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日本のサッカー選手 ウィキペディアから
城 彰二(じょう しょうじ、1975年6月17日 - )は、北海道室蘭市生まれ、鹿児島県姶良郡加治木町(現:姶良市)育ちの元プロサッカー選手。現役時代のポジションはフォワード。元日本代表。
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名前 | ||||||
愛称 | ジョウ | |||||
カタカナ | ジョウ ショウジ | |||||
ラテン文字 | JO Shoji | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1975年6月17日(49歳) | |||||
出身地 | 北海道室蘭市 | |||||
身長 | 179cm | |||||
体重 | 72kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1991-1993 | 鹿児島実業高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1994-1996 | ジェフユナイテッド市原 | 99 | (35) | |||
1997-2002 | 横浜F・マリノス[注 1] | 106 | (59) | |||
1999-2000 | → バリャドリード (loan) | 15 | (2) | |||
2002 | → ヴィッセル神戸 (loan) | 25 | (1) | |||
2003-2006 | 横浜FC | 151 | (44) | |||
通算 | 396 | (141) | ||||
代表歴2 | ||||||
1996 | 日本U-23 | 3 | (0) | |||
1995-2001[1] | 日本 | 35 | (7) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2006年12月2日現在。 2. 2001年3月24日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
1998年ワールドカップフランス大会日本代表メンバー。
北海道に生まれる。小学生時代にサッカーのビデオを借りてフランク・オルデネビッツ(後にチームメイトとなる)のプレーに熱中していた。中学生の時に名古屋市立日比野中学校を経て両親の出身地である鹿児島県へ引っ越す。
鹿児島実業高校サッカー部では松澤隆司監督の指導を受け、2年先輩に前園真聖や藤山竜仁や遠藤拓哉(遠藤彰弘・遠藤保仁の兄)、同学年に遠藤彰弘や横山博敏、2年後輩に平瀬智行などがいた。
高校3年時の高校サッカー選手権大会第72回大会でベスト4に入った(大会得点王はチームメイトの野見山秀樹)。
卒業後はJリーグのジェフユナイテッド市原に加入。デビュー戦でゴールを挙げ、それから4試合連続ゴールを挙げるなど注目を集めた[2]。
市原では若くしてチームを象徴する選手となるが、日本代表での活躍や海外移籍などを見据えたキャリアアップを理由にして1997年に横浜マリノス(1999年から横浜F・マリノス)へ移籍した。マリノスでは高校の同期生遠藤と同僚となり、チームの中心選手として活躍した。
アトランタオリンピックを目指す五輪代表チームに選出され、アジア予選ではもう1人のエースであった小倉隆史が最終予選前に負傷離脱した事もあり、前線の軸を担い28年ぶりの本大会出場に貢献。韓国との決勝では1-2で敗れはしたものの、オーバーヘッドシュートを決めた。1996年の本大会にも出場し、結果はグループリーグ敗退だったが、ブラジル戦では相手GKジーダと競り合って伊東輝悦のゴールを演出し、マイアミの奇跡と呼ばれる勝利に貢献した。
1997年には、フランスW杯アジア最終予選で悲願の初出場に貢献した。11月16日、日本がイランを破って本大会出場を決め、ジョホールバルの歓喜と呼ばれたアジア第3代表決定戦では同点ゴールを決めた。
1998年、エースストライカーとして臨んだフランスW杯本戦では得点することが出来なかった。チームも3戦全敗を喫して、特にアルゼンチン戦ではTVで解説を務めていたラモス瑠偉により「シュートを外してヘラヘラ笑っている」と激しく批判され、戦犯として日本中で批判を受けた[3]。帰国時に激怒したサポーターから水攻めをくらっている。ただし、ラモス本人からは後にこの発言について謝罪されている[4]。
フランスW杯以後も代表に選出されていたが、2001年3月の対フランス戦を最後に代表から外れた。
城はフランスW杯での挫折からの巻き返しを誓い、後のJリーグでゴールを量産。そして2000年1月、念願だった欧州リーグに挑戦する事となる。
スペインのリーガ・エスパニョーラ1部・レアル・バリャドリードへシーズン途中でレンタル移籍し、ほぼレギュラーとして活躍。得点こそオビエド戦で挙げた2得点にとどまったが、ポストプレーなどでのチームへの貢献が評価された。なお、横浜FM時代の年俸は2億円だったが、レアル・バリャドリード時代は3500万円まで下がった[5]。
シーズン終了後に完全移籍やレンタルの延長が検討されたが、日本代表の試合での負傷がきっかけで高校時代から膝の前十字靭帯を切ったままプレーを続けていたことが発覚し、契約を見送られた。
スペインでのプレーが出来なくなり、横浜F・マリノスへ復帰したが、その後はケガや体調不良などで得点数が激減した。
横浜F・マリノスは城がスペインにいた2000年前半のJ1・1stステージで5年ぶりのステージ優勝を遂げ、エースの不在をはね返した。逆に同年12月のJリーグチャンピオンシップにおける2試合無得点の敗退(鹿島アントラーズが優勝)やリーグ最終戦までJ2降格の危機が残った2001年の低迷は城の不振が原因とされ、サポーターからの批判を浴びた。期限付き移籍でヴィッセル神戸に加入[6] した2002年も1ゴールのみに終わり、年末には神戸から翌シーズンの契約延長を見送られ、また本籍の横浜F・マリノスからも戦力外通告を受け、J1でのプレーはこの年限りとなった。2003年にJ2の横浜FCへ加入した。
