)改修されてレジャー目的で大切に乗り続けられている。また、セーリングをする人々の間では特に有名なアメリカスカップやジ・オーシャンレースなどのヨットレースが盛んに行われており、オリンピックのセーリング競技も行われ、これらに参加する帆船の帆は人力で操作するものの、船体は最新の流体力学による知見と炭素繊維などのハイテク素材を利用して開発されている。
北海道の野付湾では、ホッカイエビ漁の際に住処となるアマモを傷つけないようにエンジンを停止して帆走のみで漁を行う打瀬網漁が伝統行事として続いており、地元の観光資源にもなっている[20]。
汽船が主流である21世紀でも、航海や操船の訓練のために帆船が運用される例は多い。日本では、航海訓練所(現・海技教育機構)の帆走練習船日本丸・海王丸が更新され、21世紀に入っても運用されている。各国の海軍でも士官教育のため帆走の練習艦を運用することは多く、アメリカ沿岸警備隊ではドイツから戦後賠償として取得されたバーク(イーグル)を士官学校の海洋実習船として利用している。
水上機はエンジンで水上を滑走するだけでなく帆を張れば帆船ともなるため、一種の機帆船とみなすこともできる。
機械の信頼性が低かった時代にはエンジンの故障で不時着水した際、陸まで移動するための予備動力として取り外し可能なマストと帆が搭載されており、緊急時には帆船となって移動することが想定されていた。
エンジンの信頼性が向上した現代の水上機には採用されていない。
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