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日本のかつての銅山 ウィキペディアから
別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜市にあった銅山。総産銅量は日本第2位の約65万トン。日本三大銅山の一つ。
住友別子鉱山 | |
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戦前の別子銅山 | |
所在地 | |
所在地 | 新居浜市 宇摩郡別子山村(現:新居浜市) |
都道府県 | 愛媛県 |
国 | 日本 |
座標 | 北緯33度51分55秒 東経133度19分41秒 |
生産 | |
産出物 | 銅 |
生産量 | 約65万t(通算) |
最深 | 海抜-1,000m |
歴史 | |
開山 | 1691年 |
閉山 | 1973年 |
所有者 | |
企業 | 住友家 ⇒住友本店 ⇒住友総本店 ⇒住友合資会社 ⇒住友別子鉱山株式会社 ⇒住友鉱業株式会社 ⇒井華鉱業株式会社 ⇒別子鉱業株式会社 ⇒住友金属鉱山株式会社 |
取得時期 | 1691年(住友家による取得) |
プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
元禄4年(1691年)の開坑から1973年(昭和48年)の閉山まで283年間、一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。
最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移っていった。
坑道は全長700キロメートル、最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよぶ。
皇居前広場の公園内に現存する楠木正成像は、1900年(明治33年)に別子銅山の銅で献納された。
1900年(明治33年)の銅山川鉱毒事件や製錬所の煙による煙害など、複数回公害問題が発生している。
閉山後は植林事業の成果もあり緑深い自然の山へと戻って、産業遺跡が山林の中に佇んでいる状態であったが、別子山村の合併により一体的な観光開発にも弾みがつき、歴史的意義を風化させないことを目的として、発祥の地の旧別子の遺産群、それに続く東平(とうなる)、 端出場(はでば)、筏津(いかだつ)、星越(ほしごえ)の遺産を整備し、新居浜市の新たな観光資源として甦っている。
近代産業遺産の宝庫として文化財関係者等からは注目されていたが、そのほとんどが住友グループに属することもあって、活用が進んでいなかった。こうした近代日本を切り開く礎となった産業開発の歴史さらにはその後の環境の復元という人の営みに着目し、また石見銀山が2007年(平成19年)6月28日にユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録が決定されたこともあって、別子銅山も世界遺産登録を目指す動きがある。日本を代表する金銀銅の産地である、新潟県佐渡市(金山)、島根県大田市(銀山)、新居浜市(銅山)の3市長が集まって「金銀銅サミット」が2006年(平成18年)5月開催された。
であった。「1」は成績が不良であった場合は請負を辞退することを保留したもので、永代請負となったのは1702年(元禄15年)3月である。これよりさき同年1月、住友友芳は勘定奉行荻原重秀に呼び出され、成績不良で1698年(元禄11年)に請負を辞退した吉岡鉱山の経営を高圧的に命じられた。これは江戸幕府の貨幣政策で丁銅不足に悩んでいたためであり、友芳は交換条件として、下記の要望を提出した。
別子銅山の鉱床は、変成岩(三波川変成帯)中に現れる層状含銅硫化鉄鉱床(キースラガー)である。これは海底火山などの活動にもたらされた熱水鉱床の一種と考えられている。純度の高い黄銅鉱(銅の鉱石)、黄鉄鉱が産出されていた。鉱石中の銅の含有量が多い特徴があり、高品位の物だと20%台(現在チリで採掘されている銅鉱石は1%前後)にも達する。
別子銅山は、その種類・時代・地域の多様さ、広さにおいて、貴重な鉱業遺跡群を形成している。
別子銅山から発展してきた新居浜市には、鉱石の採掘から、精錬、関連して発生した化学工業、機械工業など、また工場・鉱業所だけでなく、社宅など生活の場も含めて、幅広い産業遺構群が現存し、一部は現在も用いられている。