社長の奥寺康彦が市原のゼネラルマネージャーや監督として獲得や指導に関わった城を勧誘した事で実現し、高校の同期生の横山と同じチームになった。城はレギュラーとして試合に出場し、その合間にテレビのスポーツ番組やバラエティ番組への出演もしばしば行った。
財政難や劣悪な練習環境に苦しむ横浜FCは低迷を続け、J1昇格を予想される事はほとんど無かったが、城はコンスタントな活躍を続け、徐々に同僚やサポーターからチームリーダーとしての信頼を勝ち取っていった。 城は後にスポーツ雑誌『Number』のインタビューに答え、この時期の意識変化は妻の助言に依る所が大きかったと述べた。
2006年には主将として高木琢也監督の下、三浦知良とツートップを組み、クラブ初のJ1昇格を決めたが、前述の靭帯の故障が限界に達し、2006年シーズンを最後に現役引退を発表。シーズン中にも拘らず11月23日・三ツ沢公園球技場で行われた徳島ヴォルティスとの試合後にファンの前で引退の挨拶を行った。この時、当時39歳の三浦知良は「俺よりも若い」と引退を惜しんでいる。
現役最後の公式戦となった12月2日の愛媛FC戦ではアシストを記録し、試合後のセレモニーでJ2優勝カップを掲げ三ツ沢の1万人以上のサポーターからの歓声で送り出されて、13年間のプロサッカー選手生活を終えた。
引退後の2007年2月にはJリーグ百年構想メッセンジャーに任命され、Jリーグが目標に掲げる地域スポーツ文化形成のための各種広報活動に参加している。この他、テレビ(主に日本テレビ放送網のJリーグ・日本代表・高校サッカーなどのレギュラー解説者)などで試合解説、スポーツニッポンの評論家として活動している。
同年4月より日本テレビ放送網の『サッカーアース』コメンテーター出演。
なお、引退試合開催に必要な公式戦500試合出場は満たすことは出来なかったが、日本代表に貢献した功績を鑑みて引退試合の開催が許可された。城の引退試合は最終所属クラブである、横浜FCの主催試合として2008年1月27日に三ツ沢公園球技場で行われた。
2009年、日本サッカー協会指導者ライセンスの最高位であるS級ライセンスを取得した。
2013年、インテル・ミラノの日本でのサッカースクール「インテルアカデミージャパン」のテクニカルディレクターに就任。
2017年5月、北海道サッカーリーグに所属する十勝FC(現・北海道十勝スカイアース)のスーパーバイザーに就任[7]。
2019年3月、北海道十勝スカイアースの統括ゼネラルマネージャー就任が発表された[8]。
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1994 | 市原 | - | J | 33 | 12 | 2 | 1 | 2 | 0 | 37 | 13 |
1995 | 43 | 14 | - | 0 | 0 | 43 | 14 | ||||
1996 | 23 | 9 | 13 | 4 | 1 | 0 | 37 | 13 | |||
1997 | 横浜M | 9 | 21 | 12 | 0 | 0 | 2 | 2 | 23 | 14 | |
1998 | 31 | 25 | 0 | 0 | 1 | 0 | 32 | 25 | |||
1999 | 横浜FM | 11 | J1 | 25 | 18 | 6 | 3 | 3 | 1 | 34 | 22 |
スペイン | リーグ戦 | 国王杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1999-00 | レアル・バリャドリード | 25 | プリメーラ | 15 | 2 | ||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2000 | 横浜FM | 31 | J1 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 |
2001 | 11 | 25 | 2 | 8 | 4 | 1 | 0 | 34 | 6 | ||
2002 | 神戸 | 9 | 25 | 1 | 6 | 2 | 1 | 0 | 32 | 3 | |
2003 | 横浜FC | 25 | J2 | 33 | 12 | - | 1 | 4 | 34 | 16 | |
2004 | 35 | 8 | - | 2 | 0 | 37 | 8 | ||||
2005 | 9 | 40 | 12 | - | 1 | 0 | 41 | 12 | |||
2006 | 43 | 12 | - | 0 | 0 | 43 | 12 | ||||
通算 | 日本 | J1 | 230 | 95 | 35 | 14 | 11 | 3 | 276 | 112 | |
日本 | J2 | 151 | 44 | - | 4 | 4 | 155 | 48 | |||
スペイン | プリメーラ | 15 | 2 | ||||||||
総通算 | 396 | 141 |
その他の公式戦
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1995年09月20日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | パラグアイ | ●1-2 | 加茂周 | デサント・アディダスマッチ |
2. | 1996年10月13日 | 愛知県 | 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | チュニジア | ○1-0 | プーマカップ | |
3. | 1996年12月12日 | アル・アイン | 中華人民共和国 | ○1-0 | アジアカップ | ||
4. | 1996年12月15日 | アル・アイン | クウェート | ●0-2 | アジアカップ | ||
5. | 1997年02月09日 | バンコク | タイ | △1-1 | キングスカップ | ||
6. | 1997年02月13日 | バンコク | スウェーデン | ●0-1 | キングスカップ | ||
7. | 1997年03月15日 | バンコク | タイ | ●1-3 | 国際親善試合 | ||
