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京兆尹(けいちょういん)は、古代の中国で京師(首都)近郊を管轄した行政長官である。漢代にはその統括する行政区画の名称でもあった。
秦代に都城咸陽周辺の統治を目的に設置された内史を前身とする。前漢が成立すると前206年(高帝元年)に塞国、翌年渭南郡と改称されたが、前9年に再び内史の管轄とされた。前135年(建元6年)に内史が左右に分割された際に右内史の管轄とされ、前104年に右内史の管轄がさらに分割され京兆尹と改称された。職掌は郡太守と同様であるが、畿内を管轄しまた朝政にも参加したことから、左馮翊、右扶風とともに三輔と称され、宰相候補の適性が試される顕職であった。官秩は二千石(『漢書』百官公卿表上)。
三国時代の黄初年間、魏により京兆尹管轄区域は京兆郡と改称され、その長官は京兆太守と改められた。南北朝時代になると西魏により京兆太守は京兆尹と改称された。
隋初には京兆郡長官として京兆尹が設置されていたが、開皇初年に廃止されている。唐代になると開元初年に雍州が京兆尹と改称されたが、後に廃止され、京兆尹は官職制度上では消滅した。しかし、その後も京師所在地の行政長官を京兆尹と呼びならわす習慣が残された。
清代には北京付近の24県は順天府に帰属すると同時に直隷総督の監督を受ける順隷管轄区であった。中華民国建国直後は、北京政府により北京市が首都と定められたため首都近郊の重要地域とされ、1914年(民国3年)10月には順天府は京兆地方と改称されると同時に『京兆尹官制』が発布され、京兆地方長官を京兆尹と称し、他省と同等の行政権限を持たせた。1928年(民国17年)に『京兆尹官制』が廃止され河北省に統合されると京兆尹は廃止された。
日本では京職の長官である「左京大夫」「右京大夫」のことを、唐名で「京兆尹」(けいちょうのいん)と称していた。室町時代に幕府の管領を務めた細川勝元らの細川家嫡流を京兆家と呼ぶのはこれに由来する。
特に注がないかぎり、班固『漢書』「百官公卿表第7下」による。[1]
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