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藤原 諸成(ふじわら の もろなり)は、平安時代初期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、正六位上・藤原助川の長男。官位は従四位上・右京大夫。
弘仁年間に文章生に補せられる。非常に理解が早くて賢く、文選の半分を暗唱するほどであり、大学寮内で三傑と称されたという[2]。弘仁12年(821年)修理少進に任ぜられた後、民部少丞・式部大丞を経て、淳和朝の天長3年(826年)従五位下・相模権介に叙任される。
仁明天皇の即位後まもない天長10年(833年)5月に右少弁に任ぜられるが、6月には大宰少弐に転じる。承和6年(839年)治部少輔に任ぜられたのち、式部少輔・勘解由次官・春宮亮と仁明朝中期は京官を歴任し、この間承和8年(841年)従五位上、承和12年(845年)正五位下と順調に昇進、承和15年(848年)には従四位下・右中弁に叙任された。また、承和9年(842年)に渤海使・賀福延が入京した際には、郊労使を務めている。
仁明朝末の嘉祥2年(849年)備前守として再び地方官を務めるが、嘉祥3年(850年)文徳天皇が即位すると右京大夫に転任する。仁寿3年(853年)従四位上。斉衡3年(856年)4月18日卒去。享年64。最終官位は右京大夫従四位上。
才学で朋輩に後れを取ることがなかったと評され、諸成自身も生来精勤を宗とした。参議に任官されないことを恨みに思っている内に、突然急逝したという[2]。
『六国史』による。
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