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1544-1615, 戦国時代~江戸時代初期の武将、大名。茶人・古田織部として知られる。 ウィキペディアから
古田 重然(ふるた しげなり[1]、ふるた しげてる[2])は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人、芸術家。古田 織部(ふるた おりべ)の通称で知られる。南山城・東大和1万石の大名。官位は従五位下・織部助。
古田織部像(元禄年間『茶之湯六宗匠伝記』を着色。大阪城天守閣蔵のものより百年以上古い) | |
時代 | 戦国時代後期 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文12年(1543年)[注釈 1] |
死没 | 慶長20年6月11日(1615年7月6日) |
改名 | 景安(初名)→重然 |
別名 | 左介、織部(通称) |
戒名 | 金甫宗屋禅人 |
墓所 |
京都府京都市北区の大徳寺三玄院 京都府京都市上京区の興聖寺(豊後古田氏建立) |
官位 | 従五位下、織部助(織部正) |
主君 | 織田信長→豊臣秀吉→秀頼、徳川家康→秀忠 |
氏族 | 古田氏[注釈 2] |
父母 |
父:古田重定(勘阿弥)、母∶不明 養父:古田重安 |
兄弟 | 重然 |
妻 | 正室:中川清秀妹・せん |
子 | 重行(九郎八)、重広、重尚、小三郎、重久、娘(古田重続室)、娘(鈴木左馬介室)、新宮行朝室[要出典] |
豊臣秀吉・徳川家康の茶頭、徳川秀忠の茶の湯指南役。茶道織部流の祖。江戸幕府(柳営)の御茶吟味役。柳営茶道の祖。利休七哲のひとりで、千利休の後継者として茶の湯を大成し、茶器・会席具製作・建築・作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行をもたらした。また、武将としても大坂夏の陣で徳川方につき武功を挙げたが、豊臣側と内通しているとの疑いをかけられ、自刃した。
子供に、長子・重行(九郎八、豊臣秀頼家臣)、嗣子・重広、重尚(前田利常家臣)、小三郎(池田利隆家臣)、重久(左近、徳川秀忠家臣)がいる。
一般的には茶人・古田織部として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下「織部助」の官途に叙任されたことに由来している。「織部正」は自称と考えられている。『断家譜』、『系図纂要』においては、諱・重然(しげなり)。初名は景安(かげやす)。また手紙には古織部、古田織部、古田織部助、古田宗屋と自署した。
江戸期の史料では古田重勝と混同されている場合が多い。
古田織部が織部正ないし織部助の官位に叙された資料は、残っていない。今日、古田織部と呼ばれるのは、手紙や公家の日記からの類推である。
天正15年の九州遠征の軍令『松下文書』に「古田織部頭」、天正18年に妙応寺(岐阜県不破郡関ヶ原町)に宛てた手紙では、「古田織部頭」と自署している。また『言経卿記』文禄三年三月十三日には、「古田織部正」と書かれている。これらが古田織部が織部正と称していた根拠である。
他方で陽明文庫には、慶長19年(1614年)頃に近衛信尹に宛てた17通の書状が残っている。こちらには、「織部助」となっている。
以上を加味すると古田織部が「織部正」と自署したことはない。
古田織部の茶室の庵号は玄庵。斎号は印斎。法名は金甫宗屋である。しかし、古田織部美術館文書に「宗屋」の署名があるものの、これらの号の自署はみられない[3]。
古田織部の生年には、天文12年(1543年)と天文13年(1544年)の二通りがある。
天文13年説の根拠は、『龍宝山大徳寺誌』に出てくる「元和元年(1615年)六月十一日、七十二卒」からの逆算である。なおここでは、織部助重能(しげよし)あるいは重勝となっている。また利休の死後、天下の宗匠と呼ばれたこと、大徳寺の春屋宗園の弟子であったことなどが触れられている。
天文12年説の根拠は、松屋久重の『古織公伝書(こしょくこうでんしょ)』にある「慶長廿年卯六月十一日 七十三歳 古織殿 卯ノ年ノ人ナリ」からの逆算で古田織部が癸卯の生まれであると記録している。なお慶長20年は、1615年であり、この年の7月13日に元和に改元されているので同じ年の出来事になる。