その分布は、赤石山系の山中から、ふもとの端出場、山根地区、さらには海岸部の星越、惣開、新居浜港、さらに新居浜港の沖合いの四阪島(この島のみ新居浜市ではなく、今治市)に至るまで、南北方向に広範囲に分布している。
時代別には、開坑から明治、大正、昭和繁栄と閉山までの時代の変遷を示す一連の遺構が残存する。
別子銅山を記念するシンボル施設として、新居浜市により端出場地区に「マイントピア別子」が整備され、ここから県道を約5kmさらに険しい山道5.5kmの東平へは、ガイド付きの観光バスが用意されている。なお、端出場地区に所在した採鉱本部などの建屋はそのほとんどが取り壊されている。
住友別子鉱山鉄道が、石ヶ山丈〜角石原(日本初の山岳鉄道であり僅か18年で廃止になる)、惣開〜端出場に走っていた。1893年(明治26年)に開業、1952年(昭和27年)に旅客営業廃止、1977年(昭和52年)に鉱山鉄道としても廃止となった。
銅山峰(どうざんみね)嶺南にある別子銅山の発祥の地である。1691年に開坑され1916年に東平に採鉱本部が移されるまで別子銅山の中心地であった。現在は森に甦っているが、新居浜市街地から県道47号線で大永山トンネルを越え下った別子地区に駐車場が設置され、そこから遊歩道で散策できるように整備されている。
画像の解説:左のピークは西赤石山(標高1625.8m)、中央の低い所は銅山越(標高1294m)、右のピークは西山(標高1428.7m)で、そのすぐ左の雪の有る所はザレ場になっていて最後まで雪が残り白馬に見えることから、白馬が消えると春が到来すると新居浜では云われていた。この銅山越の辺りを銅山峰と呼び、その南側に旧別子がある。
東平(とうなる)地区は、1916年(大正5年)から1930年(昭和5年)まで別子銅山採鉱本部が置かれていた。このような山中に、かつて多くの人が鉱業に従事し、その家族共々生活し、小中学校や神社まである「街」があったのかと信じられないように現在は山中に静まり返っているが、閉鎖された坑道や鉱物輸送用の鉄道跡や当時使われていた機器や住居跡の石垣が残っている。付近は再整備され、歴史資科館、保安本部跡を利用したマイン工房、メインの遺跡となった貯鉱庫と索道停車場の跡、花木園などがある。旧東平中学校跡地の銅山の里自然の家は使命を終え廃止され更地になっている。なお、『東洋のマチュピチュ』と称し観光客を呼び込んでいる。
端出場(はでば)地区は、採鉱本部が1930年(昭和5年)に東平地区から移転され、1973年(昭和48年)の閉坑まで使用された地区である。現在、ここにはマイントピア別子が整備されている。マイントピア別子では、鉱山鉄道敷跡を活かした観光用鉱山鉄道、火薬庫跡を活かした観光坑道などの地中展示施設のほか、砂金採り体験パーク、別子温泉~天空の湯~、売店・レストランなどを備えている。道の駅に指定されている。
地区の最奥には1915年(大正4年)に開通した端出場坑口と大立坑を結ぶ第四通洞があり、また対岸に、1912年(明治45年)に完成した端出場水力発電所(登録有形文化財)が現存している。その内部には水車発電機1基や周波数変換器3基などの電気機械が残っている機械エリア、別子銅山の歴史から発電所の役割や歴史的意義を解説している歴史エリアがあり、2023年3月28日より無料で一般公開されるようになっている。開館時間は9時(冬季は10時)から17時で、臨時休館あり。
筏津坑は赤石山系の南斜面に位置し、1878年(明治11年)に開坑され、最初は弟地坑(おとじこう)と呼ばれていた(弟地は付近の地名)。一時休止された時期もあったが、別子銅山の一支山として機能を果たしてきた。最初の坑口とは銅山川をはさんだ対岸に1940年(昭和15年)に筏津新坑口として開坑された坑口は1973年(昭和48年)の別子銅山閉山まで使われた。新坑口の近辺には、当時、社宅、クラブ、娯楽場、診療所、小売商店などが軒を連ね殷賑を極めていたが、閉山とともに人は去り静かな山に戻った。2019年8月より整備され、筏津坑に入って見ることができる。その斜面には、キレンゲショウマが7月後半頃咲く。
四阪島にも多数の産業遺産・遺構が存在するが、住友金属鉱山の私有地であり一般の人は許可なく立ち入ることはできない。
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