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日本で京内の司法、行政、警察を行っていた行政機関 ウィキペディアから
京職(きょうしき)とは、日本の律令制において京内の司法、行政、警察を行った行政機関である。古訓は、「みさとづかさ」[1]。唐名は、京兆府、馮翊、扶風など。なお、江戸幕府の京都所司代の別称を、京職(きょうしょく)といった[2]。
京内を東西に分け(「左京」と「右京」)、それぞれに左京職(さきょうしき)、右京職(うきょうしき)が置かれた。左京職の長官を左京大夫(さきょうのだいぶ)、右京職の長官を右京大夫(うきょうのだいぶ)という。
平安京では、姉小路の北、朱雀大路沿いに、左右の役所が位置した。
京は碁盤目状に大路・小路が南北・東西方向に整備され(条坊制)、天皇の居所である内裏とそれを取り囲む中央官庁街である大内裏は京の中央北端に設けられた。これは中国の「天子は南面する」思想に基づく都城制にならったためであり、南面する玉座より見て左に位置する京内東側を「左京」、右に位置する西側を「右京」と呼んだ。
京職は京域に関わる行政・司法・警察を統括した制度。日本書紀に初めて見える。京職は地方における国司に相当する職掌[3]を扱っているが、古代国家における京は国家を運営するために建設された人工的な都市空間としての性格を有しており、その京を運営・維持するための独自の職掌を有していた京職は国家にとっては欠くことが出来ない中央官司とされ、国司とはその性格を大きく異にしていた。これは、国司が外官(地方官)であるのに対し、京職は京官(中央官)扱いであることからも分かる[4]。また、京職と国司では同じ職掌でも、内容が大きく異なる事例もある。代表的な例として戸籍に関する業務が挙げられる。考課令には国司・郡司の評価対象として戸口増益(人口増加)があり、隠首・括出された浮浪・逃亡を貫付(本貫として戸籍に登録)した成果も含まれていた。だが、京戸の貫付(京貫)は勅によって実施され、国司の職掌であった浮浪・逃亡・死亡による除帳(戸籍などから除く)の権限も京戸に関しては政府が行い、京職が行うことはなかった。もっとも、同族による申請を除けば、除帳はほとんど実施されず、更に度重なる遷都に同行せずに旧都に留まる民もいたために戸籍と実態の乖離が大きくなった。そのため、貞観18年(876年)[5]になって京職に除帳の権限を認めることになった[6]。
左右二職ありそれぞれ左京・右京を統治する。被官に市司(いちのつかさ)があり、それぞれ左京職が東市司を、右京職が西市司をそれぞれ管轄し市場に関する事務を取り扱った。唐名を「京兆(けいちょう)」という。
行政事務を補佐するために各条ごとに坊令、各坊ごとに坊長(町長)が置かれ、末端まで統治した。坊令・坊長はそれぞれ郡司・里長に相当するが、京には郡司級の在地の有力豪族が存在しなかったことから、坊令には坊内に居住する京戸でかつ八位・初位の位階を有した者から選ばれていた。坊長には坊内に居住する白丁から選ばれた。坊長は坊内の京戸の戸籍を管理するとともに、租税の徴収、雑徭・兵士の徴発、犯罪発生時の官司への通報と犯人の追捕、坊内の治安維持、坊内で発生した奴婢・家地の売買・裁判における証明・調査など、坊内における徴税的・警察的な業務を行っていた[7]。坊令は令制では定員12人であるが、遷都ともに変化した。
ところが、平安京に遷都して以後、従来は京外に別に拠点を有していた貴族層の京への定着が進むとともに、坊令の命令に従わない貴族およびその従者が増加して問題化していった。その一方で、坊令そのものも京職の官人としての要素が強くなり、坊との関わりが希薄になった。このため、貞観4年(862年)に左京大夫紀今守の提言によって坊令に代わる地域の責任者として保長を設置し、貴族や官人をこれに任じることとなった[8]。平安時代中期(10世紀中期)になると、保長の制度も機能しなくなり、地域社会に台頭した有力者を保刀禰に任ずることでかつての坊令・保長が担ってきた役割を果たさせようとした。だが、次第に治安権限を検非違使に奪われていくことになる。だが、その他の行政面では依然として京職は一定の役割を果たしており、14世紀頃までその活動がみられる[9]。
京職は日本独自の制度である。日本の律令のモデルとなった唐の制度と比較すると、唐の長安の場合、関内道(後京畿道)-雍州(後京兆府)の下に万年県(西側)・長安県(東側)が設置され、他の地域と同様の道-州-県という地方制度の下に置かれていた(なお、わずかながら、万年県・長安県ともに長安城外の一部近郊農村も管轄としている)。更に城内では、都市内においては坊と里が別々に設定されて、坊正(日本の坊令に相当)と里正(日本の里長に相当)がそれぞれ設置されて、前者は警察的業務、後者は徴税的業務を担当していた。更に長安の市場および行(商人組合)・邸店は経済官庁である太府寺の管轄下にあったが、日本の京の市場は規模が小さく、かつ行や邸店も存在しなかったとされており、市を管轄する市司は京職の被官とされていた[10]。
室町時代には、三管領のひとつ細川氏宗家が右京大夫の職を代々世襲したため、細川氏宗家は京兆家とよばれた。また左京大夫は一色氏や大崎氏などの家格の高い一門のみが独占していた。しかし戦国時代になり、朝廷や公家が経済的に困窮し、官位が売られるようになると、左京大夫は地方の戦国大名にとって箔付けのために最も人気のある官位となり、大内氏・武田氏・後北条氏といった有力大名の他、岩城氏・大宝寺氏といった陸奥・出羽の国人領主まで左京大夫となったため、同時に何人もの左京大夫が出現するような状態であったという(右京大夫は細川氏が京都周辺の実効支配を行っていたため、細川宗家の当主のみが保持した)[11]。
江戸時代には武家官位として、二本松藩主の丹羽氏の歴代藩主の多く(丹羽長富、丹羽光重など)が左京大夫を、久保田(秋田)藩主佐竹氏の歴代藩主の多く(佐竹義宣、佐竹義敦など)が右京大夫を称した。
それぞれ左右二職に設置された
被官として 東・西市司
備考:藤原仲麻呂政権下で左右京を一人で統治する京尹(きょういん)が置かれた。
※()内の年は、補任または見任年。
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