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元正朝の養老4年(720年)従五位下・弾正弼に任ぜられ、翌養老5年(721年)右衛士佐に転じる。
神亀6年(729年)長屋王の変の後に従五位上に叙せられると、聖武朝の初期には右少弁・少納言と太政官の官人を務める。右少弁在任中の天平7年(735年)には、親族を殺害されたとして遺族から阿倍帯麻呂が太政官へ訴えられた際に、この訴訟を放置したことを理由に右大弁・大伴道足ら他の弁官・史と共に罰せられるが、結局詔により赦免されている[1]。
天平9年(737年)藤原四兄弟の没後間もなく正五位下に進み、石次の親族にあたる橘諸兄が右大臣に昇って朝廷の実権を握ると、天平11年(739年)には抜擢を受けて、従四位下・参議に昇進し公卿に列す。議政官として式部大輔・左京大夫を務めた。
※ 注記のないものは『続日本紀』による。
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