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出雲国を支配した国造 ウィキペディアから
出雲国造(いずものくにのみやつこ、いずもこくそう)は、出雲国(現在の島根県東部地方)を支配した国造。
その氏族の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ。
天菩比命之子、建比良鳥命 【此出雲國造无耶志國造上菟上國造下菟上國造伊自牟國造津嶋縣直遠江國造等之祖也】 — 古事記
天照大御神(アマテラスオオミカミ)
須佐之男大神(スサノオオオカミ)
また、武夷鳥命(タケヒナトリノミコト)、武日照命(タケヒナテルノミコト)、建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)、また、武三熊大人(タケミクマウシ)、大背飯三熊之大人(オホセヒノミクマノウシ)、出雲伊波比神(イヅモイハヒノカミ)、伊毘志都弊命(イヒシツヘノミコト)、阿太賀建熊命(アタカタケクマノミコト)と云ふ。 — 出雲国造伝統略
天穂日命(アメノホイノミコト)
皇祖天神の勅により天日隅宮の祭主となりしより、自後世々神火を継承し、畢生潔敬を異にする。継承にあたりては一昼夜を出でぬうちに、其の子神魂社に詣で神代霊器を用い神火を継承するを以って国造と為す。
天夷鳥命(アメノヒナトリノミコト)
出雲氏(いずもうじ、姓は臣)は、国譲りに応じた大国主神を祀るため、天日隅宮(あめのひすみのみや=出雲大社)の祭祀を担った天之菩卑能命(あめのほひのみこと)を始祖、その子神の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)を第2代とする。初めて出雲国造に任じられたのは『先代旧事本紀』(国造本紀)によれば第12代宇迦都久怒からであるが、千家家の伝承をまとめた『出雲国造伝統略』によれば第17代出雲宮向からであるという。後裔に土師氏が出ており、武蔵国造、阿波国造、伊甚国造、新治国造、上海上国造、下海上国造、千葉国造、山氏と同族。
第10代崇神天皇の条には、国造の祖の飯入根が兄の出雲振根に独断で神宝を朝廷に献上し、これに憤慨した出雲振根は、弟を水浴に誘って偽の刀とすり替えて騙し討ちした。天皇は吉備津彦と武渟川別を派遣して出雲振根を誅殺してしまったとされ、『国造本紀』には飯入根の子が出雲国造に任命されたと伝わる記事が見られるように、上古の出雲地方を中心に大きな勢力を誇った出雲氏が、ヤマト王権下において出雲国造に任ぜられたものである。
第12代景行天皇の条にも、小碓命(をうすのみこと、倭建命)が地名を名に負う出雲建(いずもたける)を殺した話[注 1]が見える。
国造制は7世紀半ばの大化の改新以後、全国的に廃止される方向に進み、『続日本紀』によれば第43代元明天皇の和銅元年(708年)に、忌部宿禰子首が新たに出雲国守に任ぜられた。これは、国造制から律令に基づく国郡里制に支配体制が移行したことを示す。しかし、出雲国造は紀伊国造などとともに、ごく一部の例外的な氏族として国造の称号存続を許され、『続日本紀』の第42代文武天皇2年(698年) 三月の条に、「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三親等以上の親族を続けて任用することを許す」との詔が記され、また、『類聚三代格』に「慶雲三年(706年)以来令國造帯郡領」とあって、律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗るとともに、出雲国東部にあたる意宇郡(おうぐん)の郡司の職に任じられていた。
意宇郡司職を支族に譲った後の出雲氏本家は、意宇郡から出雲郡杵築郷(現在の出雲大社周辺)に拠点を移し、国造本拠に鎮座した元々の国造奉斎社である意宇の熊野大社と併せて行っていた出雲大社における祭祀に専念するようになったと考えられている。その後、現在に至るまで、出雲大社の祭祀長を示す称号として出雲氏の子孫が出雲国造を世襲している。また、国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式が行われ、現在でも熊野大社との関係を維持している。
北島氏より枝分かれして、地方に複数の出雲大社所縁の神社が造られた。祭祀継承は、『古事記』・『日本書紀』と『出雲国風土記』、千家家が伝える系譜書『出雲国造伝統略』[1]に記されている。
国造の本拠は出雲国意宇郡であったと見られる。歴代の国造にも淤宇宿禰の名が見えており、律令時代も意宇郡司に任命されている。
国造の支配領域は当時出雲国と呼ばれた地域、後の律令国の出雲国に相当する。
国造の氏神は出雲国一宮の熊野大社。祭神は櫛御気野命とされ、須佐之男命の別名とされている。
出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は、南北朝時代に入るまで一子相伝であったが、康永年間(1340年頃)以降、千家氏(せんげし)と北島氏(きたじまし)の二氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになった。
南北朝時代の第53代国造・出雲孝時(いずも のりとき)は、子の六郎貞孝を寵愛し、国造を継がせようと考えていた。しかし、孝時の母である覚日尼(塩冶頼泰の娘、家系は宇多源氏[2])から「三郎清孝は病弱であるが兄であるので、後に貞孝に継がせるとしても、まず一時的にでも兄である清孝に継がせるべきだ」と説得を受け、清孝を後継者とした。その後、清孝が第54代国造となったが、やはり病弱であったため職務を全うできず、弟の五郎孝宗を代官として職務のほとんどを任せ、そのまま康永2年(興国3年/1343年)、国造職を孝宗に譲ることとした。これに対して貞孝は、自分に国造職を譲るのが本来であると猛烈に反発し、神事を中止し、軍勢を集めて社殿に立て篭もるなど、紛争状態となった。
