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対南工作(たいなんこうさく、朝鮮語: 대남공작/對南工作)は、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)が大韓民国(以下、韓国)に対して行う政治的、軍事的、あるいは思想的な工作活動を指して用いる言葉。
東北抗日聯軍など抗日パルチザンの金日成らソビエト連邦に支援されて成立した北朝鮮は、国家の創設期にすでに南進を計画しており、1950年の朝鮮戦争に至ったが、目標を徹せずに1953年に停戦した。1955年4月の朝鮮労働党中央委員会において金日成は、「すべての力を祖国の統一独立と共和国北半部における社会主義建設のために」と題する発表を行った。これは従来採用されていた、軍による南進統一路線を転換するもので、住民が自ら革命を起こすための工作を行うことを目的としており、のちに、レーニンの「四月テーゼ」にならって4月テーゼとして知られるようになった。
一方、韓国では1960年の四月革命によって成立した第二共和国体制下において、北朝鮮との融和の気運が高まっていた。この情勢を憂慮した韓国軍一部幹部による1961年の5・16軍事クーデターの成功以後、国家再建最高会議による軍事政権下では逆に反共主義への傾斜が強まり、続く第三共和国においてもこれは踏襲された。この情勢変化により、韓国人による革命的民主主義の実現が遠のいたため、4月テーゼに基づいて、1966年5月に特殊作戦を専門に行う第283部隊を総参謀部偵察局に新設した。その後、内部の粛清を終えた後に組織が再編され、1967年8月12日に283部隊は第124部隊となった。
なお、1966年以降に北緯38度線で銃撃戦が発生し、第二次朝鮮戦争を予感させていたが、ソ連は、これらの衝突の原因を作っているのは北朝鮮であると分析していた。ソ連は1961年に北朝鮮と軍事同盟を締結しており、南北の衝突によってアメリカとの直接戦争となることを非常に恐れた。
1968年1月21日、124部隊31人が軍事境界線を越えて南進、朴正煕大統領と閣僚の殺害による民衆革命の実現を目指したが失敗、韓国軍による掃討の結果、1名が逮捕、27名が射殺され、1名が自爆、2名が重傷を負いながらも境界線を越えて帰還した。韓国側は官民合わせて68名が死亡した(詳細は青瓦台襲撃未遂事件を参照)。1月23日にはアメリカの情報収集船「プエブロ号」を北朝鮮が拿捕するプエブロ号事件が発生して戦争の危機となったが、ベトナム戦争で疲弊していたアメリカは交渉の道を選び、激怒していた朴正煕の北進要求を却下した。
一触即発の危機によって124部隊の手法が疑われたが、再度の機会を与えられた。同年11月1日、124部隊はおよそ120名で東海岸の江原道三陟(サンチョク)と慶尚北道蔚珍(ウルチン)に上陸し、住民の思想改造による撹乱工作を行おうとしたが、住民に通報されて失敗し、5名が逮捕、2名が自首し、他は全て射殺された。
1969年1月の朝鮮人民軍大会で、2度の失敗を責められた対南工作担当者が解任され、軍指導部も粛清された。124部隊は再度改編され、第8特殊軍団となった。この後、偵察や情報収集、破壊工作、暗殺を基本任務とする第8特殊軍団は、北朝鮮の特殊部隊の代名詞となるが、とりたてて大きな活動は行っていない。むしろ、その後に大事件を行うのは偵察局であった。偵察局の工作員は、韓国に長期間滞在して活動することはほとんど無く、潜水艦や工作船で潜入し、アメリカ軍や韓国軍の情報収集を行って、すばやく帰還する。
1996年9月には、小型特殊潜水艦により江陵に26名の偵察局工作員が上陸、後に発覚し銃撃戦に発展した、いわゆる江陵浸透事件が発生している。工作員らは49日間の間逃走し、韓国軍は延べ150万人を動員した。工作員24名が射殺ないし自決により死亡を確認され、1名は逮捕、1名は行方不明となった。この間、韓国軍人13名、民間人6名が死亡している。
対南浸透・侵入用と見られる地下トンネル(いわゆる南侵トンネル)が、非武装地帯(DMZ)付近に少なくとも4本見つかっている。この他にも未発見のトンネルがあると見られている。
緊張を続けた南北両国だったが、1970年7月の在韓米軍削減通告によって一挙に雪解けし、1971年に北朝鮮が統一会談を提案したことから、南北赤十字予備会談、首相級会談、赤十字本会談を行うなど、緊張が緩和された。金日成は「高麗民主連邦共和国」構想を提案し、北朝鮮は世界保健機関にも加盟した。しかし、朴正煕が金大中事件(1973年)をはじめ、国内の民主化運動を弾圧すると、再び緊張関係となる。
1988年のソウルオリンピック成功以来、東欧諸国が韓国と国交樹立、次いで冷戦終結、東欧革命、韓国ソ連国交樹立、中韓国交樹立など次々に緊張が緩和。南北も接近し、国連に同時加盟、北朝鮮のIAEAの査察に合意したが、やがて対立に転じ、1993年にNPT脱退を宣言して、クリントンのアメリカと対立する。しかし、1994年の外交工作によって衝突は回避、戦争の危機を感じたアメリカは北朝鮮融和へと動く(北朝鮮核問題)。
1998年に登場した金大中大統領は太陽政策と称した北朝鮮融和政策をアメリカの支えによって推進、北朝鮮の度重なる挑発にも動じずに政策を推し進め、2000年に金正日との南北首脳会談が実現し、和解ムードが形成された。盧武鉉大統領も宥和策を継承し、10年に及ぶ太陽政策によって南北関係は変質、大規模な南北間戦闘は発生しておらず、工作活動も発覚していないことから、対南工作活動の回数は相当に減少したと思われる。一方、核紛争によって北朝鮮融和へ向かったアメリカは、2001年に登場したブッシュ大統領の強硬路線で対立関係に戻った。また、核問題も根本的な解決には至っていない。
関連項目が多すぎます。 |
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