『大日本史料(十二編之二十一)』は、天文13年説を取っており『龍宝山大徳寺誌』を根拠としている。ただしどちらも寺院と茶人・松屋久重の私的な文書であって大名家や幕府の編纂した公式記録ではない。
美濃国の国人領主であった古田重安の弟・古田勘阿弥(還俗し主膳重定と改名したという)の子として美濃国に生まれ[4][注釈 3]、後に伯父・重安の養子となったという。家紋は三引両。『古田家譜』[注釈 4]に勘阿弥は「茶道の達人也」と記されていることから、織部も父・勘阿弥の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される[5]。
古田氏は元々美濃国の守護大名土岐氏に仕えていたが、永禄9年(1567年)の織田信長の美濃進駐、あるいはその前に織田氏の家臣として仕え、織部は伯父・重安に伴われて足利義昭に属し、長岡藤孝(細川幽斎)の使番を務めた[6]。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。永禄11年(1569年)に摂津茨木城主・中川清秀の妹・仙と結婚[7]。
天正4年(1576年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。天正6年(1578年)7月、織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立て、同年11月に荒木村重が謀反(有岡城の戦い)を起こした際には、義兄の清秀を織田方に引き戻すのに成功する[8]。その後も羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の播磨攻めや、明智光秀の丹波攻め(黒井城の戦いなど)、甲州征伐に清秀と共に従軍し、禄高は300貫[9]と少ないながらも武将として活動している。
信長死後は秀吉に仕え、山崎の戦いの前に中川清秀に秀吉へ人質を出すことを認めさせたという逸話が残る(『烈公間話』)。天正11年(1583年)正月に伊勢亀山城の滝川一益を攻め、同年4月の賤ヶ岳の戦いでも軍功をあげる。この時、清秀が戦死したため織部は清秀の長男・秀政の後見役となり、翌年の小牧・長久手の戦いや天正13年(1585年)の紀州征伐、四国平定にも秀政と共に出陣している[10]。
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白になると、義父・重安の実子で義弟に当たる重続を美濃から呼び寄せ、長女・千を中川秀政の養女とした上で娶らせ中川家の家老としたという(この重続の子孫は、織部の正系が絶えた後も中川氏の家臣として存続した[6])。同年9月、秀政の後見を免ぜられる。同時期に従五位下織部助あるいは織部正に叙されたと考えられている[注釈 5]。
その後、九州平定[11]、小田原征伐に参加し、文禄の役では秀吉の後備衆の一人として150人の兵士を引き連れ肥前名護屋城東二の丸に在番衆として留まり、朝鮮には渡らなかったとみられている[12]。しかし、「古田手高麗」「御所丸茶碗」という高麗茶碗が存在しており、現地で指導した可能性がある。なお、この時の所領は、南山城の瓶原(現木津川市)と東大和の井戸堂(現天理市)で、8千石であった。
慶長3年(1598年)には子の重広に家督を譲った[13]とされるが、史料に確認できない。
慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。『系図纂要』によると、この恩賞により、晴れて1万石の大名になっている。
なお古田織部の知行宛行状などは、残っていない。天正13年に3万5千石だった所領が天正18年には、5千~8千石とされ、1万石の大名となったのは、関ヶ原の戦いの後とされている。これは、小田原・関ヶ原で古田織部が率いていた兵数から石高を逆算して想定したためである。『古織公伝書』には、「知行八千石」とあり古田織部の子孫、豊後竹田古田系譜には、天正13年に3万5千石を秀吉から貰ったと記録されている。前者は、古田織部の知人、後者は、古田織部の子孫であってどちらも正確な記録と言えないため、『系図纂要』の1万石が確定した情報源である。
