山科区
京都府京都市の行政区 ウィキペディアから
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山科区(やましなく)は、京都市を構成する11の行政区の1つ。京都市の東側にある山科盆地の北部と、周辺の山地を区の範囲としている。
本項ではかつて同一地域に存在した宇治郡山科町(やましなちょう)についても述べる。
東山により京都盆地から、音羽山や醍醐山(笠取山)などにより近江盆地から隔てられている。古くから京都と東国とを結ぶ交通の要衝であった[1]。
かつては農村地域だったが、現在はベッドタウンとして他地域からの移入者も多い[2]。名神高速道路の京都東ICなどもあり、京都市の東の玄関口として発展している。
東側は滋賀県大津市との県境に接しており、大津との結び付きも強い[注 1]。
南側は伏見区醍醐地区に接しており、山科区と同一の生活圏や経済圏を形成している[4]。古くより同じ宇治郡であり山科川流域でもある山科区と醍醐地区との繋がりは、伏見区中心部と醍醐地区の繋がりよりも深いとされ[4]、市政や観光案内においても、山科と醍醐は一括りにされることが多い[5][6]。
区を構成する町:京都市山科区の町名を参照。
山科区に相当する地域の人口の推移 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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総務省統計局 国勢調査より |
山科の栗栖野台地上にある中臣遺跡からは旧石器時代の石器や弥生時代の方形周溝墓が発見されており、古くから山科には人々が住んでいたいたことが窺える[7]。
律令制下において、山科は山城国宇治郡に属していた8郷のうちの1つであり、古くは「山階」「山品」とも表記された[8][9][10]。
山科は古代より中央政権との結びつきが深かった。中臣鎌足は山科に邸宅(陶原館)を建てて拠点とし、天智天皇に山科から近い大津宮へ遷都するよう進言した[11]。鎌足は657年に館の一角に仏堂を建て、669年には妻の鏡王女が鎌足の病状を回復を祈願するために仏像を安置して山階寺とした[12][13][14]。山階寺は後に飛鳥を経て奈良に移り、興福寺となった[15][16]。672年に天智天皇が崩御すると、陵は山科に造営された(御廟野古墳)[17][18]。
平安遷都後、山科には安祥寺(848年)・毘沙門堂門跡・勧修寺(900年)・曼荼羅寺(後の随心院、991年)など多くの寺院が建立され、醍醐には醍醐寺(874年)が創建されている[19]。
また、山科周辺は平安遷都以前から交通の要衝であった。奈良時代には北陸道(現:奈良街道)が宇治方面から山科盆地を北進して近江国に抜けるルートをとっており、山科には宿駅が設置された[20]。平安遷都に伴って山科駅は廃止されたが、京と東国を結ぶ東海道・東山道が山科盆地の北端を通るようになった[8][20][21]。
平安時代末期、後白河上皇は山科に別荘(山科新御所)を造営した[22][23]。新御所周辺の所領は上皇の崩御後に寵妃の高階栄子に与えられ、更にその子の藤原教成に継承された[24][25]。以降、教成の子孫は山科家と称すようになった。
室町時代後期の1478年、蓮如によって山科本願寺が建てられ[26]。山科本願寺は強固な堀と土塁による防衛機能を有し、寺を中心とする寺内町が形成された[27]。 しかし城郭都市のようになった本願寺の存在と門徒たちの勢いを恐れた細川晴元は、京都市内をほぼ勢力下に置いた日蓮宗徒らと結託して一向宗に打撃を加えようとした。最盛期には、山科は宗教都市として「仏国の如し」と称されるほどの繁栄を誇ったが[28]、1532年に細川晴元や京の日蓮宗信者らによって破壊され(山科本願寺の戦い)、本願寺は大坂の石山に移った[29]。山科本願寺は廃墟と化したが、今も高い土塁の跡が区内各地に残存している。
1600年の関ヶ原の戦いの後、山科は皇室の領地(禁裏御料)となった[30]。この時期の山科には山科郷士という、禁裏の警固などを担う身分があり、農民でありながら名字や帯刀が許可されるという特異な身分であった[31]。
江戸時代には山科や四宮、髭茶屋追分までが東海道の街道筋として一続きの町となり、飛脚や参勤交代をはじめ多くの人々が行き交った[32]。髭茶屋追分からは京都を通らず大津宿と伏見宿、大坂を直接つなぐ伏見街道(大津街道)が山科盆地を南へ走っていた[33]。
1701年、赤穂浪士の大石良雄(内蔵助)は山科西部の西野山に移住し、仇討ちまでの間、夜毎東山を越えて祇園に通いながら世間の目を欺いていた[34]。
明治以降、琵琶湖疏水や東海道本線、京阪京津線などが山科を通るようになり[35]、1933年(昭和8年)に京津国道(現:三条通)が開通し、大正から昭和にかけては繊維・染色関係の工場が建つなど、山科は京都郊外の住宅・工業地として発展した[33]。1921年(大正10年)に西野に建設された日本絹布が特に大きな工場であり、翌年鐘紡に吸収されその山科工場となった。多くの女工が周囲に住み、近隣には市場や映画館もできるなど山科駅周辺の市街地化に貢献した[注 2]。
京都郊外のレジャー地区としてゴルフ場、ダンスホール、料亭なども開設されている。1926年(大正15年)に町制を施行した後、1931年(昭和6年)に京都市東山区に編入されたが[37]、この時点では住宅や工場は東海道沿いと山科駅周辺に集中しており、その他は竹やぶの散在する近郊農村だった。
戦後、名神高速道路の京都東インターチェンジや国道1号線五条バイパス、区内の外環状線、国鉄(現JR西日本)湖西線が開通している。
高度成長期以降は盆地内の農地の宅地化が進み、大型団地が建設されるなど京都や大阪のベッドタウンとなった。ただし、この際に道路整備が追い付かなかった事が、区内各所での渋滞が慢性化している原因にもなっている。
1976年(昭和51年)、東山区のうち旧山科町に相当する地域が分割され、山科区が成立した[37]。
近年は京都市中心部と山科・醍醐を結ぶ京都市営地下鉄東西線が開通するなど更なる交通網の整備が進んだほか、山科駅前は地下鉄開通とともに再開発され、商業施設「ラクト山科」が建設されている[37]。そのため山科駅周辺ならびに地下鉄東西線が地下を走る外環状線沿線は活気ある街に育ちつつあるが、かつてのメインストリートであった旧東海道や醍醐街道の繁栄振りは鳴りを潜め、空洞化が進んでいる。
郵便番号は607-00・-08・-09・-80・-81・-82・-83・-84が使用されている。
1997年(平成9年)10月1月日まで京都市営バスの路線が存在したが、翌10月12日の地下鉄東西線開通に伴うバス路線再編で、路線網を京阪バスに譲り撤退していた[38]。このため、山科は京都市の11区で唯一市バス路線のない区であった。しかし、2021年(令和3年)12月1日より河原町三条・四条河原町と山科団地・国道東野を結ぶ特80系統の運行を開始したことにより、24年ぶりに京都市営バスの路線が復活した[38][39]。
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