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日本の俳優 (1911-1986) ウィキペディアから
吉田 義夫(よしだ よしお、1911年1月3日[1][2] - 1986年12月22日[2])は、主に1950年代から1980年代にかけて活躍した日本の俳優である。本名は同じ[1]。
京都府[1]京都市出身。京都市立絵画専門学校卒業[1]。東映出身[1]。プロモーション・プラスワンに所属していた[1]。
京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)で日本画を学び、卒業後は法隆寺昭和大修理の一環として行われた金堂壁画模写事業に壁画摸写技官として参加し、入江波光画伯の指導の下、第八号壁(文殊菩薩像)を主任として担当した。失火による壁画損傷で模写事業が中止されると下鴨中学や立命館高等学校の美術講師を務めた。そうした才能を活かしてか、役者転向後は自分の衣装を自分で考えていたという。
兵役後、いくつかの劇団参加を経て、1951年に加藤泰監督の新東宝映画『剣難女難』で映画デビュー。1954年に東映京都の専属となる。175センチと当時にしては大柄な体躯と強面の人相で東映時代劇の悪役として欠かせない存在となった。 美術家出身の技術を生かし自ら手がけたメイクには定評があり、特に子供向けの時代劇では『笛吹童子』『三日月童子』『百面童子』など東千代之介主演の童子ものの悪代官役や、中村錦之助主演の冒険活劇で異国からやって来た妖術を使う好色な悪玉の親分などを得意としていた。 悪役であるにも拘わらず愛嬌があって子供たちには人気が高く、ファンレターをもらっていた[3]。それが子供向けテレビ番組『悪魔くん』の善玉メフィスト役に繋がっている。
1960年代からはフリーとなり、大映、松竹、東宝など各社の作品に登場。TVドラマにも活動の場を広げ、時代劇や刑事ドラマでヤクザの親分などを演じる一方、1966年の子供向け特撮テレビ映画『悪魔くん』ではコミカルかつ頼もしい善玉としても活躍した。交流のあった漫画家のみなもと太郎の著書『挑戦者たち』(少年画報社)に、この時期の吉田の人物伝がある。 「悪役俳優」としての存在感は大きく、私生活においても、一度タクシーに乗ろうとしたところ、運転手に「お前のような悪党を乗せられるか」と罵られて降ろされ、石を投げられたこともあったという[4]。
1970年代に入ると1971年の松竹『男はつらいよ 寅次郎恋歌』から主人公車寅次郎が贔屓にしている旅回り一座の座長役を演じシリーズの準レギュラーとして親しまれる。座長役の他に冒頭の寅次郎の「夢シーン」でヒーローを夢見る寅次郎に成敗される悪党役を続けて演じた。1975年の『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』では寅次郎の夢の中で美女(寅次郎の妹さくら)に襲いかかり正義の海賊(寅次郎)にやっつけられる南蛮からやって来た奴隷船の船長を凝ったメイクを施しセルフパロディーで見せた。1986年の『男はつらいよ 幸福の青い鳥』では彼が演じた旅回りの座長が亡くなったことになっているが、これは既に吉田が病に倒れていたためであり、吉田の死の二日前の公開だった。
テレビでは1974年のNHK朝の連続テレビ小説『鳩子の海』でおじいちゃん役を好演しお茶の間の人気を得る。
晩年は、自宅で日本画を描きながら悠々自適の生活を送っていた。1986年12月22日、急性心不全のため地元・京都市内の病院で死去。75歳没。
他
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