8. | 1997年03月23日 | マスカット | オマーン | ○1-0 | ワールドカップ予選 | ||
9. | 1997年03月27日 | マスカット | ネパール | ○6-0 | ワールドカップ予選 | ||
10. | 1997年05月21日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | 韓国 | △1-1 | ワールドカップ記念試合 | |
11. | 1997年08月13日 | 大阪府 | 長居陸上競技場 | ブラジル | ●0-3 | 国際親善試合 | |
12. | 1997年09月07日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ウズベキスタン | ○6-3 | ワールドカップ予選 | |
13. | 1997年09月19日 | アブダビ | アラブ首長国連邦 | △0-0 | ワールドカップ予選 | ||
14. | 1997年10月11日 | タシケント | ウズベキスタン | △1-1 | 岡田武史 | ワールドカップ予選 | |
15. | 1997年10月26日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | アラブ首長国連邦 | △1-1 | ワールドカップ予選 | |
16. | 1997年11月08日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | カザフスタン | ○5-1 | ワールドカップ予選 | |
17. | 1997年11月16日 | ジョホールバル | イラン | ○3-2(延長V) | ワールドカップ予選 | ||
18. | 1998年02月15日 | アデレード | オーストラリア | ○3-0 | 国際親善試合 | ||
19. | 1998年03月01日 | 神奈川県 | 横浜国際総合競技場 | 韓国 | ○2-1 | ダイナスティカップ | |
20. | 1998年03月07日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | 中華人民共和国 | ●0-2 | ダイナスティカップ | |
21. | 1998年05月17日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | パラグアイ | △1-1 | キリンカップ | |
22. | 1998年05月24日 | 神奈川県 | 横浜国際総合競技場 | チェコ | △0-0 | キリンカップ | |
23. | 1998年06月03日 | ローザンヌ | ユーゴスラビア | ●0-1 | 国際親善試合 | ||
24. | 1998年06月14日 | トゥールーズ | アルゼンチン | ●0-1 | ワールドカップ | ||
25. | 1998年06月20日 | ナント | クロアチア | ●0-1 | ワールドカップ | ||
26. | 1998年06月26日 | リヨン | ジャマイカ | ●1-2 | ワールドカップ | ||
27. | 1998年10月28日 | 大阪府 | 長居陸上競技場 | エジプト | ○1-0 | フィリップ・トルシエ | キリンチャレンジ |
28. | 1999年03月31日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | ブラジル | ●0-2 | キリンビバレッジ | |
29. | 1999年06月29日 | アスンシオン | ペルー | ●2-3 | コパ・アメリカ | ||
30. | 1999年07月02日 | アスンシオン | パラグアイ | ●0-4 | コパ・アメリカ | ||
31. | 1999年07月05日 | ペドロ・ファン・カバジェロ | ボリビア | △1-1 | コパ・アメリカ | ||
32. | 1999年09月08日 | 神奈川県 | 横浜国際総合競技場 | イラン | △1-1 | キリンチャレンジ | |
33. | 2000年03月15日 | 愛知県 | 神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 | 中華人民共和国 | △0-0 | キリンビバレッジ | |
34. | 2000年06月06日 | カサブランカ | ジャマイカ | ○4-0 | ハッサン2世杯 | ||
35. | 2001年03月24日 | サンドニ | フランス | ●0-5 | 国際親善試合 |
# | 開催日時 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 最終結果 | 大会 |
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1 | 1997年2月9日 | バンコク, タイ | タイ | 1–0 | 1–1 | キングスカップ 1997 |
2 | 1997年3月27日 | マスカット, オマーン | ネパール | 1–0 | 6–0 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
3 | 1997年9月7日 | 東京都, 日本 | ウズベキスタン | 4–0 | 6–3 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 |
4 | 1997年11月16日 | ジョホールバル, マレーシア | イラン | 2–2 | 3–2 | 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選 プレーオフ |
5 | 1998年3月1日 | 神奈川県, 日本 | 韓国 | 2–1 | 2–1 | ダイナスティカップ1998 |
6 | 2000年6月6日 | カサブランカ, モロッコ | ジャマイカ | 1–0 | 4–0 | ハサン2世国王杯 2000 |
7 | 2–0 | |||||
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