事態を重く見た守護代の吉田厳覚は、清孝・孝宗側と貞孝側の両者に働きかけ、年間の神事や所領、役職などを等分するという和与状を結ばせた。こうして康永3年(興国4年/1344年)6月5日)以降、孝宗は千家氏、貞孝は北島氏と称して国造家が並立し、19世紀後半の幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していた。
明治時代には、千家氏・北島氏ともに華族に列して男爵として遇されたが、出雲大社自体は内務省神社局の傘下(社格は官幣大社)となり、千家氏は出雲大社教(いずもおおやしろきょう)、北島氏は出雲教と、それぞれ宗教法人を主宰して分かれ、出雲大社の宮司は千家氏が担った。戦後、神社が国家管理を離れた後は、出雲大社は神社本庁包括に属する別表神社となり、「宗教法人出雲大社教」の宗祠として、宮司は千家氏が担う。
※ 項名は『出雲国造伝統略』による。
奈良・平安時代の出雲国造は、その代替わりごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』を奏上する儀礼を行っていた。
儀式の次第は『延喜式』に記されており、それによれば、まず新しく国造となった者は朝廷に上って新任の式を行い、天皇から「負幸物」を賜る。その後、出雲に帰って1年間潔斎をした後、再び朝廷に上り、神宝・御贄を献って神賀詞を奏上する。そして出雲に帰ってまた1年の潔斎を行い、再び朝廷に参向して献物を捧げて神賀詞を奏上するという。
文献の記録では、霊亀2年(716年)2月に第23代国造出雲臣果安が奏上したとの記事(『続日本紀』)が初見であり、以後、天長10年(833年)4月の第35代国造出雲臣豊持による二度目の奏上(『続日本後紀』)まで15回の記録が見られる。しかしこれはあくまでも文献上であり、実際は最初の奏上が果安以前の国造であったり、最後の奏上が豊持以降の国造である可能性は高い。また神賀詞の内容や儀式の次第についても記録は延喜式制定時点のものであり、各代の奏上において同一ではなく、時代を追って変遷していると思われる。
奏上儀式の起源については、朝廷が古代の在地勢力による服属儀礼を、代表として出雲国造に命じて行わせたとする説や、出雲国造が自らの系譜を朝廷の神話体系の中に売り込むべく始めたとする説などがあり、定かではない。しかしいずれにしろ、この儀式は古代日本において他の国造に見られない出雲国造独特の儀式であって、記紀神話において出雲神話が非常に大きなウェートを占めていることや、国造制の廃止後も出雲国造が存続された理由とも切り離すことのできない儀式である。
なお、第84代国造千家尊祀は、国造を継いだ翌年の1948年(昭和23年)6月、宮中に参内して出雲玉造産の御統玉三種一連を献上し、古代以来の神賀詞奏上を行った。
火継式は出雲国造が代替わりの際に行う儀式であり、神火相続式とも呼ばれる。
前国造が帰幽(死去)した際、新国造は喪に服す間もなく、ただちに社内の斎館に籠もって潔斎した後、燧臼(ひきりうす)・燧杵(ひきりきね)を携えて、熊野大社に参向する。そして熊野大社の鑽火殿にて燧臼・燧杵によって火を起こし、鑽り出された神火によって調理された食事を神前に供えると同時に、自らも食べる。
その後、神魂神社において饗宴を受けた後、出雲大社に戻り、奉告の儀式を行い、火継式は終了する。この儀式にて鑽り出された神火はその後、国造館の斎火殿にて保存される。国造は在任中この火によって調理したものを食べるが、国造以外はたとえ家族であってもこれを口にすることは許されないという。
火継式の「火」は「霊(ひ)」であり、その火をもって調理されたものを食べることによって、天穂日命以来代々の国造の霊魂を自らの中に取り込むのだとされている。
出雲国造の神職装束で、他の神社にみられない伝統は下記の通り。
天照大神 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天忍穂耳命 | 天穂日命1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
瓊瓊杵尊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山幸彦 | 武夷鳥命2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鸕鶿草葺不合尊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
神武天皇 | 伊佐我命3 | 出雲建子命 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
綏靖天皇 | 津狭命4 [* 1] | 建弥己呂命 [* 2] | 美志印命 素賀国造祖[* 3] | 神狭命 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
安寧天皇 | 櫛瓺前命5 | 色多利姫 [* 4] | 伊奈久比命 津島県直祖 | 身狭耳命 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
懿徳天皇 | 櫛月命6 | 沙麻奈姫 [* 5] | 五十根彦命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孝昭天皇 | 櫛瓺鳥海命7 | 毛呂寸美命 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孝安天皇 | 櫛田命8 | 出雲久斯祢命 | 美都呂岐命 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孝霊天皇 | 知理命9 | 加布良古命 | 志努命 | 忍立化多比命 | 比奈良珠命 新治国造祖[* 6] | 比古曽乃凝命 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孝元天皇 | 世毛呂須命10 | 相賀津彦命 | 伊斯見命 筑紫出雲臣祖 | 須賀勢命 宍道直祖 | 兄多毛比命 无邪志国造祖[* 7] | 弟武彦命 相武国造祖[* 8] | 忍立毛比命 上海上国造祖[* 9] | 建御狭日命 高国造祖[* 10] | 息長命 [* 11] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