この時期の織部は茶の湯を通じて朝廷・貴族・寺社・経済界と様々なつながりを持ち、全国の大名に多大な影響を与える存在であり、太閤秀吉の「数寄の和尚」(筆頭茶堂)、次いで二代将軍・徳川秀忠の茶の湯指南役にも抜擢されている。
慶長4年(1599年)2月28日、博多の豪商神屋宗湛が、毛利秀元、小早川秀包とともに織部の茶会に招かれた時、織部茶碗を見てその斬新さに驚き、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と記している(『宗湛日記』)。なお、織部が行った「破調の美」の表現法に器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があり、その実例として、大きさを縮めるために茶碗を十字に断ち切って漆で再接着した「大井戸茶碗 銘須弥 別銘十文字[注釈 6]」や、墨跡を2つに断ち切った「流れ圜悟(えんご)」[注釈 7]があげられる[注釈 8]。
織部は千利休の「人と違うことをせよ」という教えの通り、利休の静謐さと対照的な動的な「破調の美」の道具組を行い、将軍・大名の茶の湯の式法を制定し、それは織部流といわれた。茶書としては『織部百ヶ条』などを残している。弟子の大坂衆・岡村百々之介が記した『古織伝』というものもある。聞書には浅野幸長が上田宗箇を介して尋ねた『茶道長問織答抄』、伝書には『古織公伝書』、『草人木』、『数寄道次第』、『古田織部正殿聞書』などがある。織部の当時の点前は、平成時代に宮下玄覇により発足した古田織部流正伝会(織部流温知会)において、忠実な復元・修正がなされている。
織部の茶の湯の弟子には、徳川秀忠、伊達政宗、佐竹義宣、金森可重、佐久間将監、毛利秀元、浅野幸長、島津義弘、小早川秀秋、大久保忠隣、石川貞通、大久保藤十郎、大野治長、大野治房、猪子一時、小堀遠州、上田宗箇、板倉重宗、南部利直、永井尚政、佐久間勝之、岡部宣勝、船越永景、近衛信尋、広橋兼勝、常胤法親王、本願寺教如、江月宗玩、安楽庵策伝、角倉素庵、本阿弥光悦、本阿弥光益、松屋久好、大文字屋宗味、針屋宗春、上田覚甫、服部道巴、中野笑雲、原田宗馭、清水道閑などがいる。
織部好みの代表的な茶室に、浄土寺の露滴庵(広島県尾道市・竹林院の写し)、藪内流の「燕庵(えんなん[15])」[注釈 9]、「篁庵」、「蓬庵」がある。しかし、初代剣仲が作った織部好みの建物「燕庵」は1864年の蛤御門の変で焼失し、現存の「燕庵」は見舞いとして有馬郡結場村の武田儀右衛門邸から移築された写しのものである[16][17]。
書家として織部の書は左へ斜めにずれるのが特徴で、本阿弥光悦に影響を与えたとする説もある[18]。
織部について加藤唐九郎は「利休は自然の中から美を見いだした人だが作り出した人ではない。織部は美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」と述べた[19]。
大坂夏の陣の慶長20年(1615年)3月30日、織部の茶堂である木村宗喜や薩摩島津氏の連歌師が豊臣氏に内通して京への放火を企んだ罪で京都所司代板倉勝重に捕らえられた。「豊臣恩顧」の大名・織部も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせた[20]などの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日に息子たちと共に切腹を命じられた。織部はこれに際し、一言も釈明しなかったといわれる。享年73。織部は大徳寺玉林院に葬られたが、現在の墓地は三玄院の寺域となっている。
12月27日には嗣子の重広も江戸の本誓寺で斬首され、ほぼ同時に古田織部の子の多くが切腹や討死になどで亡くなっており、古田家は断絶した(『断家譜』)。しかし、娘婿の古田重続(重継)の子孫(豊後国岡藩家老)や公家・鷲尾家、嫡男重広の女系子孫が現存する(古田織部美術館図録)。
また、『茶話真向翁』や『茶話指月集』等により、以下のような逸話が伝わっている。
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