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日本の明治時代後期~昭和時代後期の神職者・伯爵、伯爵甘露寺義長長男 ウィキペディアから
甘露寺 受長(かんろじ おさなが、1880年〈明治23年〉10月5日[1][2] - 1977年〈昭和52年〉6月20日[1][2])は、日本の華族(伯爵)。甘露寺家第35代当主。東宮侍従、侍従、侍従次長、明治神宮宮司を歴任した。官位は従二位勲一等[2][3]。
学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学法科卒業。法学博士。学習院初等科在学中より皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の御学友として、宮中出仕した。
1910年(明治43年)12月、東宮侍従に任じられ[2]、大正天皇践祚の後も東宮侍従として裕仁親王(のちの昭和天皇)に仕えた[2]。
1917年(大正6年)9月26日、父・義長が帰幽すると[5]、10月20日に家督を継承し、当主となった[1]。
1926年(昭和元年)12月25日、裕仁親王即位に伴い、侍従に任じられる[2]。
1939年(昭和14年)5月26日、侍従次長に就任した[6]。
1946年(昭和21年)8月12日、掌典長に就任した[7][8]。
1950年(昭和25年)、長谷外余男熱田神宮宮司の願い出に応じ、非公式に生物学御研究所前に於いて勅祭社宮司の拝謁の機会をつくった[9]。この拝謁が、毎年行われている勅祭社宮司会の拝謁の契機となった[9]。
1952年(昭和27年)11月21日、2月4日に創業80年を迎えた大塚製靴の記念祝典に、来賓として出席した[10]。
1953年(昭和28年)10月、第59回神宮式年遷宮に勅使として参向した[2]。
1959年(昭和34年)、結婚前の正田美智子にお妃教育の一つである宮中祭祀を講義した[2]。4月10日、皇太子明仁親王との結婚の儀に奉仕した[2]。婚儀で、三箇夜餅の儀の役を夫婦でつとめた[11]。5月21日、掌典長を辞した[8]。
1959年(昭和34年)5月21日、掌典長を辞し宮内庁を退官したその同日、明治神宮宮司に任命され、神社本庁顧問に就任した[3]。
1972年(昭和47年)2月4日、大塚製靴創業満100年記念式典に来賓として出席し[12]、自身の経験や大塚製靴との関係に触れつつ祝辞を述べた[原文 1]。3月31日、93歳という高齢もあって宮司を辞し、4月1日、同宮として初の名誉宮司に就任した[3]。
1977年(昭和52年)6月20日、港区南麻布の自宅に於いて、老衰のため帰幽した[3]。6月24日、青山葬儀所に於いて、明治神宮・霞会館の合同葬として、葬儀が執り行われた[3]。墓所は港区善光寺。
出典がないものは、『平成新修旧華族家系大成』上巻, p. 477を参照している。
長女の績子の再婚相手、近藤荒樹と先妻伊久子の子・荒一郎(受長と血縁関係はない)は池田勇人の長女・直子と結婚している。また池田の娘婿(直子の妹の夫)は大蔵官僚を経て防衛庁長官や外務大臣、自民党幹部などを歴任した池田行彦であり、池田の甥(池田の妹の子)は田中角栄元首相の養女と結婚しているため、田中の長女田中眞紀子と眞紀子の夫で防衛大臣などを歴任した田中直紀などの田中家は池田家・近藤家・甘露寺家・北白川家を通して皇室と遠戚関係にある。また池田の三女はブリヂストン創業者石橋正二郎の甥・石橋慶一(石橋幹一郎などの従兄弟)と結婚しており、池田行彦と義兄弟の関係にある。また、田中家は石橋家の係累からも皇室とにつながっている。
弟の甘露寺方房は東洋カーボン(現在の東海カーボン)の監査役を務め[17][18]、その妻は三菱財閥の3代目総帥・岩崎久弥の次女・澄子である[17][18][19][20]。故に甘露寺家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係にある[17][19]。なお、岩崎久弥の従兄弟・岩崎小弥太(叔父である岩崎弥之助の長男)は薩摩藩の島津家から夫人を迎えており、島津家の係累からも甘露寺家は皇室と遠戚関係にある。また、方房の曾孫にあたる仁房は、プロ野球独立リーグの滋賀GOブラックスでプレーをするプロ野球選手である[21]。
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