岩崎 久弥(いわさき ひさや、1865年10月14日〈慶応元年8月25日〉 - 1955年〈昭和30年〉12月2日)は、日本の実業家。三菱財閥3代目総帥。正四位[1]、男爵[2]。
男爵 岩崎 久彌 いわさき ひさや | |
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第3代 三菱財閥総帥 | |
任期 1893年(明治26年) – 1916年(大正5年) | |
前任者 | 岩崎弥之助 |
後任者 | 岩崎小弥太 |
個人情報 | |
生誕 | 1865年10月14日 |
死没 | 1955年12月2日(90歳没) |
国籍 | 日本 |
配偶者 | 岩崎寧子 |
子供 | 長男・彦弥太 次男・隆弥 三男・恒弥 長女・美喜(沢田廉三夫人) 次女・澄子(甘露寺方房夫人) 三女・綾子(福澤堅次夫人) |
親 | 岩崎弥太郎(父) 岩崎喜勢(母) |
親族 | 岩崎弥次郎(祖父) 岩崎美和(祖母) 保科正丕(義祖父) 保科正益(岳父) 岩崎弥之助(叔父) 岩崎小弥太(従弟) 岩崎俊弥(従弟) 岩崎輝弥(従弟) 加藤厚太郎(甥) 木内良胤(甥) 木内信胤(甥) 岩崎勝太郎(養甥) 岩崎寛弥(孫) 澤田久雄(孫) 国広ジョージ(曾孫) |
出身校 | 慶應義塾 |
職業 | 実業家 |
生涯
久弥は岩崎弥太郎・喜勢夫妻の長男として土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市)に生まれた。父・弥太郎は三菱財閥の創設者。明治8年に福澤諭吉の慶應義塾に幼稚舎から入塾。3年後に父が開設した三菱商業学校(明治義塾)に転じ、英語や簿記、法律、経済を学んだ。慶應義塾普通部を卒業後、明治19年に米国留学し、1888年(明治21年)にアメリカのペンシルベニア大学ウォートン・スクールに入学。
1891年(明治24年)に帰国後、副社長として三菱社に入り、1894年(明治27年)、三菱社の合資会社転換と共に、叔父・岩崎弥之助に代わって社長に就任。以後、1916年(大正5年)にいとこの岩崎小弥太に社長を譲るまで、三菱財閥三代目として長崎造船所の近代化や東京・丸の内地区の開発など事業の拡充を図り、麒麟麦酒、農政事業、製紙業などの創業にも関わった。特に農政事業に関しては小岩井農場(岩手県)、末廣農場(千葉県)のほか、朝鮮半島、スマトラ島、ブラジルといった海外にまで経営の手を広げた。また、現在でいう事業部制を三菱合資会社に導入し、グループの活性化をもたらした。
太平洋戦争後の1947年、GHQの財閥解体政策により、3人の息子と共に財閥家族に指定され、三菱傘下企業の全役職を辞任。千葉県富里にあった末廣農場の別邸にて引退生活を送った。
公共資産
久弥は和田維四郎の指導により主に古典籍を収集「岩崎文庫」を設立(後に東洋文庫に統合)。1924年、東洋学の研究進展のため東洋文庫(東京都文京区本駒込)を設立するなど、様々な社会貢献を行った。
江東区清澄の清澄庭園、本駒込の六義園(りくぎえん)は、それぞれ1924年と1938年に久弥が東京市に寄付したものである。
東京市下谷区茅町(現・台東区池之端)にあった岩崎家本宅は、1896年に久弥が建てたものである。現在は洋館、撞球室(ビリヤード場)、和館の一部が残り、宅地とともに重要文化財に指定されている。洋館と撞球室はジョサイア・コンドルの設計である。岩崎久弥邸は大戦後は、占領接収を経て、最高裁判所司法研修所などで使用されたが、2001年より東京都の管理で「旧岩崎邸庭園」として一般公開されている。
久弥に関連がある台東区(旧岩崎邸庭園)、高知県安芸市(出身地)、岩手県雫石町(小岩井農場)、千葉県富里市(別邸)の4自治体は2018年5月16日、「岩崎家ゆかりの地広域文化観光協議会」を設立した[3]。
栄典
- 位階
- 勲章等
家族
寧子(しずこ)夫人(旧上総国飯野藩第10代藩主・保科正益子爵の長女)との間に3男3女。なお久弥の義父・保科正益は、楠田咸次郎の父であり、また沢田鋓義の義父でもあるが(故に楠田咸次郎と沢田鋓義は久弥の義兄弟に当たる)、楠田咸次郎は元三菱銀行頭取・田実渉の義父であり、沢田鋓義も元三菱重工業社長・牧田與一郎の義父であるため、戦後の三菱系企業の経営者である田実と牧田も三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係で結ばれているといえる。
三菱銀行取締役や東山農事社長等を歴任した岩崎寛弥は孫、建築家の国広ジョージ(国広ジョージ健彦)は曾孫。
- 妻:寧子(1874年~1944年3月10日)保科正益子爵長女。1894年結婚。3男3女を儲ける。
- 長男:彦弥太(1895年 - 1967年)三菱合資会社副社長、三菱地所取締役などを歴任。妻の操子は佐竹義準男爵三女。
- 次男:隆弥(1896年 - 1983年)三菱瓦斯(現在の三菱瓦斯化学とは別会社)、三菱製紙、小岩井農牧の各会長を歴任。妻の敏は池田成彬長女。
- 三男:恒弥(1898年5月7日~1967年4月2日)東京海上火災保険常務、小岩井農牧取締役などを歴任。妻の勝代は海軍中将清河純一長女。
- 長女:美喜(1901年 - 1980年)社会事業家。本名は澤田 美喜(読みは同じ)。のち外務官僚・沢田廉三と結婚。敗戦後、エリザベス・サンダースホームを創設した。
- 次女:澄子(1903年1月20日~1937年9月12日)甘露寺受長伯爵弟・方房に嫁ぐ。晩年は聖路加病院に入院、姉・美喜が米国ニューヨークからの帰国後に見舞いに聖路加病院に通う。敬虔なクリスチャンとなった美喜の影響もあり、澄子は死の直前に洗礼を受け、病死。
- 三女:綾子(1908年7月8日~2018年1月11日)福澤諭吉の孫・堅次(諭吉次男・捨次郎と林董伯爵令嬢・菊の次男)に嫁ぐ。昭和55年に姉・美喜とスペイン講演旅行に赴いた。2018年1月11日に109歳で死亡。
脚注・出典
関連項目
外部リンク
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