開化天皇 | 阿多命 | 小盾命 | 荒田比宿禰 无邪志国造 | 大鹿国直 菊麻国造祖[* 12] | 穴倭古直 大島国造祖[* 13] | 大八木足尼 伯岐国造祖[* 14] | 五十狭茅宿禰 (稚桜宮朝) | 伊己侶止直 伊甚国造祖[* 15] | 大瀧直 阿波国造祖[* 16] | 兄狭日直 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇神天皇 | 出雲振根11 | 伊幣根命 [* 17] | 甘美韓日狭命 | 宇乃遅命 置部臣祖 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
垂仁天皇 | 美止耶命 朝原臣祖 | 宇迦都久怒命12 | 比須良比売命 息長命妻[* 18] | 伊賀曽熊命 若倭部祖 | 野見宿禰 土師氏祖 | 伊己美足尼命 大智直祖 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
景行天皇 | 比和耳命 品治部臣祖 | 襲髄命13 | 飯持命 | 乙布古命 | 岐須美命 | 美気姫[* 19] | 美尼布命 二方国造祖[* 20] | 出雲笠夜命 島津国造[* 21] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 岐多志古命 財部臣祖 | 来日田維穂命14 | 久多命 | 美多味命 | 宇気 | 某 後裔神門郡大領 | 古禰 建部臣祖[* 22] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仲哀天皇 | 三島足奴命15 | 乙名久志媛命 [* 23] | 櫛万呂足奴命 [* 24] | 穂津古 刑部臣祖 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
応神天皇 | 阿米咋命 [* 25] | 意宇足奴命16 | 大嶋古命 大嶋古臣[* 26] | 布須 海部臣祖 | 佐比禰 額田部臣祖 | 迦具漏 吉備部臣祖 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
若野毛二俣王 | 枳波美 | 宮向足尼命17 | 阿用足尼命 刑部臣祖 | 熊万呂命 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大郎子 | 布奈臣18 | 阿由 [* 27] | 菟臣 勝部臣祖 | 末奈臣 [* 28] | 加佐 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乎非王 | 布禰臣19 | 多伎古 | 志支古臣 | 都牟 | 伊波主 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
彦主人王 | 出雲意波久20 | 石足 | 真木山臣 | 久志 | 万米 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
継体天皇 | 出雲美許21 | 千野 | 忍伎臣 朝山氏祖 | 大万呂 | 布支麻呂 若倭部臣 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
欽明天皇 | 出雲叡屋22 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敏達天皇 | 出雲帯許23 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
押坂彦人皇子 | 出雲果安24 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舒明天皇 | 出雲広嶋25 | 出雲弟山26 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
天智天皇 | 出雲益方27 | 出雲国上28 | 出雲国成29 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
施基皇子 | 出雲人長30 | 出雲兼連32 | 出雲千国31 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光仁天皇 | 出雲旅人33 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
桓武天皇 | 出雲豊持34 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
嵯峨天皇 | 出雲時信35 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
仁明天皇 | 出雲常助36 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光孝天皇 | 出雲氏弘37 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇多天皇 | 出雲春年38 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
敦実親王 | 出雲吉忠39 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源雅信 | 出雲国明40 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源扶義 | 出雲国経41 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐々木成頼 | 出雲頼兼42 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐々木章経 | 出雲宗房43 | 出雲兼宗44 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐々木経方 | 出雲兼家 | 出雲兼忠45 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐々木季定 | 出雲兼経46 | 出雲宗孝47 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐々木秀義 | 出雲孝房48 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐々木義清 | 吉田厳秀 | 出雲孝綱49 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
佐々木泰清 | 出雲政孝50 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
富田義泰 | 塩冶頼泰 | 高岡宗泰 | 出雲義孝51 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高岡宗義 | 塩冶貞清 | 覚日尼 | 出雲泰孝52 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高岡師宗 | 塩冶時綱 | 塩冶高貞 | 出雲孝時53 | 平岡貞孝 | 東孝景 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高岡重宗 | 大熊宗泰 | 出雲清孝54 | 千家孝宗55 | 北島貞孝55 | 平岡高孝 | 東時孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高岡高重 | 大熊氏貞 | 千家直国56 | 北島資孝56 | 平岡経孝 | 東景高 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大熊氏弘 | 松女 | 北島幸孝57 | 平岡国経 | 東貞頼 | 高岡貞重 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家高国57 | 北島高孝58 | 平岡直経 | 東高頼 | 高岡重頼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家持国58 | 赤塚正時 | 北島利孝59 | 稲岡宣孝 | 高浜良孝 | 平岡直孝 | 東安頼 | 高岡重泰 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家直信59 | 赤塚正国 | 北島三郎 | 北島雅孝60 | 高浜友孝 | 平岡直清 | 東安通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家高俊60 | 千家高勝62 | 赤塚時信 | 北島時孝 | 北島秀孝61 | 千家直勝63 | 千家慶勝64 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家豊俊61 | 赤塚一信 | 北島安孝 | 千家義広65 | 東慶澄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
赤塚長信 | 北島久孝62 | 東貞信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家元勝66 | 北島広孝63 | 佐草自清 | 東延俊 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家尊能67 | 北島晴孝64 | 千家宗敏71 | 千家尊房69 | 千家直治70 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家尊光68 | 北島恒孝65 | 千家豊昌73 | 千家豊実74 | 東貞通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
千家広満72 | 北島兼孝66 | 北島道孝67 | 久山元孝 | 千家俊勝75 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島直孝68 | 八倉元理 | 千家俊秀76 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島惟孝69 | 八倉和孝 | 千家尊之77 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島明孝70 | 北島起孝72 | 北島従孝73 | 千家尊孫78 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島宣孝71 | 北島全孝74 | 千家尊澄79 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島脩孝75 | 千家尊福80 | 千家尊紀81 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島斉孝76 | 千家尊統82 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島貴孝77 | 千家尊祀83 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島英孝78 | 千家尊祐84 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島建孝79 | 千家国麿 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北島大孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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